第95話 問題ではないわ
天使教の教会の外壁にぶち当たり、ベチャリと地面に崩れ落ちるラガエル。
白目をむき、口や鼻から血を垂れ流しながら冷たい地面に横たわることしかできなかった。
腹部を蹴られたダメージは、甚大なものだった。
柔らかい臓器を守るための骨は何本も折れてしまっているし、その臓器だっていくつかダメージを受けている。
だから、顔面を殴られて歯が折れたとき以上の出血を、口からしているのである。
「ぁっ……げぽっ……」
ただ、力なく塊のような血を吐き出す。
ラガエルが死ななかったのは、ひとえに天使という種族であって、人間ではなかったからである。
彼は人間を下に見て勝ち誇っているが、確かに頑丈さで言えば天使の方が上だった。
だが、ここで死んでおけば、こんな苦しい思いをしなくて済んだだろう。
「ぁ……い、ぎ……」
ポロポロと涙がこぼれる。
泣きたくない。人間なんかの前で、弱みを見せたくない。常に強く、凛々しい姿を見せておきたい。
でなければ、この騒動が終わったあとの天使教の信仰にも影響してくるからだ。
しかし、ラガエルは我慢できなかった。
圧倒的な恐怖。力の差。身体に叩き込まれた苦痛。
それらは、彼にとってほとんど初めての経験であった。
一気にそのような経験したくもないことを叩き込まれれば、誰だって心を折るだろう。
それでも、心を折っていないラガエルは、流石の一言である。
「ななじいいいいいいいいいいいいいい!!!!」
ラガエルの言葉に応えるように、彼のラッパで召喚された終末の化け物がアリスターに襲い掛かる。
彼には核があり、それが破壊されない限りはラガエルの命令通りに動いてアリスターを追い詰め続けるだろう。
触手が伸びて、彼の腕にグルグルと巻き付く。
まるで、大蛇に締め付けられているかのように物凄い力で絞られ、しかもそれは毒を持っている。
しかし、それを何ともないように紅い目で捉えると……グッと触手が巻き付いていない方の手を空に掲げた。
『ぬわああああああああああ!?』
すると、放置されていた聖剣が彼の手に向かってグルグルと周りながら飛んできて、がっちりと柄を掴まれる。
アリスターはその掲げた聖剣を振り下ろした。
「きゃあああああああああああああああ!?」
ドン!!!! と地響きと爆風が発生した。
ナナシに向かって振り下ろされた聖剣は、アリスターが纏っている禍々しい瘴気を溢れさせる。
何があっても放しそうになかった触手は、あっさりと吹き飛ばされた。
それどころか、ナナシの全体が八方に飛び散ってしまっている。
轟々と流れる黒い魔力に、悲鳴が上がる。
「嘘、だろ……? アリスターって、こんな力を持ってたのか……?」
ようやく目を開けることができたエリザベスは、愕然と呟く。
アリスターが振り下ろした地面は、激しい地割れが起きていた。
巨大なヘドロの塊だったナナシは、四方八方に飛び散って見るも無残な姿に変わり果てている。
終末の化け物が、こうもあっさりと潰されていた。
『えぇ……なにこれ? これって、アリスターなの?』
「いや、あんたが一番分かるでしょ。なにこいつ? 急に中二病にでもなったの?」
『わ、わかんない。ナナシの中に取り込まれた時点で、もうダメだと思ったし』
「諦めがいいのね、意外と」
マガリはアリスターが正常ではない今、唯一聖剣と話すことができる。
傍から見るとブツブツひとりで話しているようにしか見えないのだが、幸いにして異形の様相を見せているアリスターに注意が向けられているため、彼女を気にする人は誰もいなかった。
「で? どうなの?」
『……本当にわからないんだ。僕とアリスターは魂レベルでつながっているんだ。だから、彼が考えていることやしようとしていることを悟ることができるんだけど……』
「……それができないの?」
『うん』
それを聞いて、考え込むマガリ。
ということは、今のアリスターが少なくとも普段の性格と意識を持っているとは考えられない。
『とにかく、僕はアリスターを元に戻せるか尽力してみるよ。クズな彼だけど、今の状態が良いとは思えないからね』
「そう。頑張って」
『あれ? 手伝ってくれないの?』
「馬鹿じゃないの? 私からすれば、アリスターが正常じゃない方がありがたいのよ。もう私の本性を知っていたり、陥れたりしようとする人がいなくなるのだから」
ふふんと薄い胸を張るマガリ。
その様は、アリスターに懐いているエリザベスが見れば怒り狂うだろう。
しかし……。
『じゃあ、何で逃げなかったの?』
「…………」
『別に、君一人だったらこっそり逃げることだってできていただろう? 自分のことだけを考えて、アリスターを亡き者にしようとしているんだったら、そうすることが普通だし最善じゃないかな?』
「…………」
『それなのに、君はここに残っている。ということは……』
「いいから、さっさとアリスターとあの化け物を何とかしなさい」
まだ続けようとする聖剣を、目だけで殺してしまえそうな冷たいまなざしで見据えるマガリ。
無機物なのに、根源的な恐怖を抱いた聖剣は、それ以上言うことはなかった。
『普段だったら、僕がアリスターを操るんだけどね。今の彼には必要ないみたいだし、僕は彼が変貌した理由を探ろうかな……』
そう言っていた聖剣に、アリスターの身体に纏う禍々しい瘴気が巻き付いて行く。
すると……。
『うっぎゃああああああああああああああああああああああああああ!? し、浸食されるううううううううう!? 僕という概念が塗り替えられていくうううううううううううう!?』
もだえ苦しむ聖剣の絶叫が響き渡った。
マガリはとくに心配はしていないのだが、その声量にビクッと肩を震わせる。
『何かアリスターと出会った時のことを思い出すよおおおおおおおおおお!!』
「知らないわよ」
聖剣は、アリスターと出会った時のことを思い出していた。
あの時、自分はこのような黒々とした剣ではなく、白く美しい聖剣だった。
決して魔剣と間違われるような見た目ではなかった。
それが、このような禍々しいものに変わったのは、アリスターに掴まれて魂レベルでつながってからである。
『でも、だから分かったよ。これは、別にアリスターが特殊な存在に身体を侵されているとかじゃない。これは、アリスター自身だよ!』
「はあ?」
首を傾げるマガリ。
何が言いたいのか、さっぱりわからない。
『つまり、この禍々しい瘴気は、アリスターの内面性からにじみ出てくるものだ! 彼はもともとドクズで、人の風上にも置けないような男だけど、そのすべてを内面に隠して一切表に出していなかった! マガリと同じように!』
「余計なこと言わなくていいわよ」
唾を吐きそうなほど荒んだ表情を浮かべるマガリ。
どちらかと言うと、演技力だけで言えばアリスターの方が上だ。
それはともかく、二人はお互いに素をぶちまけあっていたので、ある程度のストレス処理はできていたのだろう。
だから、マガリがこのような変貌を遂げるとは考えにくい。
しかし、マガリとアリスターのどちらがストレスと精神的なダメージを受けてきているかと言うと、おそらく後者だろう。
マガリも王城にいて聖女としての教育を詰め込まれ、面倒くさいエリア王子やヘルゲのアプローチを上手い具合に流さなければならないので、確かにストレスはある。
しかし、アリスターは命を懸けた戦闘というものを強制されている。しかも、他人のためのものだ。
自分のためなら上手く飲み込むことができたかもしれないが、それが他人のためとなると、性格がドブ以下の彼にとっては強い不満と精神的な負担を生む。
『だから、これはアリスターの素の状態と言うことができる! 今までのストレスで鉄壁とも思えた彼の内面の壁が崩壊し、彼自身の負の感情が溢れ出しているんだ!!』
「こんな化け物みたいな力を発揮できる負の感情って……あなた、どれほど性格悪いの……」
流石にマガリも引いた模様。
「じゃあ、とくに何かする必要はないの?」
『ないんじゃないかな。怒りとか恨みって、それをぶちまけたら少し薄れるでしょう? 今回、アリスターはそれをぶちまけている状態なんだよ。だから、しばらく暴れさせたら、いずれ元の彼に戻ると思う』
「そう」
ホッと息を吐き出すマガリ。
別に、アリスターのことは心配なんてしていないのだが、なんとなく息を吐いただけである。他意はない。
『問題と言えば、僕がこの状態の彼に使われ続けるということだね。さっきも言ったけど、魂レベルでつながっているから、彼の溢れ出した負の感情が流れてきてヤバいんだよね。何か根源を塗り替えられていく感覚があるし、このままだと僕が死ぬ……』
「それは問題ではないわ。適当に頑張りなさい」
『問題だよ! 助けてよ!!』
聖剣のことはどうでもいいので無視である。
そんな時、ナナシが再び復活しようとしていた。
飛び散らせたヘドロが自然と集まって、形作ろうとしている。
この戦いは、もうすぐ終わろうとしていた。




