第92話 終わり
「がはっ……!?」
アリスターが吐血する。吐血するなんて経験は、生まれて初めてだった。
彼の身体は、触手が分裂して生まれた棘によって貫かれていた。
それも、複数である。幸い、触手を変形させたのもかなり無理があったのか、それほど長く太くもないので、致命傷とは言えない。
だが、間違いなく重傷ではある。
「(ほdぶえrぺかうえんdkchrじぇいえjさけl!?)」
それゆえ、アリスターは発狂していた。
身体を貫かれる激痛に、彼の精神が耐えられるはずもない。
それでも、表に情けない姿を出さないのは、もはや意地である。
「(な、なんじゃ!? なんじゃこれはあああああああああああああああああああああ!? どうして俺が突き刺されてるの!?)」
『刺されたから!』
「(元気に答えてんじゃねえ!!)」
『ごめん! 余裕ない!』
こうして怒鳴り合っている間にも、ナナシの触手は命を奪おうと襲い掛かってきていた。
しかも、アリスターを傷つけ血を吸ったからだろうか、嬉々としてその数と勢いを増しているような気さえしていた。
切り払うことも、受け止めることもできない。
そんな状況で、聖剣は必死にアリスターを生かすために身体を動かしていた。
彼自身内心では元気よく聖剣を罵倒しているのだが、その余裕はまったくない。
今までの肉体的疲労、魔力消耗の疲労、苦痛やダメージという慣れない精神的疲労……それらは今もなおかなり蓄積しており、彼の動きに大きな影響を与えている。
アリスターの全身には、棘で貫かれた出血が見て取ることができ、動くたびにポタポタと地面に血の滴を垂らしていた。
「やべえ……! 回復しねえと……!」
エリザベスは自身の危険を顧みず、戦闘の渦中に飛び込もうとする。
自分自身もかなり疲労しているというのに、アリスターを助けんとする。
「やめときなさい。今のあなたが行ったところで、足手まといになるだけよ」
そんな幼い彼女をとめたのが、隣に立つマガリである。
確かに、エリザベスは子供ということもあって、天使教徒たちから追い回されたことから始まり、ルボンに回復魔法をかけつづけたこともあって、かなり疲労している。
戦闘の心得もない彼女が激しい攻防を繰り広げているあの中に入ったところで、一瞬で触手の餌食になる未来しか想像できない。
「なんで……あんたは心配じゃねえのかよ!?」
「心配よ(アリスターが倒された後の私の身が)」
マガリは平常運転である。
切羽詰った表情で詰め寄ってくるエリザベスにも、冷静に対応する。
「(しかし、どうしたものかしらね? このままアリスターが戦い続けても、おそらく勝てる見込みもないわ。じゃあ、どうするか……)」
マガリはチラリと集まっている天使教徒たちを見る。
「(彼らを扇動してアリスターに加勢させる?……難しいわね。私たちを捕らえた異端審問官たちなら戦闘のプロだから戦えるでしょうけど、彼らはもう再起不能になっている者しかいないし……。戦闘方法を知らない彼らを盾にしてアリスターの回復時間を稼ぐという手もあるけれど……聖剣もどきが納得しないでしょうし、それに……彼らに私の声が届くとも思えないわ)」
天使教徒たちは、自分たちが信じるべき存在の辛辣さに、愕然としている。
生きる糧、心のよりどころだった存在に手駒としか思われていなかったと知れば、狂信者ぞろいの天使教徒たちがそうなるのも当然かもしれない。
そんな茫然自失としている時に、天使教とは無関係のマガリが声をかけたところで、彼女に耳を傾ける者はいないだろう。
「あれ? これ、本当に詰んだのかしら?」
「はぁ、はぁ……!」
マガリが焦りで冷や汗を浮かばせた頃、アリスターは非常に荒々しい息を吐いていた。
目は虚ろとしているし、身体はフラフラとし始めている。
もはや、限界であった。
体力的にも、ダメージ的にも、精神的にも……どれも、アリスターの限界を超えていた。
避けることもままならない。痛みを耐えることもできない。消耗した精神を回復させることもできない。
……アリスターは、死の直前に立っていた。
『しっかり! 君しか戦えるのがいないんだから!』
そう聖剣が声をかける。
他人のために戦わせようとしたら、また怒りの声が戻ってくると思ったからだ。
どのような理由であれ、大きな感情は身体を動かす原動力になり得る。
そう思っての言葉だったが……アリスターから返答されることはなかった。
「はぁ、はぁ……!!」
『アリスター……?』
アリスターは……彼は、本当に限界だった。
それは、苦痛に慣れていないから痛みや苦しみに弱いということももちろんあるが、それ以上に……。
「(……何でこんなにボーっとするんだ? しんどいんですけど)」
視界がひどく狭まっている気がする。
黒い靄がかかったような状態で、迫りくる触手もおぼろげだ。
幸い、身体を動かしているのは聖剣だからまだ大丈夫なのだが、これが彼自身の意思で動かそうとするとなると、歩くことすらままならないかもしれない。
耳も遠くなり、ギュルギュルと迫る触手の音も聞きとりづらい。
はぁはぁという、自分の発する荒い息だけが脳内に響き渡る。
「ごふっ……」
その時、粘り気のある咳を発するアリスター。
口を手で抑えてみれば、そこには血がべっとりと付着していた。
『毒か!』
聖剣の悲鳴のような声が響く。
ナナシの触手には、毒があった。棘として体内に侵入を許してしまったアリスターに、置き土産として残して行ったのだ。
「……まあ、あれが綺麗なものでできているとは到底思えないけどな」
自嘲気味に笑うアリスター。
ナナシの毒々しいヘドロの塊といった見た目を考えれば、毒くらい持っていても不思議ではない。
「(ただ、死ぬのは……死ぬのだけは、絶対に回避する……! たとえ、誰がどれほど死のうと……俺だけは……生き延びてみせる……!)」
『クズみたいな考えだけど、頑張れ!』
まるで、ゴキブリのような生命力を発揮するアリスター。
心身ともに激しく疲労し、毒にも犯されているこの状況で、彼はなおも生に執着してしがみつこうとしているのである。
それこそ、強力なナナシの毒までも克服しかけるほどに。
しかし……。
「あまりにも無防備だな」
「……あ?」
冷たいラガエルの声が聞こえると同時に、ドッとアリスターの身体が前に揺れる。
なかなかの衝撃を受けて、目を丸くする。
そして、その大きくなった目は、自身の腹部を貫通する槍を見ていた。
それは、先ほどルボンを貫いた槍であり、まさにそのシーンを再現しているかのようだった。
「はぁぁ……」
ガクリとアリスターは膝をついた。
全身から力が抜ける。激痛も、幸いにして感じることはない。
ただ、大切なものが急激に薄まって減っていく不思議な感覚だけを持っていた。
『アリスター!!』
聖剣が警戒を促す声を上げる。
顔を上げれば、ヘドロの塊であるナナシが眼前に現れていた。
その生ごみのような酷い臭いに、一瞬顔を歪める。
だが、普段だったら悲鳴を上げて全力で逃げ出すような状況下にあっても、アリスターは動くことすらできなかった。
「アリスター!!」
エリザベスが悲鳴を発するように名前を呼ぶ。
父であるルボンを殺され、そのすぐ後に自分に自由を与えてくれたアリスターまで失うなんてことになれば……耐えられないだろう。
だから、立って。逃げて。
「終わりだ」
エリザベスの悲痛な思いを引き裂くように、ラガエルの冷たい言葉が響く。
それに応えるように、ナナシのヘドロの身体がぐわりと開いた。
人を……大人の男を簡単に飲み込むことができるほど、歪にナナシのヘドロが蠢く。
そして、アリスターは抵抗することすらできず、ナナシの体内に取り込まれたのであった。




