第91話 もうダメじゃん
「来い」
聖剣を構え、格好よく宣言するアリスター。
本当は来てほしくないのだが、戦うのであれば格好つけて評価を上げておこうと考えた結果の言葉である。
実際、父を殺され目を涙で濡らしていたエリザベスが、すがるように彼を見ていた。
子供を騙して評価を上げるクズである。
「馬鹿か? 私が……天使であるこのラガエルが、貴様のような人間風情と直接槍を合わせるとでも思ったのか?」
「(マジですか? やったぜ)」
ウッキウキになるアリスター。
しかし、ではどうやって自分と戦うというのだろうか?
見逃してくれたら嬉しい、と考えていたが……まあ、そんな嬉しい展開になるはずもなかった。
「なんだ、それ……?」
ラガエルが懐から取り出したのは、簡素な楽器……ラッパだった。
アリスターは怪訝そうに顔を歪めるが……。
「あ、アリスター! もしかしたら、結構ヤバいかも!」
「は?」
本来、決して自分に助言せず、むしろ陥れるようなことしか言わないマガリのはずなのだが、そんな彼女が切羽詰ったように注意を促してくるのである。
それは、アリスターを唖然とさせ、またラガエルのラッパに対する警戒心を最大にするには十分だった。
しかし、どれほど警戒しようと、どれほど注意を払おうと、ラガエルは……そのラッパは防ぎようがないものだった。
響き渡るのは、パー……という何の情緒もない平坦なラッパの音色であった。
曲ではない。ただただラッパを吹いただけであり、なんの音楽性も存在しなかった。
それゆえ、聞く者に何かを訴えかけることはないはずだった。
だが……そのラッパの音を聞いたアリスターは、ここにいるラガエル以外の全ての人は、身体全体から力を抜いて愕然としていた。
その楽器の音色は、全てを無に帰すような、そんな無慈悲とも理不尽とも言えるような何かを訴えかけてきていた。
そして……その化身というべき存在が、この世界に誕生した。
「――――――」
その生まれたものは、鳴き声を発することはなかった。
いや、発しているのかもしれない。だが、人間には聞き取れないのだ。
生み出されたものは、決してこの世に存在してはいけないもの。
本来であれば、決して存在していないものなのだ。
それを、ラガエルはラッパで生み出した。
「それに名前はない。だが、名づけると……そうだな、ナナシでいいんじゃないか?」
興味なさそうに、ラガエルはそう命名した。
それは……ナナシは、人の形をしていなかった。それどころか、生き物の形ですらなかった。
たとえば、魔物でも生きているのであろう形をとっている。
それは、ゴブリンやオーガのように人に近い形をしているものもいれば、ドラゴンなどのように人とはかけ離れた形をしているものもいる。
だが、皆形を持っており、生命を宿していることが理解できる生物である。
しかし……。
「――――――」
その生み出されたナナシには、それがなかった。
なぜなら、それの身体はヘドロのようなドロドロとした液体で構成されていたからだ。
「(もう嫌な予感しかしないじゃん。どうすんのあれ? っていうか、なにあれ?)」
『わからない。だけど……あれは、生み出されていいものではない。この世界に存在していいものじゃない……』
「(え、なにその怖い評価……。マジでマガリとエリザベスを盾にして逃げないといけないじゃん)」
「さあ、ナナシ。その男を殺せ。終末の化け物……その力を見せてやれ」
「――――――」
ラガエルの言葉に、何か応えたのだろうか?
しかし、やはりアリスターをはじめとした人間たちは、その言葉を聞きとることができなかった。
そのように理解できずとも、ナナシは動き始める。
ヘドロのような身体がボコボコと泡立ち……。
「おぅっ!?」
ギュルルル! と唸りを上げてヘドロから飛び出してきたのは、毒々しい色をした触手だった。
それは、いくつにも別れて、凄まじい勢いでアリスター目がけて迫ってきた。
本来であれば為すすべなく囚われて触手プレイに突入していただろうが、彼の身体を操るのは聖剣である。
余裕をもって……とはいかなかったが、しかし避けることに成功する。
対象であるアリスターに避けられてしまったのだが、その触手はぐるりと反転すると再びアリスターに襲い掛かる。
「(どんだけ触手伸びるんだよ!?)」
ギュルギュルと際限なく身体から触手を伸ばし続けるナナシに、アリスターは驚愕する。
その攻撃を全て避けるのだが……やはり、限界が近づいてくる。
そもそも、今までの戦いや動きでアリスターの身体が大きく疲労し消耗していることが大きな理由の一つである。
いくら聖剣が動かそうとしたとしても、その身体が限界を迎えれば動きだって当然鈍る。
また、ナナシの身体から発せられる触手の数の多さも理由の一つだった。
一つや二つの触手ならまだしも、十や二十といった膨大な数でしかもそれぞれが自由に動いて上下左右から襲い掛かってくるものだから、圧倒されるのも当然だろう。
「(だけど、あれに捕まるのだけは止めろよ! 触手プレイは嫌だぞ!!)」
『分かってるって』
アリスターの身体が囚われてあれな光景なんて、誰も見たくない。
いや、なまじ外見は整っているし、その腐った本性を知っているのはほとんどいないため、女性人気はありそうだが……。
しかし、聖剣は見たくないし、マガリは弱みを握ろうと何かしらの手段でその光景を残そうとするだろうから、二人の意見は合致していた。
とはいえ、このまま避け続けるのはアリスターの体力的に限界なので、聖剣を振るって触手の脅威を排除する。
ギュル! と襲い掛かってくる触手はかなり硬度もあるのだが、聖剣の切れ味によって見事断ち切ることに成功する。
だが、それは悪手であった。
「ぐわっ!?(うあっちゃあああああああああああああああああああああああああ!?)」
触手の切断面から毒々しい色の液体が飛び散り、その一部がアリスターの腕にかかった。
すると、ジュワっという音と共に煙が上がり、彼の腕が焼けただれたのである。
せっかくエリザベスに治療してもらった腕に重傷を負い、内心とてつもない悲鳴を上げるアリスター。
『溶解液か! 体液がそういう類のものもいるけど、まさかこれがそうだったとは……!』
「(分かってたんだったら注意しろやぁ! 俺の身体使うんだったら、慎重に慎重を重ねて戦うんだよ!!)」
斬り飛ばされた触手を再生させ、再び襲い掛からせるナナシ。
たとえ斬られたとしても、大したダメージにもならないようだ。
これで、アリスターはまさに手も足も出ない状況に陥った。
相手の手数が圧倒的であり、しかも下手に反撃すれば甚大なダメージをこちらが負うことになる。
仕方なく、アリスターはただ避け続けることしかできなくなる。
だが、こんなことを続けていれば、彼の体力が底をついて触手に絡め取られることになるだろう。
それゆえに……。
「ぶっとべ……!!」
その言葉は、アリスターの心から出たものだった。
ゴウッと唸りを上げて聖剣にまとわりつく禍々しい魔力。
それは、人間よりも上の次元にいる超常の存在であるラガエルですらも、目を見開くほどのものだった。
アリスターのなけなしの魔力全てを注ぎ込んだ、最後の攻撃。
「『邪悪なる斬撃』!!」
「――――――」
ナナシは脳を持たず、意思もない。
だが、その攻撃が自身にとって危険であることは理解した。
ありとあらゆる場所に伸ばしていた触手を一気に回収し、ヘドロの身体を守るために盾とする。
そして、そんな防御態勢を整えたナナシを、黒い魔力の奔流が飲み込むのであった。
「魔剣か。異質な力を使う勇者だな。今までの勇者は、聖剣を使っていたはずだが……」
ラガエルは空中から驚きの表情でアリスターを見る。
魔剣は扱うのが難しく、また大きな代償を伴うものだが……その分、使いこなすことができれば大きな力をもたらす。
アリスターは、見事に使うことができているようだ。
その精神力と技能は称賛に値するだろう。
「だが……その程度で終末の化け物を倒すことができると考えているのであれば、甘すぎる」
ラガエルの言葉の直後、黒い魔力が消えた後に残っていたナナシは、一切損傷を受けていないようだった。
いや、もしかしたら受けているのかもしれないが、確かにそれはそこに存在し続けていた。
「えぇ……」
絶望するアリスター。
それは、彼が初めて演技せずに表に出した負の感情だったかもしれない。
「(もうダメじゃん)」
思わぬ反撃を受けた怒りだろうか、ナナシの発する触手の数も倍増。
それらが一気にアリスターに襲い掛かった。
『諦めないで!』
「(いや、無理っす)」
必死にアリスターの身体を動かして鼓舞する聖剣。
しかし、もう心の根元をぽっきりと折られた彼は、立ち直ることができなかった。
まあ、それでも絶対に死ぬのは嫌という意思は変わらず、生への執着は未だ並々ならぬところがあったので、大丈夫である。
だが、確かに彼の精神は……心の部分は大きな亀裂が入っていた。
ギュルギュルと襲い来る触手。それに対して、ナナシに対して、有効な手立てが何もなかった。
もはや、魔力の斬撃での攻撃はできない。
近づこうにも、大量の触手がその行く手を塞ぐ。
触手を切り捨てることも、溶解液を噴き出すためにできない。
「うわ……マジで詰んでるんじゃないかしら……」
「嘘だろ……? あのアリスターが、こんな一方的に……」
マガリとエリザベスが呆然とした声を発する。
なお、前者は何とか逃げる算段をつけ始めているのだが、天使教徒たちという人の目もあってなかなかうまくいっていないようだ。
「くっ……!」
アリスターの脚がもつれ始める。体力の限界だ。
そこで、聖剣は避けることを最小限にし、また剣で触手を切り捨てることなく受け止めることにした。
そうすれば、溶解液を発せられることなく、その場をしのぐことができる。
ただ、打開策は何もないのだが。
『力も強いな……!』
ガキン! と当たった触手と聖剣。ヌメヌメとしたヘドロでできているとは思えないほど硬質な音を響かせる。
さらに、受け止められた状態でもギリギリとアリスターの身体を押すほどの力があった。
『だけど、これならなんとか……!』
一時的な対応はできた。
しかし、問題はこれからだ。あのナナシを……終末の化け物を、どうやって倒すか。
そう考えていた聖剣であったが……。
「それはダメだな、勇者。失敗だ」
ラガエルは冷たく見下ろし、そう呟いた。
それに応えるように、聖剣で押さえていた触手がうぞうぞと蠢き……。
「……ッ!?」
その表面から棘のようなものがブワッと形成され、アリスターの身体を貫くのであった。




