第66話 不快な勘違い
「はふぅ……」
温めたお湯につかりながら、マルタは心底気持ちよさそうな声を漏らした。
ここは、人魚の集落の近くにある温泉である。
陸地からでは赴くことができず、しかし海からでは人魚たちが幻惑させてしまうために向かうことのできない、まさに秘湯である。
人魚たちしか利用しないその場所に、マルタはいた。
海水に常に浸っている印象のある人魚だが、彼女たちも温泉に浸かって気持ちがいいという感覚は持ち合わせていた。
「んー……」
ぐぐぐっと伸びをすれば、適度に膨らんだ胸が小さく揺れる。
水滴とは違う汗が流れ、瑞々しい肌が露わになる。
お湯によって火照った身体は赤く染まり、端正に整った顔がポッと赤らんでいるのは、どこかキリッとした気の強さを感じさせるマルタにも可愛らしいという印象を与えていた。
「あぁぁぁ……気持ちいいわ。まさか、こんないい場所があるなんてね」
「えへへ」
そして、そんな蕩けるような声を発しているのが、マルタと同じく温泉に浸かっているマガリである。
彼女も普段は決して見せないような、油断しきった表情を見せている。
アリスターであれば、たとえ温泉に浸かっていたとしても決して油断をしないことから、二人の間の演技力の差がうかがえる。
マルタと違って長い黒髪を持つマガリは、上の方でまとめて湯に浸らないようにしている。
いつもニコニコ笑っている彼女の姿は知っているが、こんな無防備な笑顔を見せてくれたことによって、マルタは何だか嬉しくなってしまう。
マルタよりも小さな胸は、残念ながら揺れることはなかった。
しかし、髪をまとめ上げることによって見えるうなじの色気というものは、非常に大きなものであった。
マルタも自分のことは棚に上げ、羨望のまなざしを向ける。
「でも、いいんですか? 私が先に使わせてもらって……。他の人魚の方々が先の方がいいのでは……?」
近くにマルタがいることを即座に思い出したマガリは、猫をかぶって他人を思いやる発言をする。
もちろん、自分が一番風呂であることを望んでいるが。
「いいのいいの! 聖女様はアリスターと一緒にお姉さまを……僕たち人魚を救ってくれたんだから!」
「そんなこと……(ふふん)」
謙遜しつつ、中身ではない胸を張るマガリ。
ちなみに、だいたいの事態を解決したのは聖剣に操られたアリスターだったことから、褒められるべきは聖剣なのかもしれない。
「ねえ、聖女様。聖女様はアリスターと付き合いが長いの?」
「そう、ですね。腐れ縁のようなものかもしれません(一刻も早く縁を切りたくて仕方ないんだけどね)」
「そ、そっか。じゃ、じゃあさ、アリスターがどんな感じだったのか、教えてくれないかな?」
「え?」
マガリが目を丸くしてマルタを見れば、彼女の頬は温泉が原因ではない赤で頬を染めていた。
「あら、もしかして……」
「い、いいいいや! そうじゃないんだけど……!」
「(わっかりやす)」
顔を真っ赤にしてお湯をばちゃばちゃさせながら手を振るマルタに、マガリが白けた目を向ける。
「(しっかし、趣味悪いわねぇ。あんな性悪男に引っ掛かるなんて……。私は絶対にないわ……)」
けっとマルタからは見えない位置で顔をしかめるマガリ。
しかし……。
「(まあ、あいつに惚れる女を増やした方が、あいつの思い通りになることはないから応援するわ)いいですよ。もちろん、話させていただきます」
「本当!? ありがとう!」
ニッコリと可愛らしい笑顔を見せるマルタに、マガリはまた浄化されそうになってもだえ苦しむ。
マガリとマルタがアリスターの話題で盛り上がっているその時であった。
「ちっ。あいつら、何度も謝ってきやがって……。全然リラックスできねえんだよ……」
小さな声でぶつぶつと言いながらお湯をかき分ける音が聞こえてくる。
幸い、その乱暴な声は真剣にマガリの言葉を聞いていたマルタの耳に届くことはなかった。
しかし、ザブザブとお湯をかき分ける音だけは聞こえたので、そちらに二人の視線が向いた。
湯煙の中から現れたのは……。
「「げっ」」
「アリスター!?」
やはりと言うべきか、アリスターであった。
顔を合わせたとたん、アリスターとマガリは心底嫌そうな顔をするのが相変わらずである。
マルタは顔を真っ赤にして、一気に後ずさったが。
「ど、どどどうしてここに!?」
「あ、ああ、すまない。あっちでヘルゲさんたちに囲まれてな。ずっとあの場にいるのもあれだったし、少し移動して温泉を楽しもうとしていたのだが……まさか、二人がここにいるとは」
激しく動揺しながら尋ねてくるマルタに、アリスターが嘘偽りない事実を伝える。
彼も最初は二人から少し離れた場所で、ヘルゲや騎士たちと一緒に温泉を楽しんでいた。
しかし、パメラに操られて剣を向けたということがあって、彼らから激しい謝罪祭りを受けてしまい、鬱陶しさに耐えきれなくなったのである。
とくに、マガリに対する思いからアリスターに憎しみに近い感情をぶつけてしまったヘルゲは、それこそ温泉の中で土下座でもする勢いだったので、面倒くさくなって逃げ出したのである。
それゆえ、マガリとマルタがここにいるということも想定外だったわけだが……。
「(本当でしょうね? マルタ見たさに来たんじゃないかしら?)」
「(一時の性欲で評価を下げるようなことはしない)」
「(……それもそうかしらね)」
アリスターとマガリがアイコンタクトで話している間も、マルタはあわあわと狼狽して身体を抱きしめ視線から身を守っていた。
……アリスターは見ていないが。
「な、何で聖女様は平然としているの!?」
マルタが驚いたのは、アリスターがやってきても平然としているマガリの様子である。
マルタのように身体を隠そうとも距離をとろうともせず、彼女から見れば無防備に彼と話をしている。
そんな彼女の言葉に、アリスターはおろかマガリですらもキョトンとしている。
「ええと、そうですね……。私たちの村でも温泉はあったんですけど、その時によく一緒に入っていたので……」
「一緒に入っていたの!?」
ぎょっとするマルタ。
なにその村。
「あっ。もしかして、公衆浴場的なもので、男女の区別をつけていないとか? だったら、聖女様が男と入ることに抵抗がないことにもうなずける……」
ホッと安堵のため息を吐くマルタ。
しかし……。
「いえ? アリスター以外の男と入ったりしないですよ。痴女じゃないんですから」
「いやいや! アリスターも男ですけど!?」
また馬鹿なことを、と笑いながら言うマガリに、マルタは激しく手と首を横に振る。
もはや、距離をとって身体を隠していたことも忘れ、二人に近づいてしまっている。
ハッキリと彼女の整ったスタイルが見えてしまっているのだが、幸いにもアリスターが興味ないので無問題である。
「えーと……じゃあ、俺は出るね」
そう言ってさっさと抜け出そうとするアリスター。
しかし、そんな彼をマガリが呼びとめる。
「まあ、待ちなさいよ。そんなに広いわけでもないんだし、こっちで浸かればいいじゃない」
マガリがそう言う理由は、もちろんマルタとアリスターの仲を深めさせてやろうというものである。
「マルタさんも、それでいいですよね?」
「えっ!?」
ぎょっと目を丸くさせるマルタ。
マガリを見れば、おちゃめに片目を閉じてウインクしてくる。
それを見て彼女の思惑を応援してくれていると勘違いしたマルタは……。
「い、いいよ……」
「えぇ……」
顔を真っ赤にしながら、小さく頷くのであった。
なお、出て行く気満々だったアリスターは、露骨に嫌そうな顔をしていた。
「頑張ってくださいね。アリスターは鈍いですから、積極的にいかないと気づかれませんよ。他にも、シルクさんっていう強力なライバルがいますしね」
「っ!!」
近くに寄ってきたマガリから、こそこそと激励を受ける。
見た目も格好よく、内面も優しくてしっかりしている(と思っている)アリスターは、やはりモテるようだ。
確かに、今も汗や水滴で髪を濡らしている姿は格好よく、見ているだけでドキドキする。
それに、彼の優しさに触れるだけでキュンキュンとすることも多々ある。
そんなことだったら……。
「…………」
チラリとマガリとアリスターを見る。
自分のことを応援してくれるというマガリだが、やけに二人の距離が近い。
いや、意識し合った初心な恋愛感情みたいなものは一切感じないのだが……。
「(だからこそ、二人の間に隙がない……!)」
お互いの裸を一切気にしていないで混浴するとか、まるで夫婦ではないか!
そのシルクとやらも気になるが、やはり一番の強敵となるのは……マガリ!
今だってアリスターとマガリの距離は近く、それこそ見ようとすれば何でも見ることができるほどの距離感だ。
「(……あら? 何か不快な勘違いをされた気が……?)」
「(負けられない!)」
マルタは頬を赤らめながらも、ざばっと湯をかき分け適度に膨らんだ胸を抑えながら二人に近づくのであった。




