第37話 興味
月が大海原を照らす。
怪しい月光が真っ黒な海に降り注いでおり、背筋がスッと冷たくなるような恐怖を与える。
大きなものというのは、人間にとって恐ろしく感じることも多々ある。
月と海は、その恐ろしさを与えるには十分すぎるものであった。
しかし、それは善良な一般人に対してのものだ。
夜、人けのない場所を好む者たちも、確かに存在する。
それを表すように、海岸には何人かの人影があった。
悪人や後ろめたさのある者たちは、このような恐怖を与えるような場所を快適と感じるものなのである。
「はい。これが今回の分よ」
「ああ、確かに。くくっ、よく眠っているな」
女が目線で示すものを見て、男はほくそ笑みながら確認した。
そこには、大きな水槽に入れられた見目麗しい人魚がいた。
だが、意識を失っているようで、力なく水槽の中で漂っている。
「では、これが対価だ。おい」
「はっ」
男が部下に声をかければ、部下は重たそうに箱を持ってくる。
女の前でそれを置くと、さっと後ろに下がった。
彼女はそんな男を一切興味がないようで、無造作に箱を開けた。
そこには、王国で流通している貨幣はもちろんのこと、宝石などの金銀財宝が詰め込まれていた。
「どうだ? それなりのものを用意させてもらったぞ」
「ええ、いいわね。貨幣だけでないのは、嬉しいわ」
箱の中身を確認した女は、満足そうに笑みを浮かべた。
その笑顔は、彼女の容姿が整っていることもあって非常に魅力的なのだが、人魚を売りつけて対価を得ているという事実をかんがみれば、魅力よりも恐ろしさを感じてしまうだろう。
だが、もちろんその取引をしている男も、怯えるようなことはなく笑った。
「お前はそういったものも好きだということは知っているからな。それに、そちらも不備がないから、私が背くわけにもいくまい」
こういう後ろめたいことは、何よりも信頼が大切なのだ。
偽物の財貨を渡してしまえば、もう二度と女から人魚を貰い受けることはできなくなってしまうだろう。
それは、非常に困る。
「くくっ、いつ見ても素晴らしいな、人魚というのは。見た目も良い、歌わせても良い……希少価値も高いし、金持ち共は言い値で買ってくれる。私も大儲けだ」
滅多に人の前に姿を現さない人魚。
その数も人間に比べて非常に少ないため、こういった人身売買の市場に出てくることは稀だ。
だからこそ、この男は女にあれだけの財貨を渡してなおもうけを得ることができるほどの商売ができているのだが。
「なら、これからも良い関係を続けていきましょう」
「その通りだな。……しかし」
女の言葉に頷く男。
彼は、ニヤリと笑って女を見る。
「悪い人魚もいたものだ。お前の妹も、本性には気づいていないのだろう?」
この女は、人魚である。
下半身は人間のそれに変化させているが、彼女は間違いなく今売り飛ばされた人魚と同じ存在だ。
人魚が人魚を売る。人間が奴隷売買などをしていることを考えると、別におかしくもない話なのかもしれないが、人魚は人間と違って数も少ないため密接な間柄だ。
それを売り飛ばすというのは異常だし、何よりもこの女が人魚社会の中で相応の地位にあることも、男が笑った理由の一つであった。
「あら、不満?」
「まさか。私からすれば、お前は本当に女神のようだよ。……だが、人魚たちからすれば、お前は悪魔のようだろうよ」
「仕方ないじゃない」
男に指摘されて、女は笑みを浮かべる。
確かに、今も水槽の中で漂っている人魚も、自分のことを信頼していたからこそこのような状況に陥ってしまっている。
彼女の信頼を裏切るようなことは、女も少しだけ心が痛むところはあるのかもしれない。
だが……。
「だって、私、欲しいものがたくさんあるんだもの」
女は歪な笑みを浮かべて、そう言い切った。
金も欲しい、財宝も欲しい。
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい。
彼女の行動原理は、欲望しかないのかもしれない。
「ああ、そうだな。悪い考えじゃないさ。私だって、大金が欲しいからしているのだから」
それを見て、男が女を糾弾することなんてあるはずもなかった。
彼女ほど欲望が強いというわけではないが、それでも奴隷売買を行っている以上、彼も人並み以上には欲が強くて汚い性格をしているということなのだから。
「では、今回はここまでだな。また……あ、そうだ」
「…………?」
この場を去ろうとしていた男が、立ち止まって思いついたような言葉を発する。
今までそのようなことはなかったので、女も首を傾げて男が何かを言うことを待つ。
「いや、今王国で一つの情報が駆け巡っていてな。もしかしたら、お前も興味があるかと思って……」
「何かしら?」
情報は大切だ。自分の欲しいものが新たに現れているのかもしれないのだから。
女は興味深げに男の言葉を待つ。
「ああ。久々に王国に聖女が現れたそうだ」
「聖女……」
聖女……時代ごとに現れて、その時代の人々を慈しみ愛する、まさに聖人のような女のことか。
女はあやふやな知識で、そう思い返していた。
それも仕方ないだろう。聖女なんて、それこそおとぎ話でしか今時聞くことができないのだから。
そんなおとぎ話の存在が現れたと聞いて、女は……。
「あまり興味はないわね。欲しいとも思わない」
興味を示すことはなかった。
聖女という地位に欲望がわいてくることはない。
今でさえ、かなり人の注意を惹きつけやすい立場にいるというのに、さらに聖女になんてなったらこのような人身売買で財貨を得ることはできなくなってしまう。
財宝への欲と聖女としての名誉欲を天秤にかけた結果、前者の方が重かったというだけの話である。
「そうか。じゃあ、私に余計な考えだったかもしれないな」
ふっと笑い、男はふと思いついたことを何気なく口にした。
「あとは、聖剣が何百年ぶりに見つかって、担い手が現れたというのも……必要のない情報だったか」
聖女という存在に興味がないのであれば、それと対を為すような存在である聖剣にも興味はないだろう。
そう男が判断して、今度こそこの場を去ろうとして……。
「……いいえ」
女の声が男を呼び止めた。
その声音は、とても喜びと欲望に満ち満ちていて……。
思わず振り返った男は、女の凄惨な笑みを目撃する。
「それは、凄く気になるわ」
女は口を裂くようにして笑うのであった。
これにて第一章は終了です。
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それでは、第二章もよろしくお願いします。




