第150話 この程度で死ぬわけないでしょう
フロールの拳を顔面に受けたアリスターは、その真下に叩き付けられた。
頭から地面に叩き込まれるように、下半身が上に上がってしまうほどの衝撃。
地面は容易く砕け、暴風が吹き荒れる。
そして、それが晴れた先にあるのは、ピクリとも動かなくなった黒いアリスターが地面に倒れている光景だった。
「……お前も勇者ならば、俺の考えに同意してくれると思っていたがな。残念だよ、アリスター」
そう言って見下ろすフロールの目は、ゾッとするほど冷たかった。
その目に恐怖するアリスターは、もういない。
ガランと音を立てて、彼の手から聖剣が零れ落ちた。
「……さて、戦いはどうなっているかな?」
ギラリと目を向けるのは、アリスターが先に向かわせた者たちの方向である。
そちらには、自分の意思に賛同してくれる仲間たちが待ち構えていたため、戦闘音が聞こえてきていた。
「……ふむ、あまり良い戦況ではないみたいだな。別に大した奴はいなかったと思うが……あの女は別格だったな。彼女が原因か」
フロールが思い出すのは、アリスターと共に先頭を走っていた美しい女。
一般人とはまた違った雰囲気を醸し出していたことから、何か特別な力を持っているであろうことは分かっていた。
「助けに行ってやりたいが……この身体がいつまで持つかもわからないしな」
フロールとしても、自分の同志たちに思い入れがないわけではないのだが、何よりも大切なのは自分の信念を貫き通し実現することである。
そのため、彼は激しい戦闘を行っている彼らの元に向かうのではなく、当初の計画通りマガリを連れて誰にも知られていないような場所に向かうことに決めた。
「……凄い目だな」
チラリとマガリの方を見たフロールは、強大な力を持っているにもかかわらず、思わず一歩後ずさりそうになるほどの迫力を感じ取った。
彼女はじっとフロールを見ていた。
その目に、恐怖も怯えも微塵もない。
アリスターという自分を助けに来てくれた男が倒れてしまった。フロールの力もまざまざと見せつけられた。
だが、それでも怯えていることはなく、氷のように冷たい目でフロールを見据えていた。
寿命を代償に絶大な力を手に入れたはずの彼が、何の戦闘能力も持たないはずのマガリに気圧される。
異常な光景が広がっているのであった。
「怖くないのか? 俺は勇者をも殺すことができるんだぞ」
「怖い? どうしてかしら。別にあなたに恐怖なんて感じることはないわ」
ふんっと嫌そうに顔を背けるマガリ。
確かに、彼女の表情や態度、声にも怯えの色は微塵もなかった。
ただ、不機嫌さがにじみ出ているだけである。
演技もかなぐり捨てている状況から、よっぽど気に入らないようだ。
「腹の据わった女だなぁ。……俺が憎いか?」
「は? どうして? まあ……」
一番考えられる理由を尋ねるが、マガリは何を言っているのだと首を傾げる。
「アリスターに引導を渡すのは私よ。あなたなんかにさせてあげないわ」
ニッと笑うマガリ。
その笑顔は、彼女が普段浮かべている演技の優しい笑顔と比べてもかなり魅力的であった。
アリスターに止めを刺せるのは自分だけだし、自分に止めを刺せるのもアリスターだけ。
何とも歪な信頼を、彼に寄せているのであった。
「それにね……」
ニヤリとあくどく笑うマガリ。
それは、絶対に聖女が浮かべてはいけない笑顔だった。
「アリスターがこの程度で死ぬわけないでしょう。彼の生に対する意地汚さを舐めないことね」
「何を馬鹿なことを。あいつはもう死んで……」
おかしな信頼をしているものだ、と思いつつも嘲笑を浮かべようとして……ふとフロールは固まった。
一つ、思い当たることがあったからである。
いや、確かにアリスターが死んだ……もしくは再起不能となるほどのダメージを負ったとは思っている。
呼吸の音も聞こえなくなっていたし、本当にピクリとも動かなくなっていたからだ。
しかし……しかしである。
「(……だったら、何故あいつの身体は黒いままなんだ?)」
チラリと目を向けると、地面に倒れ伏したままのアリスターの姿が見えた。
だが、彼の身体は以前までの容姿の整った好青年というものではなく、相変わらず黒い瘴気が全身にまとわりついているままだった。
そのことが、フロールに一抹の……本当にかすかな不安を抱かせた。
気にする必要もないような、小さな懸念。無視してもまったく問題ないはずのそれ。
「……ありがとう、聖女。お前のおかげで、もしかしたら将来最大の障害になったであろう男を見逃す羽目になるところだった。確実に……そう、確実に殺したと断言できるようにしないとな」
しかし、その小さな火種が将来大きな爆発となることを避けんとするため、フロールは倒れ伏すアリスターの元に向かった。
やはり、近づいても分かることだが、彼に生を感じることはできなかった。
死んでいる。もしくは、瀕死の状態。
だが、その黒い瘴気は纏ったままだ。
顔面を殴り飛ばしただけでは、足りないかもしれない。
今の自分の力であれば、心臓や脳を破壊することは容易いだろう。
今回は、その両方をやってしまえばいい。そうすれば、もう二度とアリスターが自分の前に立ちはだかることはないだろう。
そう考え、フロールの無慈悲な拳がアリスターに振り下ろされようとして……。
「ぐぁっ!?」
ゴウッと暴風が吹き荒れた。
巨躯であり体重もかなりのものになっている今のフロールなら、よっぽどのことがない限り吹き飛ばされるようなことなんてないのだが、それでも彼は身体を浮かされて後ろに飛ばされた。
とはいえ、大きなダメージを負わされたというわけではないので、すぐに起き上がってアリスターを見る。
そして、彼は愕然とした。
【オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!】
雄叫びを上げるアリスター……いや、アリスターだったもの。
その彼の身体から、黒い瘴気が光線のように空に立ち上り、雲を貫いていたのであった。




