第136話 忘れた人
「シルクさーん! お客さんですよー!」
「……客?」
王都演劇団の保有する舞台に立っていたシルクは、首を傾げる。
そんな約束していないし、アポイントもとられていないはずだが……。
まあ、あれな相手だったらまず自分に声がかかることもないので、とりあえず会っておくことにする。
劇の練習もバッチリだし、息抜きみたいなものだ。
最近、何故かあまり演劇の練習に身が入らない。
大好きな劇。これをしたいがために、自分は奴隷から這い上がってきたはずなのに……やる意味というものが非常に薄れている気がする。
自分は、いったい誰のために劇をしてきたのか?
「……誰のため? 自分のためじゃないの?」
自問自答するシルク。
おかしい。何かがおかしい。
演劇をしたかったのは……自分だ。ヘーレン家がまだあったとき、両親と共に見に行った大切な思い出。
彼らがとても楽しそうにしていたから、自分が両親にそんな笑顔をさせてあげたくて……。
ただ、家が没落して、自分も奴隷に落とされたために、その夢は諦めそうになって……。
それでも、今となっては王国最高峰の王都演劇団の看板女優にまで上り詰め、彼女を見るために多くの人々が大金を払ってやってくるほどだ。
「……どうやって私は奴隷から抜け出した?」
おかしい。こんなこと、忘れるはずがない。
人生の大きな転換となる出来事だ。昨日の晩御飯の内容を忘れているなどとは、比べものにならない。
「……聖女様が助けてくれた。聖女様……だけ?」
いや、彼女だけではなかったはずだ。
そもそも、彼女に戦闘能力はない。貴族はもちろん、彼が雇っていたグレーギルドの人間に相対して、聖女だけでは……。
誰かが……誰かがいたはずだ。それも、自分を助けてくれる味方として……。
そして、その人物に自分は温かさを感じて惹かれて、好意を寄せていて……。
「シルクさーん! 追い返しますかー!?」
「……行きます」
ハッと意識を戻す。考え込んでいたせいで、聖女が追い払われようとしていた。
そんなことをできるのは、王都演劇団ならではかもしれない。
この頭に引っ掛かるもやもやを解消したい。そのため、何か事情を知っているかもしれない聖女に話を聞きたい。
「……あなたは、いったい誰?」
シルクはそう呟いて、聖女の元へと歩き出したのであった。
◆
「やあ。久しぶりだね、聖女様」
「ええ。お久しぶりです、マルタさん」
ニッコリと綺麗な笑みを浮かべてくる聖女を見て、マルタは改めて綺麗な人間だなぁっと思う。
見目麗しい女ばかりの人魚たち。
人間の平均を大きく超えているはずだが、この聖女よりも美しい人魚を出せと言われれば……非常に困ると言えよう。
姉であるパメラが対抗できるか……他の人魚たちはマルタのことも推挙するだろうが、彼女自身が恥ずかしがって拒否するだろう。
「すみません。人魚の集落に入れてもらって……本来であれば、人間は立ち入ることができないのに……」
「いやいや、遠慮しなくていい。聖女様はこの集落を救ってくださったんだから、いつでもおいでよ。皆歓迎するし」
本心からの言葉だった。
かつて、この人魚の集落は裏切り者とあくどい人間のせいで壊滅寸前にまで陥ったことがある。
人魚だけではどうしようもなかった事態を打開して解決してくれたのが、この聖女マガリである。
それゆえ、彼女がこの集落に来ることは何ら問題なく、人魚の間でも反対する者は誰一人としていなかった。
「ありがとうございます。マルタさんは、人魚のリーダーとしてどうですか?」
「うーん……難しいよね。でも、皆助けてくれるし、何とかという感じかな。ふふっ……ちょっと前まで、僕のことなんて無視とかしていたのに、現金だよね」
「……そうですね」
マルタは歌が下手だった。正確に言うと、彼女の歌声は姉に奪われていたのだが、人魚にとって歌えない人魚はとても軽んじられる。
彼女もその例にもれず、なかなか厳しい環境に置かれていたのだが、それも外からやってきた聖女たちによって解決したのであった。
そのため、人魚全体の恩もあるが、彼女個人の恩もあった。
手のひらを返すように本来の歌声を取り戻した自分を持ち上げてくる人魚たちに思うところがないわけではなかったが、それでも心根が優しいマルタはそれを受け入れて人魚たちのために行動しているのであった。
「あ、歌もうまくなったんだよ。最近じゃあ、人魚のことも魅了できるようになったしね。これで……」
「……これで?」
ふと固まるマルタ。
言葉が出てこない。マガリが急かすように尋ねてくるが、彼女の口は言葉を発しない。
のど元まで出てきている。言わなければならない言葉が、名前が出てきている。
だが……その最後の一押しが、どうしてでもできなかった。
「あ、あれ? なんだったかな……? 何か、とても大切なことが……」
タラリと汗を流すマルタ。
彼女は、見目麗しい人魚であるが、どちらかと言えば男らしい性格をしている。
奥底にある乙女趣味はともかくとして、こういうモヤモヤすることがあったとしても、思い出せないのであればすっぱりと諦める。
いずれ、思い出す時が来る。それがないのであれば、思い出さなくてもいいことだ。
だが、これは……その名前は、どうしても思い出さなければならないと思わせられる何かがあった。
「……この人魚の集落で起きた事件、私とマルタさんで解決しましたよね」
「そ、そうだね! だから、皆君への感謝は欠かしていなくて……」
「……もう一人、いませんでしたか?」
「えっ……?」
笑顔を凍りつかせるマルタ。
もう一人? 人間の侵入することの許されないこの人魚の集落に、聖女以外の誰かが?
……そもそも、聖女一人であの事件を解決できるのか?
いや、彼女が有能で才能あふれる人間であることは疑う余地がない。
また、他人を思いやることのできる優しい性格で、自分たち亜人のために命を懸けて戦うことができて……。
他の人間たちには、決して存在しないような……。
「……なん、だろう。おかしいな。頭に靄がかかったようというか、何というか……」
いた、はずだ。そうだ、いたはずだ。
聖女マガリだけではない。彼女と同じくらい高潔で、優しくて、そして……自分にとっては聖女よりも大切で……。
「すみません。私は失礼しますね」
「えっ!? い、いったい何の用だったの……?」
「その人のことを尋ねたかったんですけど、マルタさんは覚えていられないようなので。すみません」
スッと立ち上がったマガリに、マルタは現実に引き戻される。
失望……いや、残念そうな表情を浮かべた彼女に、何故か胸が締め付けられる。
「あ、ま、待っ……!」
慌てて呼びかけるも、マガリは振り向くことなく集落を後にしてしまった。
残されたのは、何とも言えないモヤモヤを頭にも心にも纏ってしまったマルタだけである。
「……僕が忘れた人? それって……」
その人のことを考えて……結局、彼女は思い出すことができないのであった。




