05話:戯れの鳥と私
古く重い、地下への扉を開く。
扉は床に直接備え連れられていた。
地響きの様な鈍く低い音が、私しかいないこの空間に響き渡る、
その音は、まさに地獄の入り口のそれだ。
下へと続く階段は暗い。
壁にかけてあった油灯を取り外し、手に持って階段を下る。
油灯は燃料が少ないのか、足元を頼りなく照らすだけに留まる。
けれど、無いよりはずっとマシだ。
左手に感じる僅かな温かみが、暗闇の中の孤独を忘れさせてくれる。
「……でも、流石に暗いな」
階段を十段程、高さで言えば6オルン(訳注:約216cm)と少し位だろうか。
ヒト一人分の距離、地下へと降り立つ。
その先は段が途切れ、長い廊下が続いていた。
拒絶するような、黒岩の壁に相応しい冷たい空気の中を、慎重に歩いていく。
廊下には片側にはいくつかの部屋があり、布の間仕切りで区切られていた。
反対側は金属製の柵と扉があり、こちらは恐らく牢獄なのだろう。
部屋の一つに油灯を掲げ、中を見る。
暗く色の少ないその部屋は、どうやら倉庫の様だ。
私の背と同じくらいの大きさの樽が、山積みされている。
樽は固い木材で出来ており、触れると少しざらついていて、凹凸が目立つ。
独特な木の匂いに混じって、微かに甘いべたついた香りが漂ってきた。
匂いからして、おそらく樽の中は植物油だろう。
樽の蝋蓋をはがして、油灯の火を消してから、樽の中身をそれに注ぐ。
私は容器を半分程満たしてから、油灯の上端に目を向け、ゆっくりと口を開いた。
「『白き炎』、『湧き立つ泉』、『火は星へと向かい』」
容器の中の橙色の液体が、脈動する。
ボコボコと気泡が生まれては死に、油灯の取っ手を持つ左手の平が、湯でも浴びた様に熱を持ち始めた。
「『討議は灰に』」
油灯に再び、火が灯る。
さっきまでの頼りない、雲に隠れた太陽の様なぼんやりとした明かりとは違い、ハッキリと、ヒトに勇気を与える熱へと成った。
私は部屋を出て、再び岩の廊下を歩く。
明るい光に照らされているからだろうか、足が軽やかに感じる。
突き当りを右に曲がったところで、手に持つ灯とは違う光が目に、蠱惑的な鈴の音が耳に、それぞれ入ってきた。
「上は中々騒がしいな。兵士さン方?」
「黙っていろ、囚人。こちらに話しかけるな」
光の漏れる部屋の入口。
私はその傍らに身を屈め、耳を傍立てる。
ちらりと、間仕切りの隙間から部屋を覗くと、簡素な鎧を付けた二人の兵士と、赤髪の少年が居た。
兵士の一人は荒れた林の様に寂しい禿げ頭で、もう片方は対照的に髪も髭も厚く濃い。
少年は紐で縛られ、床に直接捨て置かれている。
そんな情けない姿でも、どこか美しさを感じるその容姿は、少しだけ気味が悪いとも思ってしまった。
「俺達も戻って、上に加勢するか?」
「こんな状況で勝手な事をしてみろ。サイオンみたいに石打にされるぞ」
「でもよ、ここに残ってても仕方ねえじゃねえか。やっぱり戻ろう。こいつは牢にでもブチ込んどけばいいだろ」
どうやら、自分達の進退について相談しているようだ。
粗末だが、その部屋は広い。
瓶が納められている灰色の棚や、いくつかの椅子、それからあちこちが欠けた長机が目に入った。
机の上には金属製の、工具と思わしき品々が並んでいる。
床は乾いた黒い汚れが至る所に散っており、ここが何の部屋なのか、これ以上に無い位に物語っていた。
机上の工具がどう使われる物なのか、想像もしたくない。
「……なぁ、兵士さン方。これそろそろ解いてくれよ。暴れたりしねぇからさ」
「信用できるか、異端め。急にうるさくなりやがって」
「そう言うなよ、安心しな。さっきのお望み通り、暴れるのはアンタらの上でだけだ」
そう言って少年は、足首を縛られたまま身じろぎする。
彼は仰向けになって、自分の肢体を兵士達に晒した。
ここからでも見える、艶やかで、薄く濡れたような輝きを持つ脚。
少年は動物に餌を差し出すが如く、自らの脚を軽く持ち上げた。
内股をこすり合わせながらのその動作は、男たちの眼を釘付けにするのに十分だった。
場面だけを見れば、獣欲に支配された男達と、憐れな子羊である。
だが少年の眼は、獲物を狙う狼のそれだ。
無言で近づく二人の兵士の足取りはフラフラと頼りなく、どこか怯えている様にすら見える。
少年の姿形が兵士の背に隠れる寸前、彼の山吹色の瞳と目が合った。
こちらに、気づいている?
そう思い、我が身を動かしたその瞬間。
カツンと、乾いた金属音が辺りに響いた。
「誰だ!?」
やらかした。
兵士の一人が誰何の声を張り上げる。
腰に帯びていた剣の先が、石の床と触れ合ってしまった。
禿げ頭の方が剣を引き抜き、ジワジワとこちら側へと近づいてくる。
ここで逃げ出しても、上は魔獣と兵士の巣窟だ。
私は大人しく、両の手を胸の高さに広げながら、彼らの前に出ていく。
「……さっきの森棲種!」
「気をつけろ、帯剣してる!」
後ろの剛毛の兵士が警戒の声を上げる。
私は努めて、大声に驚いた少女を演じた。
油灯を胸に抱え、身を竦め、軽く背を丸める。
左肩と背を相手に向け、怯える少女そのものの姿で、彼らと相対する。
「どうする?」
「森棲種だぞ。いつ魔術の類を使うかわからん。ここでやるしかない」
禿げ頭の兵士は棒立ちのまま、右手にもった小剣を真っすぐとこちらに向ける。
そのまま、すり足でじりじりと距離を詰めてくる。
少しだけ、背に汗が滲んだ。
この距離ではきっと、魔術を使う暇はない。
口を開いた瞬間、あの切っ先が私の筋肉と臓器を食い破るだろう。
「お前はそこのガキを見ておけ。俺がやる」
私は前方の彼を、横目で注意深く観る。
よく訓練されているのだろう、その姿勢や腕は一切のブレを見せず、ただひたすらに殺意をぶつけてくる。
その表情は険しく、こちらへの警戒を解こうとはしない。
禿頭の兵士は既に、手を伸ばせば届きそうな程の距離にいた。
あと二、三歩で、彼の間合いに私が入り込む。
私はただただ、その瞬間を待った。
彼がその距離を詰め切ると同時に、地面を擦る足音が消える。
世界が遅く感じ、彼の殺意が爆発したのが見えた。
兵士の右手が回り、剣先が僅かに下がる。
すり足の音は、地面を力強く蹴りつける、瞬間的な響きへと変わった。
一呼吸の間に、目の前に致死の刃が迫る中、唇の端が自然と吊り上がる。
この瞬間を、待っていた。
油灯がバラバラになる破砕音と、金属同士がぶつかる高音が同時に鳴り響く。
「ッ!?」
禿頭の兵士の顔に、驚愕の表情が張り付く。
私の首を抉るように狙った剣。
その刃は、私が振った油灯に当たって逸れた。
致死の一撃をみまう軌道は、私の襟足を通り過ぎるに終わる。
私は一拍遅れて、横に広がった左手と対照的になるよう、剣を持つ右手を横に薙ぐ。
丁度、我が子を抱き入れる母親のそれの様に。
ただし兵士を包んだのは、冷たい死の抱擁だった。
私の持つ刃が、白い軌跡を残しながら、彼のオトガイにかち当たる。
軌跡が収束するのと同時に、顎骨を砕き肉を裂く、嫌な感触が伝わってきた。
顔をしかめる間もなく、目の前の兵士が首、体の順に横倒しになる。
ゴキリという、首の骨が折れる音が辺りに響いた。
苛烈な一撃に似合わない静かな音の中、兵士の一人が昏倒した。
「てめぇ!」
「ッ!」
剛毛の兵士が、長銃を構えるのが見える。
銃身に左手を被せ、右手は今にも引き金を引かんと力を込めて。
咄嗟に近づいて止めたくなる衝動を抑え、後方へと飛びずさる。
着地した部屋の入口と、銃口の距離は目測で三十歩。
この距離では、余程の名手でないと当てる事は叶わない。
理屈では分かっていても、体に力が入るのが分かった。
銃が木箱を叩いた様な乾いた音を立てると、周囲の灯がゆらめき、その火を小さくする。
兵士が、私に凶弾を撃ち込まんとするその瞬間。
「とらぁ!」
「うおっ!?」
赤髪の少年が、兵士に飛びついた。
態勢を崩し、彼自身の左手で押す形に、銃が明後日の方向を向く。
周囲の熱を吸収する、特徴的な響き。
それが鳴ったかと思うと、空気が爆ぜた。
腹と鼓膜に響く轟音と共に、銃が火が吹く。
放たれた弾丸は、乱雑に置かれた椅子の一つに当たり、座面を砕いた。
好機を逃すなと、散々母に言われたのを思い出す。
兵士は姿勢を崩して、尻もちをついていた、
彼我の距離を一気に詰め、兵士の目前に迫る。
兵士は乱れた髪の毛を振り乱しながら、咄嗟にといった感じで、銃を盾にするのが目に入った。
訓練された彼らの事だ、彼が冷静だったならば、そんな稚拙な行いをしなかっただろう。
私は渾身の力を込めて、長剣を振り下ろす。
そしてその長銃ごと、彼の脳天を叩き割った。
顎の骨とは違う、薄い皿を砕く触感が、剣の芯から親指に達する。
兵士の口の端から、血の泡を吹き出した。
剣の衝撃が十全に伝わると、彼の眼は制動を失い、白目を剥く。
その後、数度体が跳ねたかと思うと、息をしなくなった。
白刃を振り、散って付いた血潮を流し捨てる。
「ふう……」
ゆっくりと肺を空にしてから、同じだけの時間を使って空気を満たす。
右手を見ると、体感では分からない位に、細かく震えていた。
流石に、これは疲れる。
すき手になった左手の甲で、額を伝う汗を拭う。
「流石だなぁ、森棲種のお姉さン?」
輝く小麦色の肌の少年が、縛られ横たわったままにこちらを見ていた。
その表情は、馬車で見た時と同じく薄布に隠されている。
彼の口調は、朝飯を食べた後の祈りの言葉の様に軽い。
軽薄な彼の様子に、渾身のため息が出た。
一応、礼は伝えることにする。
「ありがとう、助かったよ」
礼は大事だ。
無駄な自尊心を押し付ける同胞達の様にはなりたくない。
「それじゃぁこれで」
再度言うが、礼は大事だ。
だがこの少年からは、面倒事を持ち込む危険なにおいがする。
だから手を軽く挙げて、この場を離れることにした。
「おいおいおい待ってくれよ、綺麗なお姉さン。こンな幼気な男の子を残して、何処に行くってンだ」
「自分で言うなよ。君と関わるとロクな目に合わない気がする。僕の勘と教訓は大体正しいんだ」
それを聞いて、少年はあーだのこーだの、よく分からない言葉を連呼しながら文字通り転げまわる。
方言と訛りがキツくて半分も意味が分からないが、何か罵倒されているのだろう。
そこに兵士たちを誘惑していた恐ろし気な魅力は無く、その様子は駄々を捏ねる幼児そのものだった。
「せめて縄だけでも切ってくれよ、お姉さン。今なら色々とご奉仕するからさぁ」
「今完全に決めた。捨て置くことにする」
「嘘嘘嘘! 謝るからさ、頼むよ。な?」
この六十年余りの人生の中で、これ程ため息をついた日があっただろうか?
仕方がない。
私は髭面の死体の傍へと歩く。
そのまま死体の腰から短剣を引き抜き、簀巻きにされた少年の縄を解いてやる。
プツリと繊維が切り裂かれる音を背景に、少年は自由の身になった。
少年はするりと流れる動作で立ち上がり、気持ちのよさそうに伸びをした。
縛られていた場所を眺めながら、少年はその不快な口を再び開いた。
「あぁクソ、あんな固く絞める事ねーだろうに……。そうだ言ってなかったな。どういたしまして、お姉さン」
少年は言うと、死体を漁り始めた。
「君は色々とおかしい」
その色々を一つずつ指摘してやる気も起きない。
もう面倒だ。
そんな思いで彼を無視して、先に進もうとすると。
頭の割れた兵士の傍。
荷物を漁っていた少年が、それに気づいたのか声をかけてきた。
「避難路、探してンのか?」
「……どこで聞いた?」
「指導者ってのは、どこも考えてる事は同じなもンさ」
少年は言って、壁に立て掛けられた銃を手に取り、左手で何かの革袋を遊ばせる。
じゃらじゃらと、小さなものが動く音がする。
恐らく、死体が持っていた財布か、銃の弾入れだろう。
複数の革袋を弄んでいるから、その両方なのかもしれない。
「君、そんなの扱えるのかい?」
「ん、あー……。俺の乗ってた船の連中が、遊び半分に触らせてくれたからな。どう使うのか位は知ってる」
一体どんな船に乗っていたというのか。
娼婦の様な格好といい、不審な所しかない。
「何かの縁だ、お姉さン。ここを出るまではとりあえず、一緒に動こうや」
「同行するのは、構わない。けれど、君を守る余裕は、申し訳ないけどないからね」
正直、こんな訳の分からない怪しい子を、連れて行きたくはない。
それでも、彼の言う通り、子供を置いていくというのは後ろ髪を引かれる。
どうにか、万一の事があっても自分の責任にならないよう前置きをしようとあくせくしていると。
「そりゃ分かってるよお姉さン。さっきのを見てりゃわかるさ」
ピクリと、不意に右手に力が入る。
少年は何が面白いのか、きれいな弧を描く眉を楽しそうに歪めながら、こちらを見つめていた。
「……どういう意味だい」
「アンタ、殺しは初めてだろう。動きはサマになってたけどな」
「……ッ」
カっと、顔が赤く染まるのがわかった。
教え込まれた武術と、種の持つ身体能力。
それは私の体を守ってはくれたし、殺しを躊躇う心を後押ししてくれたけれど。
右手の震えを、止めてはくれない。
未だに、指先が細かく震えている。
つい数瞬前までの、不快ながら気安い、軽口を叩く軟派な姿はもうない。
彼は妖し気な振る舞いで私に近づき、じっと私を見つめてくる。
老いた葉色の薄布の上で、双眸が妖しく光って見えた。
吸い込まれそうな黄金色の瞳に、唇を噛む私の姿が映っている。
肩にかかる細やかな赤毛と、壁の明かりに照らされ、彩度を減らした浅黒い肌。
その全てに見とれてしまう自分がいた。
股座とその奥が熱を持ち始めた辺りで、ハッと意識を取り戻す。
首を振って、煙がかった頭を払った。
羞恥によるものか、思わず眼を細めてしまう。
「凄ンでも綺麗だなンて、森棲種は得だねぇ」
上等な彫刻に例えられる私達だが、彼に言われると皮肉にしか聞こえない、
深く息を吸い込んでから、彼の言葉を肯定する。
「……君の言う通り、こういうのに慣れていない。それでも一緒にくるかい?」
「行くさ。何にせよ、一人でおっかない地下を歩いて回るよりかはマシだろ」
クツクツと喉を鳴らし、少年は自身の薄い胸に手を当てる。
そのまま、向こう側が見えそうな位薄い、広がった袖を翻す。
高級な踊りの様に、単純ながら優雅で、熱をもった一礼をこちらに向けた。
「俺ぁ『 』ってモンだ。よろしくな、お姉さン」
「……何、何君だって?」
よく聞き取れなかった。
「だから『 』だよ」
「えぇと、ツィーク?ジーグ?ジュエッグ?」
「発音がなってないぜお姉さン。まぁその中じゃ、ジーグが一番近いかね」
元より、南方の方言や独特の訛りは舌に乗せ辛いが、彼の名前はその中でも一際辛い。顔のあらゆる筋肉が攣りそうだ。
何度が口の中で試してみるが、上手くいかない。
どうせ、短い付き合いだ。
諦めて、彼が一番近いと言ってくれた呼び方で呼ぶことにする。
「ええと、よろしくジーグ君。僕はサイ・ツイード。サイと呼んでくれ」
「『甘やかな喜び』? あー……アンタの親御さンは中々、なンというか……」
眼前のジーグが、何かを言い淀む。
恐れるもの等無いというかの様な、これまでの姿からは想像のつかない、どこか滑稽な様子。
こんな顔もするのだなと、少し驚いた。
もっとも、半分は隠れているけれど。と自分の考えに思わず失笑してしまう。
そのまま、彼の言葉を待っていると。
「クッソだせぇな!」
両目を糸の様に細める、満面の笑みだった。
ゴツン。
思わず、無言のまま剣柄を頭の頂点に叩きこんでしまったのは、仕方のない事だと思う。
「いっってえぇ!」
「さぁ行くよ、ジーグ君。遊んでる暇はないよ」
頭を両手で抑え呻く少年を見ながら、やっぱり自分の教訓は良く当たると、ここ数日で冴えわたる、役に立たないそれを再確認する羽目になった。