02話:恐ろし気な夜
あれからしばらくの間。
私の体が休まる事は無かった。
何処へ行っても、あの少年と出会う。
ある日、貧民窟で職を探していれば。
「見つけたぞ!」
「うわぁっ!?」
警邏中の彼に出会い。
ある日、郊外の山賊団に入ろうとすれば。
「いやーそんなこんなで、ここに入れてもらえないかなーって」
「お前あの夜毛玉だろ? 厄介事を持ち込まれてはこま……」
「そこまでだ! 全員武器を捨て投降しろっ!」
山賊狩りの一団として現れ。
ある日、どうにも腹が空いて、汚れた河に魚を獲りに行けば。
「そうだ。泥鯉なら、よく洗えば食べられ……。ってお前!?」
「失礼しましたっ!」
孤児の面倒を見る彼に会った。
その度に昼夜を問わず逃げ続け、最後にはどうにもならなくなった私が彼を殴る。
この二、三週の間でお決まりになったやり取り。
私の体力は日に日に目減りしていくというのに、何時見ても彼は元気だった。
その回復力たるや、アブない薬でもやっているのかと疑ってしまう程。
数日前に、荒い息と共に聞いてみた。
何故チンケな泥棒相手にここまでやるのかと。
その答えはやはり、「軍人として、当然の務め」だ。
やはり、何でもない事かの様にそう言うのだ。
僅かな微笑みを携える彼を見ると、心の奥がざわつく。
自身の心の動きも、彼の言葉の意味も分からなかった。
「そうしてずっと逃げ続けていても、何時か終わりが来るぞ」
彼に昨日、そう言われた。
よくある陳腐な文句。
なのに何故だか無性に腹が立って、いつもより強く殴りつけてしまった。
確かに、彼の言う通り。
最近では、追手に他の憲兵が混じり始めている。
普段であれば、暴力は最終手段であったハズなのに、ここの所使うことが多くなった。
もう何日もまともに食べていない。
水だけは安いこの街だからなんとか生きていけているが、そう長くはもたないだろう。
そろそろ、潮時なのかもしれない。
空腹感すら感じなくった寂しい腹を抱えて、私大通りを歩く。
街の大動脈たるこの通りには、各地から集められた商品があった。
露店が所狭しと並んでいて、活気に満ちた客引きの声があちこちから聞こえてくる。
寒々しい秋風の中にも関わらず、熱気に包まれていると言ってもよい。
「……ご苦労な事だわ、ホント」
つい顔を覆う黒布の中で、そんな事を呟いてしまった。
目線の先にある店は、野菜や果物を扱っている様だ。
手に丸い緑の果実を持って、店子は張り裂けそうな位の声で呼び込みをかけている。
だが効果は芳しくない。
通りを歩くヒトビトは彼を一瞥だけして、歩みを止める者はいなかった。
「ちげえよ馬鹿! 腹から声出すんだよ! 金切り声を上げろなんて誰が言った!」
「あ、いえ、あの、すみません……」
その様子に、彼の後ろに立っていた偉そうな男が、店子を怒鳴りつけている。
あれでは、何時まで経っても客が集まる事はないだろう。
同情心が湧いてくるが、財布すら持っていない私にはどうすることも出来ない。
私も他のヒト達と同じ様に、その場を過ぎ去ろうとした時、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「すまない、これを二つ貰おうか」
見ると、そこにはもう何度も見た顔があった。
緩やかに波立つ金の髪を垂らす、物語に出てくる騎士見習いの様な顔貌。
厚い外套はブカブカで、指先が微かに覗いている。
彼は殆どいつもと変わらない様子で、店子の掲げた果実に手を向けた。
きっちり留まった袖口から、手首が姿を現す。
その先の肌色は、白い傷だらけだった。
「おおっと、失礼しましたお客様! こちらを二つですねっ。ご一緒に星葡萄はいかがですかな? これはヘイルキャミの葡萄酒に使われる位……」
「遠慮する。全部でいくらだ?」
「えーこちら二つですと、丁度1ユビ(訳注:約0.6kg)といったところでしょう。銀貨三枚ですな」
彼はそれを聞いて頷くと、中から月が刻まれた銀貨を取り出して渡す。
支払いを終えてから、少年はぽそりと呟いた。
「――私は好きだぞ。元気があって」
「え?」
「それでは、失礼する」
彼は緑の果物を受けとり、露店に背を向けた。
両手で手の平程の大きさのそれを持って、そのまま大通りへと向かった。
「ふぅん……」
キザな奴だ。
わざわざそれを言うために、買いに行ったのだろう。
私には、どうにも理解できない行動だった。
そもそも、あの感性を疑う姿はなんなのか。
分厚いねずみ色の外套。
官製品の例に使えそうな、飾り気のないモノだ。
少年はぶらぶらと、雑踏の中を歩いている。
私の脚は自然と彼の後を追う。
宿敵の事をよく知る、良い機会かもしれない。
散々舐めさせられた辛酸のせいで、体はボロボロだ。
機会を伺って、闇討ちをしかけても良いだろう。
彼以外の兵士で私について来られるヒトはいないし、彼さえ居なくなれば、とりあえず食事にありつけるようにはなる。
緩やかな風が流れる、背の低い草で覆われた大地。
そんな故郷の姿を思い浮かべて、
「変わったなぁ。アタシ……」
私はそう、呟いた。
どうやら少年は、それなりに有名らしい。
雑貨屋に顔を出せば、荷物を抱える彼に鞄が差し出され。
肉屋と目が合えば、いつも世話になっているからと、端肉を貰い受け。
蒸麦屋に入れば、皆で食べろと菓子を持たされ。
土産物屋に話しかければ、飲みに誘われていた。
「オリクス! 今度は負けねぇからなっ!」
「ああいう賭け事は、もうやらんぞ」
「オリクスちゃん! 今度ウチに遊びに来てよ~。 一杯タダにするからさ~」
「オルヒルディミさん。機会があれば是非」
「トロッツ! 明日暇か? 釣りにでも行こうや!」
「先輩、昼間から酔ってるんですか? 明日は合同演習のハズ――」
街のどこを歩いていても、すぐに声を掛けられている。
それに対して彼は、あの時と同じ様に薄く微笑みを返す。
日が傾き始め、橙色の光が紫の影を作る頃。
彼は大通りから外れた、工場が立ち並ぶ一画へと立っていた。
ある工場の煙突からはモクモクと黒い煙が立ち上り、銅管からは白い蒸気が吹き出している。
またある工場の扉は浅葱色のツタに覆われ、窓には大量の葉が付いていた。
「あっ、お兄ちゃん!」
「シアルチ。おばさんの調子はどうだ?」
「うん、お母さん元気! お兄ちゃんのお薬のお陰だってお母さん言ってた!」
工場の壁に備え付けられた、錆びだらけの小屋の前で、少年は子供と話していた。
その子供の身なりは、貧民窟にたむろしている奴らと大差ない。
ただでさえ薄い生地が擦り切れ、汚れた肌の色が透けて見えている。
下服さえ履いていないから、そこらの物乞いより酷いかもしれない。
「ほら、今日の分だ。大したモノではないが……」
「うわぁ! お肉だお肉だ! ホントにもらっていいの?」
「子供が遠慮をするな。 それに、肉だけじゃないぞ」
そう言って彼は、鞄から皮に包まれた丸いモノを取り出す。
子供の目の前で包みをゆっくり剥がすと、中から大きな菓子蒸麦が現れた。
甘い香りがここまで漂ってきて、私の胃が大きく声を上げる。
それは艶のある褐色の肌を、美しい白粉で彩っていた。
「お菓子! ホントに、ホントにいいの!?」
「だから遠慮をするな。 おばさんの分もあるから、持って行くといい」
「ありがとうっ! お兄ちゃん!」
子供は手を振って、何度も振り返りながらどこかへと走って行った。
彼はそれを見て、慈しみに満ちた顔をする。
そして子供が角を曲がるまで、手を振り返していた。
酷く、酷く惨めな気分だ。
彼はヒトビトに愛され、またヒトを愛し、充実した一日を過ごしている。
法の中でも外でも、厄介者扱いの私とは天地の差。
もう一刻もすれば、街は暗闇に包まれる。
雲の大きさから、月の無い夜になるだろう。
「はぁ……」
つい、ため息を吐く。
今更、ヒトに嫌われるのは怖くない。
だが、自分の心が言うのだ。
彼を後ろから殴りつければ、まるで彼に嫉妬しているかの様ではないかと。
気が削がれ、彼に背を向ける。
その時、透明な声がこちらに届いた。
「おい、そこの」
振り返ると、彼は腕組みをしながらこちらを見ていた。
「あ、やば……」
「一日中ついて来てただろう……。一体何のつもり――」
私はいつも通り、駆けだした。
灰色の石畳を蹴り上げながら、もう何度目だろうかと考えてしまう。
「おい待てっ! 咎めるつもりはないっ!」
「嘘つけっ!」
彼の制止に、それだけ返す。
走りながら振り返ると、彼が外套を脱ぎ捨てるのが見えた。
几帳面に伸ばされた真白の肌着が姿を現す。
「私服まで嫌味だなアンタっ!」
「おい馬鹿、危ないぞ!?」
彼の叫びに驚いて、顔を戻して前を向くと。
灰色の壁が迫っていた。
「おぶっ!?」
柔らかく毛に覆われた壁に顔が埋まる。
蘇に似た弾力に跳ね返され、体が宙を浮く。
そのまま頭から、地面に叩きつけられた。
「いっっっ……たあぁ!?」
私は後頭部を抱え、固い石の地面をゴロゴロと転がる。
首の筋肉が締まる、骨に響く様な痛みだ。
ただでさえ足りない足りないと言われるが、無くなってしまっては困る。
壁はチラリとこちらを見てから、文句を言う様に短く鳴いた。
それから大きな荷物を背負ったまま、四本の脚でゆっくりと歩いていく。
歩みの度に重い音が響き、背の荷台の中で石材が音を立てる。
「だから言っただろう」
少年が金髪を揺らしながら、私の傍に屈んだ。
その顔は目を眇め、呆れの表情に染まっている。
「ああもうっ! もう好きにしなよっ! 牢にでもなんでもぶち込めっ!」
本当に、ツイていない。
それもこれも、全部彼に出会ってからだ。
私が地面に大の字になり、俎上の魚の様に全てを投げ出していると、彼は言った。
「だから咎める気はないと言っただろう。立てるか?」
彼が、傷だらけの手を差し出す。
始めは意味が分からず、自分でも分かるくらいに怪訝な表情をしてしまった。
少し間を置いてから、それが文字通りの立つ手助けだと気づく。
「……一人で立てるっ」
「そうか。流石に異頭族は頑丈だな」
その手を払って、私は立ち上がる。
ズキズキと痛む頭を触って、感触を確かめた。
たんこぶが出来ていないかと心配だったが、少し熱くなっているだけで大事はなさそうだ。
「……何のつもり?」
「何がだ」
「今日は随分優しいじゃんか。いつもなら――」
そう私が言いかけると、彼が手を差し出してそれを遮る。
その手の平はきめ細かな彼の顔立ちに似合わず、一部がゴツゴツと隆起していた。
細かい傷だらけの手を下ろして、彼は言う。
「今日の私は休日だ。それに、私はお前が誰だかわからない」
彼の目は、私の顔を覆った黒い布に向いていた。
簡単な変装だが、光のある所では暮らせない私にとっての生命線だ。
訝しむ私を無視して、彼は手に提げた鞄の中を漁る。
「お前、マトモに食べてないだろう」
片目を瞑って、彼はそう言う。
朝水面に映った私の顔は、酷いモノだった。
きっと今も、黒頭巾から覗く眼は窪んだままだろう。
一瞬彼の手が止まり、その後に彼は緑色の果物を取り出した。
宝石の様に煌めくそれは、表面に薄く白い毛が生えている。
今の私にとって、夕焼けに照らされるそれは瑞々しく、とても美しいモノに見えた。
つい、ゴクリと喉を鳴らしてしまう。
「ほら、これやるから今日は大人しくしていろ」
手渡されたそれはざらついていて、その感触すら食欲をそそる。
彼はもう一つ同じモノを取り出し、毒見でもするかの様に口に入れた。
果汁の弾ける水気が耳に届き、私の胃を鳴らす。
「あの口上程、美味くはないな」
彼は甘い匂いのする汁で口の端を汚して、そう苦く笑った。
ふわりと、柑橘類に似た匂いが漂ってくる。
彼は懐から絹の布切れを取り出し、淡い桃色の唇を拭う。
「お前も、マトモに生きろ。そうすればちゃんとモノも食べられる」
絹布を懐に締まってから、彼は踵を返す。
日の沈む西へと歩いていくから、きっとこのまま帰るのだろう。
そちら側は、憲兵の住む兵舎があったハズだ。
「……ホントに、嫌味なやつ」
渡された果実は、今まさに食べてくれと言わんばかりに輝きを放っている。
甘酸っぱい、心地の良い匂い。
それを手の中で弄びながら、私は紫の雲を見上げた。
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それでも私は、変われない。
星々の棲む空を、雨雲が覆う。
冷たい灰色の羽目が、暗い夜の街に降り注いでいる。
始めは弱かった雨が勢いを増して、打楽器の様な音を奏で始めた。
拍手にも近いそれは、地面の色を濃くしていき、汚れた水たまりを作る。
こういう天気は、私たちにとって絶好の機会だ。
音は雨音が。
姿は雨雲が。
香りは雨水が。
全てを覆い隠し、流し切ってしまう。
むくんだ自分の足首を掴みながら、私は高い屋根の上に屈みこんだ。
自己主張の激しい消化器を無視して、目をこらす。
私は炊事の煙が立つ街の片隅、そこの一つに跳び移る。
この区画は酒場と宿屋が立ち並ぶ、旅人向けの場所だ。
こういう所には、カモが集まる。
地元のヒト程安全な道に詳しくないし、なにより警戒心が薄い。
スリに気づくことは無いし、ひったくりへの反応も遅いときている。
入り組んだ路地裏に迷い込んだら、こちらのモノだ。
少し脅してやれば、大抵は震えて財布を差し出す。
酒場の喧噪が聞こえる中、私はただじっと獲物を待ち続ける。
雨水が私の体に向かって落ち、少しずつ熱を奪っていく。
手足の毛皮と髪の毛は湿気り、毛先に滴を作った。
濡れた全身が酷く不快だが、それでもただただ、私は待つ。
一刻か一刻半の間そうして震えていると、ある二人組が目に映った。
一人は金糸に彩られた白い外套を羽織り、もう一人は露出の激しい踊り子の様な格好だ。
どちらも身なりが良く、所作からもどこか気品を感じる。
女性の二人旅だろうか、二人とも整った顔立ちをしているのが見えた。
亜人でもないのに、女だけなど不用心な事だ。
その二人は私から見ても疲れきっており、足元がおぼついていなかった。
歩きながら何か言い合っている様だが、雨音に遮られてよく聞こえない。
そして彼女たちが、フラフラと路地裏へと入っていくのを見て、私は動いた。
一度大きく息を吸い込み、二度小さく吐いて、三度手を握る。
じわりと喉のあたりが熱を帯び始め、心臓が長い感覚で動く。
喉の熱は全身へと伝播し、力を脚に蓄える。
それが穏やかな温かみから、障りのある高熱へと変わった時。
私は、大きく跳んだ。
雨を垂幕を切り裂いて、雲の方へと。
一瞬、空中で体が止まる。
そして、私は落下した。
小さかった街並みがどんどんと大きくなっていき、地面が近づく。
目線は、彼らの進む先に向けて。
両脚はピンと伸ばし、水に濡れ僅かに反射する石畳へと。
地面が目前に迫った時に、僅かに膝を曲げる。
そして、私は降り立つ。
衝撃で砕けた石の破片と水しぶきが、路地裏の壁へと打ち付ける。
脚に加わった力を逃がすために、猫の様に後ろへ転がる。
隙を作らないように、目標を確認する。
七、八歩程離れた所に立つ獲物達は、ポカンと口を開け、何が起こったのかわからないといった顔をしていた。
そして私は、畳みかける。
冷静さを取り戻される前に、こちらの領分へと引き込む。
私は口を大きく開いて、牙を見せつけながら、口上を述べた。
「そこのアンタら、有り金全部置いていきなっ! 逃げても無駄だぞっ!」
近くで見て、やはり自分の眼は間違っていなかったと確信する。
頭巾に隠れて見えなかった彼女の頭髪は若葉色で、頭巾の横が山を作っている。
森棲種特有の外見だ。
貴種たる彼女なら、かなりの金を持っているだろう。
彼女の後ろを歩いていたのは南方人の少女。
この寒々しい秋の空気に似つかわしくない格好だが、触り心地が良さそうな服を着ている。
護身用か長銃を背負っているが、この雨の中では扱えまい。
彼女たちはなおも体を凍らせ、私が現れた時のままの体勢で固まっていた。
「何ボーっとしてんの! さっさと金出せって言ってんの!」
私は牙を鳴らし、獲物を威嚇する。
陶器のこすれる音に近いそれを聞いて、彼女達はやっと正気を取り戻した。
「……ねぇジーグ、これってさ」
「強盗だろうな」
深緑の薄布に隠れた口元から、鈴が鳴る。
南方人の方が、通りの良い声で私を指して言った。
透き通ったそれは、少年のモノにも、少女のモノにも聞こえる。
「……ホントに旅ってのは、色んな事が起きるもんだね」
「でもよ、こういう経験してみたかったンだろ?」
少年の言葉に、森棲種が困った様に笑った。
私を無視した会話に、苛立ちが湧き立つ。
ドンと強く鈍い音が、足元から響く。
脚で地面を思い切り打って、こちらへと意識を向かせた。
「おい、何をごちゃごちゃ言って――」
「強盗ならさ、良いよね?」
前方の彼女が被った頭巾を剥いで、青空の下の草原に似た髪を晒す。
同時に露わになった長く尖った耳が、ピクピクと動いている。
彼女は腰に帯びた剣を引き抜き、言った。
「僕たち、最近ツイてなくてね」
彼女が一歩、私に近づく。
「色々と溜まってるんだ」
暗闇の中で、太陽色の双つの眼が輝く。
「憂さ晴らしに、付き合ってもらうよ」
前方の殺気が、爆発した。




