「作詞作曲」覚え書きから、純文学講義。
Twitterにて、世千代於呼さんのNovel Cover実験室が発足し、凄いことになりそうですね。
小説を楽曲に喩えることでちょっとした着想がありまして、それがとても大事なものだったのでこちらに留めておこうかなと。
まずは小説のカバー行為の解析について。
曲 小説
作詞作曲 筋
歌唱 視点・構成
編曲 文体
ってなところだと考えました。
ということは、小説にとってのアレンジとは、語り口つまり視点・構成と文体とのリメイクということになるでしょう。
楽曲は同じだとしても、歌が上手い人、声が独特な人。演奏が上手い人、曲のアレンジが突飛で緻密な人。カバーソングでも違う個性で違う曲に変身できますね。
だからこそこのあたりに小説をカバーする意味が宿っているものだとボクは考えます。
ここで、物語というものを分解してみましょう。
楽曲の一方の根幹である作詞作曲を物語とするなら、テーマが歌詞で、筋がメロに置きかえられましょうか。
つまり物語とは筋のみでは語られぬものであり、それはテーマの存在意義をあらかじめ含んでいる、ということに考えはつながっていきます。
作詞作曲する、特にシンガーであるソングライターは時として、メロと同時に詞が降りたりすることがあると言いますよね。
テーマ=歌詞、筋=メロと仮定してみて、ボクの場合執筆において小説のテーマは考えずに出来上がったものを空想したりする段階であとから初めてテーマを見いだすことが多いのですが、その道程に鑑みてみると、筋には響きという風情が多分に含まれてあって、生まれるべくして生み出されていく小説の筋というものにおいては、そもそもテーマというものが包括されているんだろうな、という着想を得ることができました。
ゆえに、筋というものは必ずしも物語と同義ではなく、そこにはテーマの存在を加味せねば成り立たない条件ではあるのだと分かっていくものですが、執筆により導き出されていく筋の醸していく響きのなかにはやはり端からテーマの気配が漂っているのであって、やはり筋とは物語と同義であると見なすこともできるのでしょう。
ところでこないだ純文学について思うところがありました。
純文学についての議論は昔から頻繁になされてきたことと思いますが、どの議論においてもつかみ所なく終始してしまうのが大抵のオチではないでしょうか。しかし、不意に想起された真理がありまして、これもここに書き記しておこうと思います。
結局ですね、物語と語り口って実は共鳴しているんですよ。ハードな小説の内包する重たい主題に突入していくと、その語り口じゃなきゃ描けないという高いレベルの芸術性へと自然とイメージが敷居をまたぐのです。
そこで文体と物語が結ばれる、それが純文学ですよ。約めると、ボクの場合純文学とは逆算です。
まず頂点に「芸術的でありたい」という思いがある。すべては、それをなすための芸術ですよ。思いが先にくる、思いがすべてであり第一義なのである、ということですね。
だからこそ、物語と文体の共鳴において、芸術的なフォルムの文章に響きあうために「物語が足りているか」。高い領域を語りうるイメージの顔料と「文体は機能しているのか」。その部分こそが最大の意義であり芸術、創作の極致ではないかと考えるのです。
ボクにとって小説は、文学を成すためのすべての行為である、と置きかえられるのでしょう、純文学こそがすべてだと言い切ってしまいたいのですね。
しかし逆説的ではありますが、ボクはプロの文筆業を目指す者として、ジャンル作を頑張るのみだと心に誓っています。
芸術の思いが一、芸術的な小説がその二。そういう中でのボクにしか書けないというか、恐らく誰も書かないであろう作品群を書いていくのですよ。SFだろうがミステリだろうが純文学だろうが、思いはひとつだということです。だから凡百の作家とボクはまるっきり別次元です。そしてすべてのジャンルの下敷きには、文学、つまり純文学がしっかりと備えられているんです。
文学とは出版商売にあって、客である読者たちを蹴散らしてこそ成立する一方通行のエネルギーだと極論としてはイメージしています。それでこその追究であり学問であると。それはおそらくエンタメの対極にある孤立無援かつ孤高の意志ですね。
しかし鋼の意志が時に読者を動かし、新たな地平が育ち、いずれは築かれていくこともあると思います。読者たちを蹴散らして、蹴散らした先に、コアなフォロワーが生まれてしまう、という原理です。自らの美学の徹底と精進、内面的な闇に届かんとする光の矢は、やがて、新しいムーヴメントの光源となって世界の地平へと伸び進んでいくのです。
作者が自らに徹したエネルギーは次世代の、あるいは下手をすると後代まで色あせることのない永久的なエネルギーとして輝き続ける可能性もあるでしょう。
現在主流の軟弱な小説群とは真逆の流れ。しかしそれこそが、世界文学と呼ぶにふさわしい普遍的な、本物の小説だとボクは思います。ボクはとことんそういった文学を、小説を追求したいと胸に誓っています。
それらが世に放たれていったとして、それに立ち会う読者たちには相応の大きなパワーが必要とされます。
しかし考えてみてください、作者と読者の本気のぶつかり合いのすえに作品がせり上がる、そういう強い構造が世にどんどん放たれていくような時代、奮い立つ光景だとは思いませんか?
ボクはその景色を目の当たりにしたいと思うし、叶うことならその中心へと闘争しつづけていたいものです。
ボクはそういう気概で文学の活動をやってます。