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ソリストシリーズ

滅ぼした世界の亡骸で、ひとりぼっちの君といたい

作者: ナツグ

※こちらはソリストといたい(http://ncode.syosetu.com/n1588eg/)の彼女目線のお話です。また、コインランドリー・ロジック(http://ncode.syosetu.com/n3816eg/)と関連のある話です。こちら単体でも物語として成立していますが、それらを読んでからの方が楽しめると思います。

※近親恋愛要素が含まれます、ご注意ください。


 例えば誰か大切な人一人の命と引き換えに世界が救えるとして、あなたはその人を差し出すことができますか?


 そんな歌詞の曲が流行っていたのはもう10年以上前のことだった。私はその時まだ小学生でその意味がよく分からなかったけど、のろまな弟一人の命で世界が救えるのならどうぞ、と思っていた。


 私は頭が悪かった。今も悪いと思う。学校の勉強が苦手で、漢字を覚えるのも分数の計算をするのにも一苦労だった。宿題の量が増え、テストの点数が減り、怒られる回数が増え、授業中に当てられる回数が減っていった。子どもながらに自分ばかりやり玉に挙げられるのは理不尽だと感じていたし、真面目に勉強をしようと思ったこともあったけど、どうしても辛抱が利かず上手くいかない自分に嫌悪感すら抱いていた。一丁前にプライドだけはあったものだから、他人と比較して辛くなることもあった。普通の子どもなら精神的に参ってドロップアウトしてしまうかもしれなかったが、私には自分を支えてくれるものが2つあった。一つ目はピアノだ。


 何をしても三日坊主の私が唯一続けられたのがピアノだった。きっかけは平凡で、テレビで見たピアニストの姿がかっこよかったとか、そんなことだった気がする。その場で夕飯の準備をする親にピアノをやってみたいと頼んだ。親も私が自発的に何かやりたいと言うのが珍しかったから、アップライトピアノを買って、週に二回ピアノの先生を家に呼んでくれた。私は楽譜を読むのがあまり得意ではなかったけれど、ピアノの先生の指使いを観察して暗記するようにして、何度も思い出しながら弾いて楽曲を修得していた。コンクールに入賞することもあったし、私にもできることがある、とピアノを弾いている間は安心することができた。


 ピアノと同様に私を支えてくれたのは、弟のシキの存在だ。弟は学年としては2つ下だけど、私が早生まれなのに対して四月生まれなので、学年ほどの歳の差はない。弟は良く言えばおっとりした性格、あえて悪く言えば愚鈍だった。喋り方はなよなよとしているし、見た目も線が細く女の子みたいで、加えて私に輪をかけて頭が悪い。恥ずべきことかもしれない、私はそんな弟を見下して安心していたのだ。学校の成績が悪くても、弟と比べればまだましだったし、小学校で嫌なことがあっても家で弟にあたってストレスを解消していた。弟は学校でいじめられていたが、いじめられていることに気付かないくらい鈍感で、私が何を言ってもちょっと悲しそうな顔をするばかりだった。そんな弟も成長するにつれて繊細さが多少は増したのか、部屋にこもりがちになっていき、私も私で弟にあたることはなくなり、話すこともなくなっていった。


 中学校を卒業する少し前のことだ。カノルスという新種のウイルスが発見された。今からすれば開発されたという方が正しいのだろうけれど。当時、ニュースでは連日報道されており、聞いたこともない国で感染が確認されたこと、感染力が高いこと、感染すると高熱を発して、脳にダメージを与え最終的には死に至ること、感染しても抗体ができないこと、そして何よりまだワクチンが開発されていないことをキャスターが早口で伝えていた。でもまだ国内で発症例は出ていないし、どうせ大したことは起こらないのだろうと私は思っていた。どころか、きっと日本中がそう思っていたに違いない。


 そんな話題が広まっていたころ弟は中学一年生だった。私と同じ中学校に通っているけど登下校は別々にしていたし、食事も一緒に摂らないことが増え、そもそも顔を合わせるということが同じ家に住んでいるのにほとんどなかった。最近は仕事が忙しい母に代わって弟が料理をすることが多いらしい。これも現場を目撃したわけではなく、母から聞いたことだ。そんな弟と久しぶりに対面するきっかけは、弟がギターを始めたことだった。


 弟がギターを始めた理由は知らない。少ないお小遣いを懸命に貯めて、自分でギターを買ったらしい。家に帰って、いつものように部屋で友達と電話をしていたら、隣の部屋からボロボロと伸びの悪い間抜けなギターの音と、声変わりを済ませていない音痴な歌声が聞こえてきた。通話相手にもばっちり聞こえていたようで、「誰が歌ってるの? 弟君?」と笑いまじりに言われた。いや、どうかな、と適当に返して通話を早めに切り上げた。その時私は恥ずかしさとか電話を邪魔された苛立ちだとかで顔が熱くなっていた。流石に弟に直訴しようと思い立ち、弟に部屋が与えられた時以来に、弟の部屋に行った。一応ノックすると「なーに?」と間延びした返事が聞こえる。私はドアを不服交じりに開けた。


 ドアを開けたら開口一番にギターと歌を止めさせてやろうと思ったのに、それを躊躇ってしまうほど、弟の部屋は閑散としていた。小さな勉強机とソファに組み替えられるベッドが部屋の両角にあって、部屋のど真ん中に安っぽい革張りのギターケースがある他には、カラーボックスが幾つかあるだけだった。弟はベッドに腰掛けて、アコースティックギターを携えていた。弟の姿をしっかり見るのは久しぶりだ、相変わらず華奢だけどところどころが角張りはじめていた。アーモンド形の丸っこい両目が私をきょとんと見ていた。


「どうしたの?」


 機先を制されて私はまごついた。弟相手だというのに一瞬遠慮してしまったのだ。


「あのさ、シキのそれ、うるさいから止めて?」


 ギターを指差して言ってやった。


「そんな、お姉だってピアノ弾くのにずるいよ」


 弟は悲しいとも悔しいともつかない表情で言う。何を言っても言い返さない弟が食い下がるとは思わなかった。それに、痛いところをついてくる。


「あーもう、分かったよ。じゃあギターは弾いてもいいから歌うのは止めて」


 ここはいったん譲歩することにした。楽器を始めたばかりの頃の、探り探りな楽しさなら私も知っているし、それを取り上げるのは流石に酷だと思った。


「そうだね、じゃあ歌うのは止めるよ」


 弟はあっさり応じてくれた。


 それからまた私は弟のことをちゃんと見るようになった。会話などはあまりしないけど、意図的に避けることもしなかった。私の知らないところで弟も年齢を重ねていた。私が高校に上がるころには身長も抜かれた。男女の差があるとはいえ、視線を下げて話していた相手を見上げるようになるのは、なんだか言いようのない違和感がある。弟の所作は相変わらず緩慢で、でも小さい時とは違って落ち着きがあるように見えた。指が長いのは姉弟だな、と感じる。ギターにも案外向いているのではないかと思った。


 事実、弟はギターの腕をメキメキと上げていった。技巧的でパーカッシブな演奏が特徴で、のろまな彼の姿からは想像もつかない演奏だった。調べてみると、弟はトミー・エマニュエルや押尾コータローといったギタリストの演奏を参考に、独学でギターを練習しているようだ。隣の部屋でその演奏が聴こえてくる度に、私は溜息をついて耳を傾けていた。焦燥感がじりじりと沸き立って、弟の演奏が一区切りつくとすぐにピアノを練習した。互いに示し合わせたわけではないけれど、私たちは演奏を被せないようにしていた。この時期は本当に充実していて、遠い地球上のどこかで国際テロ組織が幅を利かせていたことなど、心底どうでも良かったのだ。


 高校三年生になると、隣の部屋から次第にギターの演奏が聴こえなくなっていった。どころか、弟と会うこともまたかつてのように減っていった。私が帰る頃を見計らって、弟は出かけていく。弟は高校でも中学の時と同様帰宅部だった。最初の内は高校で、放課後に遊ぶような友達でもできたのだろうと思った。おかげでピアノの練習も遠慮なくできる、しばらくの間はそう思えたのだが、やがて練習に集中できなくなった。姉弟で切磋琢磨し合ううちに、己一人では練習に身が入らなくなっていたのだ。弟は夕食の前に帰ってくる。何度も問い質そうとしては、弟に頼ろうとしてしまっている自分に苛立ってやめた。ただ、弟に悪態をつくことが増えていった。弟はいつも間抜けな笑いを浮かべるだけだった。余計にイライラした。


 このままでは志望する大学に受からないかもしれない、ピアノのレッスンの帰りにそう言われて家路についた秋の日のことだ。気分転換にいつもと違う帰り道を歩いていると、商店街を抜けた先にある公園のベンチに男女が座っていた。こっちは気が沈んでいるのに、と思いながら遠巻きに見ていると、男の方には見覚えがあった。間違いなくその男は弟だった。


 居心地が悪くなって気付かれないようにこっそり通り過ぎる。弟に先を越された敗北感や身内の現場を目撃してしまった気まずさや恥ずかしさのような感情が胸の内でもこもこと膨れる。速足で帰りながら二人の関係について考えた。弟がどう思ってるかなんて知らない、でも女の子の方は確かに弟のことを好きなようだった。確かに、シキは可愛い顔をしてるし、アイドルっぽいと言えなくもない。そういえばバレンタインデーにチョコレートを持って帰ってきてたこともあったな、そっか、モテるんだあいつ。なんでか分からないけど、腹が立ってきた。落ち込んでる時に目撃してしまったこと、弟の方がモテること、女の子の下心丸出しな目元、色々原因は考えられる。でも一番の理由は――


「シキ、今日女の子と会ってたよね?」


 弟が部屋に入るのを見計らって、即座に弟の部屋に押し入って訊いた。


「えっと、そうだね」


 困惑気味に質問への答えが返ってくる。


「ここのところよく出かけてるけど、あの子と会ってるの?」

「そうだよ」


臆面もなく答える弟に私は恥ずかしくなってきた。


「別に、シキが誰と付き合おうと私には関係ないけど、そんなことのためにギターを止めたってんなら許せない」


 一体誰を許し誰に許される権利が私にはあるのだろう。自分でも何を言ってるのか分からなかった。とにかく、弟の演奏が聴けなくなってしまったことに私は苛立っていた。この時既に私は弟にすっかり依存していたのだ。


「それは、お姉の邪魔したくなかったから」

「それなら、尚更だよ!」


 顔が熱い。弟が何をしようと当人の自由であるはずなのに、非合理なことを言っているのは分かっていた。私は自分の不都合を弟が都合よく動かないせいにしていたのだ。


 それから私はランクを一つ下げた大学に入学してからも、弟とほとんど接触することはなかった。巷では例のカノルスウイルスがいよいよ現実的な脅威となっているため、水際対策がなされているということが騒動になっている。親曰く、弟の修学旅行でも空港での手続きが大変なことになりそうらしい。そんなに危険なら修学旅行なんていかなくてもいいだろうに、そう口に出しかけて躊躇した。今だから言えるけれど、ここで修学旅行の中止を声高に叫ばなくて良かったと思う。本当は全力で止めるべきだったのだろうけれど。


 それは弟が修学旅行から帰ってくる日、ソルフェージュの講義が終わり、帰りの電車に乗っていた時のことだ。夏が始まろうとして、独特の熱気が車内に立ち込めていた。額の汗を拭おうとしたら、鞄の底から携帯が鳴った。慌てて次の駅で降りて電話を取る、母親からだった。まくしたてるように喋る母の声。要領を得ず何度も訊き返した。


 弟がカノルスに感染した疑いがある、とのことだった。


 そのまま反対向きの電車に乗って病院に着いた時、親はまだ来ていなかった。事情を受付で説明すると四十代くらいのすらっとした男性医師が応対してくれた。


「親御さんがいらっしゃったら詳しい説明をさせていただきますが、現在シキさんは厳重に隔離されています。あくまでもカノルスに感染した疑いがあるだけで、詳しい検査結果を待っているところです」


 医師は淡々と話す。頭痛、熱など既に初期症状が出始めていること、入国を拒否された感染者が、弟が修学旅行で利用した新千歳空港に来ていたこと、空港での簡単な検査の結果で陽性だと判断されたことなどを受けて、この病院に弟は隔離されているらしい。遅れてやってきた母親と詳しい説明を聞く頃にはもう外は暗くなっていた。


「まだ詳しい検査を行わないと結論を出すことはできません。もしかしたらただ単に旅先で風邪を引いたというだけかもしれないです。ただ、覚悟はしておいたほうが良いかと」


 覚悟。それは弟との別れについてだろう。


「もう息子には会えないんですか」


 母親の細い声に私まで苦しい気持ちになる。最後にちゃんと弟と会話をしたのはいつだろう? どうしてもっと姉弟らしく私たちは振舞えなかったのだろう。失いそうになって初めて歯痒さが生じる。


「それは、まだなんとも言えません。また検査結果が出た際に、お呼びします」


 それから検査結果が出るまで、テレビやネットは好き放題に弟のことを揶揄した。なぜ危険だと分かっていて修学旅行に行かせたのか、これで国内に感染が広まったらどうするのか、拡大する前に感染の疑いがあるその少年を処分してしまったほうが良いのではないか――


 検査の結果は陽性だった。一週間ぶりに病院に行くと、そこにはカメラやボイスレコーダーを持った人たちがちらほらといて、それ以上に黒いスーツを着た人たちが大勢いた。私はこっそりと速足で医師の話を聞きに行った。


 一週間前と比べて少しやつれた様子の医師は、興奮気味でなんだか歯切れが悪かった。


「陽性、ではあるのですが、不思議なことにシキさんの容体は安定しています。カノルスに感染しているとは思えないほどに。いいですか、これから話すことは大変重要なことです、よく聞いてください」


 姿勢を正す。


「シキさんはカノルスに対抗する何らかの耐性を持っています。これを研究することができればもしかしたらカノルスのワクチンを作ることができるかもしれません」


 それはつまり――


「では息子は助かるのですね」


 母親の涙交じりの言葉に医師は頷いた。


「それどころか世界を救う英雄に成り得ます」


 医師はそのまま弟の耐性とこれからについて説明した。弟はカノルスの症状を強い風邪程度にまで緩和させることができるらしい。これは致死率の高いこのウイルスにおいては凄いことなのだそうだ。加えて、他人への感染も抑えているらしい。だから、端的に言えば弟をこのまま入院させて研究させてほしいとのことだった。カノルスに対抗する手段を人類は持っていなかった。弟は突然救世主に立候補させられたのだ。


 弟は既に研究対象にされることを許可しているとのことだった。母親もシキが良いと言っていて無事で居られるなら、と前向きに返事をしていた。私は、反対だった。いくら国立の病院だったとしても、目の前にいる医師が信用できなかった。弟はこのまま帰ってこないんじゃないか、とも。それに弟は世界を救うだなんて器じゃない。とにかく精神的にも物理的にも弟と断裂したままの現状にイライラしていた。


「それじゃ、しばらく弟と会えないじゃないですか」


 医師にぶつけるように言った。


「それに関しては問題ありません。シキさんからカノルスに感染することはありませんから、面会することも可能です」


 こんな病院で会えても何の意味もない。そういう問題じゃないんだ。


「それなら安心です。ね、ヨブコちゃん?」


 何で母はそれで納得できるのだろう? 


「そうだね、またお見舞いに来ようか」


 私はこんな時でも空気を読んでしまうのだった。そりゃそうだ、たかだか19歳の音大生の我儘なんか、世界を救うヒーローの前では無力だ。


 それからテレビやネットは好き放題に弟のことを褒め称えた。神の子だとか、早く感染を食い止めろだとか、どうしてもっと早く見つけられなかったのか、だとか。私は最初の面会までの日々を自分を納得させることに費やした。そもそもそんなに弟とは仲良くなかったではないか、しばらくの間厄介払いができたのだ、元々他人みたいなものだったし、好都合じゃないか。のろまな弟のことだから、病院での退屈な検査なんて大したことないだろう。


 最初の面会で既に弟の姿は私の知っているそれではなかった。真っ白な病院の壁と同じくらい真っ白なシキ。痩せて髪の色が薄くなり、よくわからない管が無数に弟の身体を蝕んでいた。少なくとも健康な人間の姿ではなかった。


「お姉、母さんも、久しぶり」

「シキ、色々とくっついてるけど、大丈夫なの?」

「ちょっと寝返るのに大変だけど、大丈夫だよ」


 後ろについていた医師が、満足げな顔をしている。


「シキさんは至って正常です。このまま検査を続ければ、いずれカノルスを防ぐ手段を確立できます」

「これのどこが正常なんですか!」

「正常ですよ。それに、検査・研究をすることに関してはご家族の皆さん同意いただいたではありませんか」


 これは後から分かったことだけれど、とても人道的とは思えないような検査が弟に課されていた。弟がどのようなメカニズムでカノルスに対抗しているのか調べるために、何度もカノルスに感染させ直していたのだ。弟も感染しないわけではないから、その度に高熱に苦しみ、脳にダメージを負っていた。でも、死ぬことはできなかった。そして、それを止めさせる手段を私は持っていなかったのだった。


 母は弟の面会に行かなくなった。これ以上見ていられない、と言っていた。自分勝手な母親だ。メシアだとか息子をほめそやされて、差し出してしまったのだから。私はどうだろう。あの時無理を言ってでも弟を家に連れ戻すべきだったのだろうか。


 弟と二人きりで話す、ということ自体久しぶりだというのに、閉塞した空間では何を話せばいいのか分からない。二度目の面会で弟の隣に腰掛け、部屋を眺める。不必要に広々とした立方体に窓はなく、ごちゃごちゃとした機械と弟が眠っているベッドしかなかった。それはいつか覗いた弟の部屋そっくりだ。


「お姉、母さんは?」

「母さんは、多分もう来ないよ」

「どうして?」

「その代わり、私が毎日来てあげるね」

「そっか、それならいいね」


 何がいいのか分からなかった。弟は誰かに反対するということを知らないから、医師に言われてほいほいと入院することを決めてしまったのだろう。


「シキは本当にこれでいいの? ずっとここに閉じ込められて検査ばっかりかもしれないよ。辛くない?」

「嬉しいんだよ、こんな僕でも人の役に立てるなんて」


 シキは優しい。病室で弟の優しさや柔らかさは洗練されていっているようだった。


「でもね」


 弟はぼそりと呟く。続きを言うことを躊躇っているようだった。


「なぁに?」


 続きを聞かせて欲しい。


「お姉のピアノが聴けないのが嫌だな」

「私もシキのギターが聴けないの、嫌だよ」


 二人してにやにや笑った、気恥ずかしい。ほとんど二人で遊んだり、話したりしなかった私たちは、その時間を取り戻すためにお喋りをした。


 雨がごうごうと降った日、私は天気予報を信じて雨上がりを待って出かけようと思っていたのだけれど、一向に止む気配がないから仕方なく傘を握って玄関に立った。扉を開けようとしたその瞬間に呼び鈴が鳴り、そのまま鳴らした相手と対面した。雨にぐずぐずと濡れた女の子は、半年ほど前に弟と二人で公園に居た子だ。


 オナガと名乗る女の子は弟と同じクラスで、ずっと学校に来ない上に事情も教えてもらえないから、とうとううちに話を聞きに来たようだった。流石に雨に濡れた子をそのままにしておくのはまずいと思い、家に入れてタオルとホットコーヒーを出した。遠慮がちにオナガさんはソファに座った。


「それで、シキ君は今、どうしてるんですか?」


 オナガさんはタオルを頬に押し当てて伺ってくる。可愛らしいけど利発そうで、長い黒髪がまだ湿っていた。


「どこまで事情を知ってるのか分からないけど、弟は今入院してるよ」

「もう、二週間も学校に来ていないんですよ。いつまで入院するんですか? シキ君は助かるんですか?」


 必死な様子だった。そんなに気になるなら、もっと早くうちにくれば良かっただろうに。


「退院がいつになるかは分からないよ、でも弟は話せるくらいには元気」

「そう、ですか。シキ君とは会えないんですか?」


 この子はきっと本当にシキのことが好きなのだろう。目の色でなんとなく分かる。それがなんだか羨ましいのと同時に、姉として変な優越感もあった。


「ごめんね、家族以外はシキと面会できないんだよ。きっとその内良くなると思う。その時はまた弟と良くしてやってくれるかな?」


 これは、嘘になるのだろうか。もしかしたら病院に掛け合えばオナガさんでも面会できるのかもしれない。ただ、なんとなく会わせたくなかった。シキと話すゆったりとした時間を私は独占したかったのだ。


「そうなんですか。分かりました、ありがとうございます。シキ君と会えるようになったら連絡をいただきたいです」


 そう言ってオナガさんは私に携帯番号を書いたメモを渡して、コーヒーに口をつけることもないまま、雨の中出ていった。この雨では傘も意味をなさないようだ。私はこれから出ても間に合いそうになかったので、弟の面会に行かなかった。


 次の日に面会に行くと、たった一日開けただけなのに、弟は弱っているように見えた。


「どう、元気?」

「お姉、どうして昨日は来なかったの?」

「ああ、昨日は雨が強くて、ちょっと出遅れちゃってね」

「そっか、昨日は雨だったんだね」

「へ? そう、昨日は雨だったの。でも、これからはなるべく毎日来るようにするから」


 こんな密閉空間では天気どころか昼も夜も分からないではないか。そう思いながら病室を見回すと弟のベッドの隣にテーブルが追加されていて、本が堆く積まれているのが分かった。


「これ、どうしたの?」

「先生にね、本が読みたいって頼んだんだよ。そしたら持ってきてくれたんだ」


 弱弱しく、すらっとした手で本を持ち上げる弟。きっと隣の図書館から適当に持ってきた小説なのだろう、随分と古い。それになんだか小難しそうだ。


「そっか、面白いの?」

「そうだねぇ」


 嬉々として本をめくる弟。


「そう、ならいいよ」


 本について難しい話をされても困るので、私は早々に話題を切り上げた。


「そうだ、オナガさんって人、分かる?」

「オナガさん? えっと、クラスメイトだね」

「仲良いの?」

「うん、多分ね」

「多分?」

「それが、あんまり覚えてないんだ。ギターを教えてもらってた先生の、妹さんなんだけど」

「ふぅん、そうなんだ」


 あの日、弟にまたあたってしまった日、弟はギターをやめたわけじゃなくて、私がピアノの練習をするのに邪魔にならないように、外で練習してたんだ。シキは私なんかよりずっと気が利いて優しいんだ。


「ごめんよ」

「どうして謝るの?」

「だって、お姉なんだか悲しそうな顔してる」

「悲しくないよ、嬉しいんだよ」


 嬉しいのは本当で、今までちゃんと向き合ってこなかったから分からなかったけど、弟は頭は良くなくても、のろまでも、生真面目でいい子なんだなと気付けた。


 それからまたなんてことない話をした。母さんも元気だし、私だって普通に日常を過ごしてる、外は何も変わらないから、いつだって帰る場所があるんだよ。


 弟との会話には何か違和感があった。でも、弟がのんきなのはいつものことなのだろうから、会話のテンポが合わないのは当然だろうと思った。この時生じた違和感にもっと早く着目しておけば良かった。

 弟は記憶を失い始めていたのだ。


 カノルスは脳の記憶を貯蔵する場所にダメージを与えることが分かった。奇跡的にカノルスから生き延びることができたとしても、ひどい時には一日前のことすら覚えていない状態に陥ってしまう。感染した期間が長ければ長いほど、記憶の喪失は深刻になる。そしてそれを取り戻すことは不可能だ。これらは全て弟を研究材料にして分かったことだ。


「記憶がなくなってしまうなんて、分かってたらこんなことさせなかったのに!」


 医師への訴えはあまりにも無力だった。


「ですから、それがシキさんの協力によって分かったのです」

「もう、研究は中止してください! 弟は連れて帰ります」

「それは無理です。もう書面に親御さんもシキさんもサインしたではありませんか。それに、感染拡大の危機はもうそこまで迫っているのですよ、国や世界がそれを許すわけないじゃありませんか」


 このまま私は、弟が全てを忘れてしまうまで何もできないのだろうか。落胆したまま病室に入った。


「お姉、また来てくれたんだね」

「なるべく毎日来るって言ったでしょ、当たり前じゃん」

「そっか、昨日も来てくれたんだね」

「そうだよ、昨日も来たんだよ」

「嬉しいなぁ」


 シキの目が揺れる。髪は元からそうだったみたいに栗色になっていた。これもカノルスの仕業なのだろうか、本当はこんな風に思っちゃいけないのだろうけれど、艶やかで綺麗だった。


「ね、退院したら何がしたい?」


 私は弟の純粋さにちょっとうるっときて、誤魔化すために話を振った。


「そうだね、今は夏なんだよね?」

「うん、まだ梅雨だけど」

「じゃあ、雨が止んだら海に行きたいな」

「泳ぎたいの?」

「ううん、海沿いを歩くだけでいいんだ」

「なにそれ、せっかく海に行くのにつまんない」

「そんなことないよ。それで秋は読書の秋だから本を読んで」

「もう沢山読んだんじゃないの?」

「もっと新しい本が読みたいよ。それで冬は家族でクリスマスを祝うんだ」

「そういえば、家族揃ってクリスマス、なんて何年もしてなかったね」

「お正月は初詣、春はお花見」

「なんだか、さっきから普通のことばっかり」

「うん、お姉ともっと普通のことがしたいんだ」

「普通のこと?」

「沢山お話して、ギターを弾いて、それでお姉のピアノを聴いて。駄目かな?」

「駄目じゃないよ、全然、だめ、なんかじゃ」


 声が震える。泣いちゃ駄目。ああ、どうしてもっと弟と仲良くできなかったのだろう。ただ、普通にこうしてお話するだけで良かったのに。


「泣かないでよ、ごめんね」


 管をかちゃかちゃと揺らしながら、弟は体を起こして頬に伝う涙を拭う。温かくて優しい。本当に柔らかい、でも大きな手に触れられて、心臓が一拍走った。


 それから私は面会に行くたびに、怪しまれない程度に病院の構造を把握するために院内を見て回った。シキは病院の中でも特に厳重に扱われていて、最初の入り口は看護師か医師と一緒に、二つ目の入り口は看護師や医師とは別に棟を管理している人と一緒でなければ入れない構造になっていた。それぞれにパスとなるカードを持っているようだ。


 結局、シキを連れ出すのなんてほとんど不可能なことが分かった。それに連れ出したところですぐに見つかって終わりだ。でも、いつチャンスが来るかなんてわからないじゃないか。


 シキは記憶を失えば失うほど、綺麗になっていった。所作にも以前に増して落ち着きが出てきた。でも、シキ自身は不安に苛まれているようだった。


「僕はきっと、もう外に出られないんだね」

「そんなことないよ。研究は進んでるって先生も言ってたし」

「でも、最近本当に物忘れがひどいんだよ。怖いんだ、このままお姉のことを忘れちゃうんじゃないかって」


 シキは悔しそうに俯く。その姿はいじらしかった。こういう時、姉としてしかシキと接することができないのが虚しかった。オナガさんを羨ましく思う。彼女ならなんて答えるだろうか。


「大丈夫だよ、私のこと忘れても、毎日会いに来るから」

「そうだね、ごめんよ」

「あーもう、一々謝らなくていいよ」

「うん、ごめんね」

「あはは、また、謝った」


 そう言って笑いあう。こんな時間だけでいいのに。


 梅雨もそろそろ終わりのある日、私は大学の支援室で何とはなしに賃貸に関する無料冊子を手に取った。私の大学はキャンパスが地方に3つあり、三年次からキャンパスが変わる学科も多い。その3つの内、徳島にあるキャンパス周辺の賃貸情報についての冊子だった。目を惹く賃貸があった。真ん中にグランドピアノが元から設置されている1Kの部屋。なんとなく気に入ったので冊子を鞄に入れて病院に向かった。

 面会の前に医師が話をするために別室に通した。


「長引いてしまい申し訳ありません。ようやくシキさんがカノルスを防いでいる要因が分かりました。これを応用すればワクチンを作ることも可能です」

「てことは、シキはもう退院できるんですか?」

「もう少しだけ猶予を頂きたいです。しかし、退院する目途は経ちました」


 シキに降りかかった災難を思うと腹立たしい気持ちが募るが、これでシキはあの部屋から解放されるのだ、心は舞い上がる。


 けれど、そんな舞い上がった気持ちなんて、即座に立ち消えてしまうことになった。


 病室ではいつもみたいにシキがベッドに寝ていた。隣に腰掛けるとびくっとシキが反応する。


「シキ、良かったね、もうすぐ退院できるんだってね」

「えっと、はい。ありがとうございます」

「なんでそんな他人行儀なのさ」

「ごめんなさい、その、先生からお話は聞いてるんですが、きっと忘れてしまったのだと思います」


 シキはもじもじしながら話す。胸の奥がかき混ぜられるような、嫌な予感がした。


「それは、何を?」


 質問する声が震える。


 シキはもどかしそうな顔を浮かべて、口を開いた。



「あなたは、誰ですか?」



 シキは、私のことを忘れてしまっていた。


「私のこと、覚えてないの?」

「ごめんなさい」

「敬語なんて使わなくていいよ」

「えっと、うん」

「そっか、忘れちゃったか―」


 覚悟していなかったわけではない。もしかしたらそんな日が来るかもしれないと思っていた。それでもシキが死んでしまうよりはうんとましだ。でも、嫌だ。姉弟としての時間が全て失われてしまったのだ。


「ごめん、ね」


 シキは私の機嫌を損ねてしまったと思ったのか、上目遣いで謝罪してきた。


「一々謝るの禁止したよね、って覚えてないか」


 おどおど私のことを伺うシキは、虚弱だけどやっぱり穏やかで、一層愛おしくなっていた。見つめていると胸がきゅっと閉まるような感触がして、心臓の鼓動が加速する。


「あの、結局あなたは誰?」


 実の弟に抱いて良い感情じゃない。


「私、私はね」


 でもその弟が私を姉だと認識していなかったら?


「私は君の」


 オナガさんのことを思い出す。もうここ以外にチャンスはないかもしれない。



「彼女だよ」



 罪悪感とか背徳感とかで背中がぞわぞわする。


「彼女? それはつまり、恋人ってことかな?」


 これを肯定すれば、もう、引き返せない。


「そうだよ、私は君の恋人」


 病室の検査機が時々鳴らす無機質な音が、違う時間を刻み始めた。


「そっか、それで昨日も来てくれたんだね」

「どころか毎日来てたよ、ほとんど欠かさず」

「本当? 毎日か、ありがとね。だからなんだか懐かしいような匂いがするんだね」

「そう? 退院したらずっと一緒だよ」


 もう私はこの時、シキと二人で生きていく決心を、失っていた普通を取り戻す決心をしていたんだと思う。


 ワクチンの完成を直前に控え、ニュースを賑わせていた国際テロ組織の残党が犯行予告を行った。今日17時に都庁前で爆破テロをする、と。もう既にほとんど壊滅していたその組織の予告を真に受ける人はあまりいなかった。私は直感的に、ここしかないと思った。


 シキの部屋から着替えを一式リュックに詰め、近くの美容室でシキと同じ栗色に髪を染めた。面会に行く道中で、大学の賃貸情報冊子に載っていた徳島のピアノが設置されている部屋を不動産屋に電話して押さえ、口座に入っているなけなしの貯金を全て引き出す。それから病院の受付に不用心にも置きっぱなしになっていたパスカードをくすねてシキと面会した。


 シキは病室の真ん中でいつもと変わらずくつろいでいた。気色の悪い管の群れも随分減った。この分なら簡単に抜けるのではないか。悪いことを企んでる時の何とも言えない昂揚感を隠しながら、シキの隣に座った。


「もしかしたら今日にも退院できるかもだって」


 うきうきで嘘をつく。


「本当? 彼女さん」

「何だよ、その呼び方」


 真面目な顔で私のことを彼女と呼ぶのがおかしくて笑った。


「えっと、でもなんて呼んだらいいかわからなくて。昔の僕は君のことをなんて呼んだの?」


 シキは私の目を覗き込む。お姉、ではまずいよね。彼女なんだから。


「ヨブコって、名前で呼んでたよ」

「そっか、じゃあこれからはそう呼ぶね」


 しばらくの沈黙。シーン。


「おいおい、シーンじゃないよ」

「ごめんよ、どうしたら良かった?」

「謝るの禁止! そうじゃなくって今名前で呼んでみてよ」

「そっか、そうだね。えっと、ヨブコ?」


 シキに初めて下の名前で呼ばれて背中にぞくぞくっとした感触が走る。これは耐えられそうにない。


「はぁい、シキ?」

「へ? あ、はぁい」


 互いに名前で呼び合ってぎくしゃくとした間抜けな返事をする。二人きりの部屋でこそこそと笑った。何となく今のやり取りで、シキは自分の名前さえ忘れかけているのだと気付いた。これからは二人称で呼び合うことにしよう。


 テロの犯行時刻になったが、一向に騒動が起こる気配はない。私はシキにちょっとごめんねと了解を得て病室を出た。携帯でニュースを確認する。都庁前にはテロ対策で警備が立っていて、予告時刻に例のテロリストが単身で走って突っ込んできたらしい。簡単に警察が取り押さえるもテロリストが身に付けていた爆弾が暴発した。しかしあっけないことにほんの小爆発だったようだ。取り押さえた警察どころか犯人も死ぬことはなく身柄を確保。あっさりと事件は解決した。


 病院の中ではパスカードが一つ紛失したとしてちょっとした騒ぎになっているようだ。結局そう簡単にシキを連れ出せやしなかった。当たり前だよね。パスカードは返却して徳島の部屋に関しては後で電話を入れておこう。そんなことをしばらく考えていたら、けたたましく救急車のサイレンの音が鳴り響いた。一台や二台ではない、院内全ての救急車が出動したのではないか。ニュース速報が出る。テロリスト及び辺りにいた警察官が突如頭を押さえて発狂したように倒れた。周辺にいた人々も頭痛や気分の悪さ、発熱を訴え病院に駆け込んでいるらしい。病院内もてんやわんやの様子。ここしかチャンスはない。病室に戻りシキのもとへ駆け寄る。


「ねぇ。またギター弾きたくない?」

「弾きたいね。今まで弾けなかった分、たーんと」


 シキはギターのことなら何一つ忘れてなかった。


「私もピアノを沢山弾きたい」

「そうだね、ピアノもずっと聴いていたい」


 私がピアノを弾くことも忘れてはいないのだ、きっと。


「それならさ」


 息を大きく吸う。


「誰にも邪魔されない、二人きりのスタジオで暮らそう!」


 私はシキにくっついている管を全て外した。存外あっさり抜けた、血も出ていない。


「どうしたの?」

「逃げるんだよ、ここから。普通に生きていくために」


 ナースコールのボタンを押してシキをベッドに座らせる。ここからは運次第だ。病院中がパニックになっている今なら、人手不足でこっちに来るのは――


「どうかしましたか?」


 ラッキーだ。この病棟の管理者の一人がやってきた。


「すみません、シキが管をはずしてしまったみたいで」


 そう言うと管理者はこちらに接近してきた。シキの手を握る。後ちょっと。ベストな距離感まで近づいてきたところでシキの手を引いて、もう一方の手で管理者の首にぶら下がったパスカードを強奪した。病室を出る直前、ガシャンと言う音がした。反動で病室の検査器が倒れ管理者が追いかけてくるのを妨害したようだ。


 パスカードを使ってゲートを開き、騒然とした病院を最短ルートで駆ける。二つ目のゲートをくぐった時、そこは地獄絵図と化していた。溢れんばかりの人々が悶え、苦しんでいた。この飽和状態では受付も機能していなかった。一瞬でも躊躇ったら駄目だ、シキの手を引いて病院の外へと飛び出した。


 それから近くの公園のトイレでシキを着替えさせた。街中パニックの様相だが、それでもなるべくばれないように、暑いだろうけれど顔の隠れる鼠色のモコモコしたパーカーを被せた。テロリストと天気に感謝しなければならない、駅前は人で溢れ雨は視界を遮った。誰もシキに目もくれない。改札前でシキと一悶着あったけど、結局電車に乗ることができた。


 着替えが済んでからぎゅうぎゅう詰めの電車を降りるまで、私は片時もシキから手を離さなかった。本当は飛行機か新幹線で移動したかったけれど、シキが見つかった時のリスクを考えて電車を乗り継いで行った。当然だけどそれではとても時間がかかった。ネットカフェやビジネスホテルを利用しながら、騒然の拡大する日々をやり過ごすのは私以上にシキの負担になったに違いない。それでもシキはしきりに私に謝ろうとするから、その度に私は先んじて謝るようにした。


 たったちっぽけな自爆で日本中がバイオハザードだ。調査の結果、あの小規模な爆発が生物兵器をばらまいたようだ。その正体は強化されたカノルスだった。パンデミックは拡大し、何の対策も取れぬまま、強化カノルスに感染した人はほとんど残らず死亡している。さらに、同様のバイオテロが世界中で生じている。どこの誰とも知れぬ偉そうなコメンテーターが言う、このままでは世界が滅亡する、と。戦慄した。シキを使った人体実験は後少しで結実し、カノルスのワクチンが開発される目前だった。つまり、まだワクチンは出来上がっていないのだ。私がシキを連れ出さなければ、今頃ワクチンが開発されて感染の拡大を防げたかもしれない。このまま人類が死滅したら? 私が世界を滅ぼしたことになるのだ。ビジネスホテルの狭いベッドで罪悪感に苛まれカタカタと震えていたら、弱い力で後ろから抱き締められる。シキは私の頬をそっと撫でた。


「君は、優しいね」


 数えきれないほどの人を殺した、こんなくずに。


「君がくずなら、僕はがらくただよ。君がいなかったら外にすら出られなかったかもしれないんだから」


 シキは耳元で囁く。私は本当にくずだな、こんな時でも幸福感を得てしまうのだから。


「ね、こっち向いてよ」


 シキに促されて寝返りを打つ。薄暗いオレンジ色の照明で栗色の髪がちらつき、潤んだ目が私を捉える。


「後少しで、普通に暮らせる日が来るんだよね? だからもうちょっとだけ頑張ろう」


 シキはどこまで理解しているのだろう? 入院していた理由まで忘れてしまっているのだろうか。こんなんで普通に暮らせるはずがない、私も、シキも。


「そうだよね、ありがとう」


 私はシキを抱き締め返す。まだ仲が良かった幼稚園の頃以来だ。15年の歳月は弟をこんなにも魅力的に成長させてくれた、およそ一人の人間が抱えるにはあまりにも大きな歪みを伴って。いや、歪んでしまったのは私自身なのだろう。もうここまで来ておいて引き返すこともできない。


「シキ、目、瞑って」


 素直に疑うことなく目を閉じるシキ。男の子には不似合いな鮮やかな唇に、自分の唇をそっと重ねた。


 くたくたに疲れて徳島の部屋に辿り着いたのは出発の日から3日経った時だった。まだ四国は感染が広まっていなかったが、その分厳重に警戒されていて入るのが大変だった。それからちゃんと部屋を契約して、ギターを受け取って、必要なものを買い揃えて、世界を巻き込んだ駆け落ちが始まった。


 部屋の内装は記憶を頼りにかつての弟の部屋に合わせた。その方がシキも落ち着くんじゃないかと思ったのだ。グランドピアノはなかったけど。それから引っ越したばかりの慌ただしい一週間に終止符を打ったのは夜通し降った雨だった。その日から私の短い幸福な日々がスタートした。


 最初の音はラだった。ギターのチューニングを合わせるために何度か叩いた。チューニングを終えたシキが演奏を始めるのをじっと見つめていた。そんな私を見つめ返すシキ。


「あれ、どうしたの?」


 問いかける。


「僕が弾くよりも先に、ピアノが聴きたいな」


 好きな人に好きなことを求められるのはとても嬉しかった。


「えへへ、それじゃお先に」


 賞を貰ったコンクールの時より、大学で教授に好評された時より、私はずっと軽やかに楽しくそしてずっと上手に演奏できた。ずっと弾いていたい気持ちと早く演奏を終えてシキのギターを聴きたい気持ちが混在して、高揚感を加速させた。


 ラウドペダルから足を離した時、拍手が室内に響いた。断続的で弱い、でも今まで貰った中で一番の拍手。顔が熱くなって、たちまち恥ずかしい気持ちになった。


「ほら、交代!」


 誤魔化すようにシキの隣目掛けてソファにぼふっと座った。ちょっと近いくらいの距離感。


「うん、うまく弾けなかったらごめんよ」


 シキは私の左隣でギターを構えた。弾き始めはたどたどしかった。久しぶりの演奏で指が覚束ないようだった。でも、ちゃんとギターの弾き方は覚えていたようで、次第にかつての指使いが蘇ってきたようだ。壁一枚挟んで向こうから聴こえていたシキの音色が、今はすぐ隣にある。プライドに邪魔されて弟の部屋まで聴きに行かなかったことを少し後悔したけど、これから沢山聴いて取り戻せばいいと思った。


 シキの記憶はここのところ安定している。昔のことはほとんど忘れちゃったみたいだけど、病院を抜け出して以降のことは覚えているようだ。それと習慣になっていたことは抜け落ちていないようで、例えばギターの腕もブランクの分はなまっていたけど、練習すればすぐに取り戻せるほどには覚えていた。その他に料理も習慣だったから、正直私よりもできるみたい。ただ、病室で弱っていたシキのことを思い出すと、怪我しそうで怖いからなるべく料理は二人で行った。シキは自分一人でやりたいみたいだけど。


 梅雨が明けてから、灼熱のような夏が訪れた。当初は弟と買い物に出かけることもあったけど、警察官がうろうろしているのを見ることが増え、なるべくシキは外に出さないようにした。シキには体に障るからと説明してシャッターやカーテンを閉めていたけど、実際には見つかるのが怖かったからだ。


「ねぇ、ちょっと買い物にでかけてくるけど、なにか必要なものある?」

「トイレットペーパーが無くなりそうだよ」

「それは分かってるよ。他には?」

「うーん、多分大丈夫かな」

「そっか、それじゃ行ってくるね」

「うん、気を付けてね」


 同棲中のカップルのような、普通のやり取りが楽しい。でも私たちは普通じゃないんだとすぐに気付かされた。帰宅した時シキの姿がなく、青ざめた。結果としてはベランダに出て熱中症でぶっ倒れていただけなんだけど、たったこれだけのことで、緊張で死にそうになるくらい心臓が痛くなった。普通に生きることを望めるほど私たちもこの世界も普通じゃなかった。既に国内の人口の1割が死んだ。私が殺したのだ。


 夏が終わる頃、人類になすすべなくカノルスが四国にも蔓延していることをラジオが告げた。なるべく外には出ない。出るとしてもマスクやゴーグルを着けなるべく短時間で済ませること、だそうだ。私もそれに従うことにした。それからほどなくして私たちの暮らす街からほとんどの人が消えていった。なるべく安全なところへ避難しようということらしい。私は機能しなくなる前にスーパーやコンビニで買えるだけの食料や生活必需品を買い込んだ。これ以上シキを動かすのはあまりにもリスキーだったし、何よりウイルスごときに私の幸せを奪われたくなかった。


「あのね」


 いつもみたく交互に演奏した後、ソファに二人で並んで座っていると、シキが私に寄りかかってきた。やわっこくて温かい。


「どうしたの?」


 私も同じようにシキに体重をかけた。


「僕、君のことが好きだよ」

「私も好きだよ、なにさ突然」

「僕、嬉しいんだ」

「何が?」

「ここのところ一緒に居られるから」


 最近はなるべく外出を控えていたから、確かに一緒にいる時間が長くなった。でも、ずっと一緒にいられるとは限らない。シキのことが見つかってしまったら、私がカノルスに感染したら、あるいは人類が滅亡したとしても、生きる手だてを失えば私たちはいずれ離れ離れだ。


「そう、そうだよ。今までだって、これからもずっと一緒だよ!」


 一緒にいられた期間なんて、シキが入院してから今の今までのほんの一瞬だ。家で暮らしていた時は面と向かって話すこと自体少なかったから。


「そっか」


 心持ちシキの返事が沈んで聞こえるのは、私が落ち込んだ表情をしているからだろう。せめてムッとした表情を作ることにした。


「なに、嫌なの?」

「嫌じゃないけど、ずっと、ずっとかぁ」


 遠くを見つめるシキは、何もわかっていないように見せて、何もかも悟っているようだった。せめて世界が本当に滅びてしまえば、何も気にせずシキと普通に暮らせるだろうに。


「そうだよ、ずっと。そしたら、今年の冬はクリスマスのお祝いもして、お正月には初詣に行って、春はお花見をして、夏は海沿いを散歩して、秋には沢山本を読むんだ。そしてずっと私のピアノを聴かせてあげる。だから、君のギターもいつまでも聴かせてよ」


 きっとシキは優しいから、私が無理難題を言っていると分かっていても、頷くんだろうな。


「うん、そうだね」


 シキは深く頷いた。


 もうほとんどお金はなくなった。街中どこにも人はいない。やがて電気もガスも水道も供給されなくなり、これがゴーストタウンと言うのだな、と灰色の街を歩いて感心した。弟の体は日に日に弱っている。せめて部屋を暖かくする必要があるので、ガソリンスタンドや捨てられた家々から白昼堂々と石油を盗んだ。どうせこの街は廃墟になったのだと高を括っていた。これが失敗だった。冬のある日に物色しに入った部屋に、まだ生存者がいたのだ。居間に繋がる引き戸を開けた刹那に、横から無理やり押し倒される。もがきながら誰にやられたのか確認すると、もう既に感染しボロボロになった青年だった。揉み合いになりゴーグルとマスクを引き剥がされたが、どうにか振り切って逃げた。多分、この時私はカノルスに感染したのだろう。


 部屋に戻るとシキが不安そうに私を出迎えた。揉み合った時に服が破けたし、ゴーグルもマスクもつけてなかったからだと思う。


「大丈夫だよ、ちょっと転んじゃっただけ」

「そっか、なら大丈夫だね」


 大丈夫なことなんて何一つなかった。


 頭がガンガンする。ひどい頭痛だった。白鍵の境目が曖昧になり、次に叩くべき場所が分からなくなる。何度も音を外して、指が震える。こんな演奏、シキは求めてない。ごめんね、という言葉が体中に駆け巡って、白鍵を思い切り叩きつけて演奏を打ち切る。悔しいからじゃなくて、痛みで泣いてるのだと自分に言い聞かせた。


 もうほとんど食料はなかった。それでもできるだけおいしいものを作ろうと袖を捲る。石油コンロとペットボトルで作った浄水器、震える手。弟は扉を挟んで部屋でソファに寝転がっている。平気なふりをするために、懐かしい歌を歌った。



 例えば誰か大切な人一人の命と引き換えに世界が救えるとして、あなたはその人を差し出すことができますか?



 絶対にシキは渡さない、世界を滅ぼしてでも。


 もうすぐ死ぬことは分かっていた。せめて最後まで恋人としても姉弟としても私たちらしい普通を過ごそうと決めた。熱にうなされて全然ピアノは弾けなかったけど、弾けないねと笑い合った。私たち以外を殺しておきながら、トランプをやって二人じゃつまんないねと、ケチをつけて、謝るの禁止するのはやめて、ごめんねって言われたらごめんねって言い返して、暖房の利かない部屋で身を寄せ合って、何度もキスをして体を重ねた。


 冬なのに体中が熱い。もう痛みは感じなくなってしまった。シャッターの隙間から僅かに光が射し込み始めたようだ。段々何もかもが同じ灰色に見えてきて、でもシキの髪は栗色に美しく輝き、唇は赤かった。ごめんねって言おうと思っても口がうまく動かない。シキの手を握って自分の頬にあてる。冷たくて気持ちがいい。ごめんね、またひとりぼっちにしちゃうね、せめて死んでも隣に居させてよ。私はいつもシキとしているように、眠りに落ちる前にキスをした。


 お読みいただきありがとうございました。

 もっと短く纏めるつもりだったのですが、存外長くなってしまいました。

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