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「ふんふんふん、ふんふふ〜ん、ふんふふ〜ん、ふんふふ〜ん♪」
青年は鼻歌を鳴らしながら、花壇に水を遣っていた。
年は三十を少し過ぎたぐらいだろうか、老いた様子は見られない。
しかし、纏う空気には、不思議なものがあった。
まるで、この世ならざる者のような、姿形はありながらここには存在していないかのような……。
そんな青年は、上機嫌に、水を蒔き続けていた。
「先生!」
ふいに、女の声が青年に向けられた。
青年はゆっくりと声のする方に視線を向け、目を細めた。
「ん、誰かと思えば……。どうかしたんですか?」
言いながら、手に持っていたジョウロを地に置き、ゆっくりと立ち上がった。
青年と同じほどの年であろう女は、青年に応えて言った。
「どうか……したじゃ……、ありま……せんよっ……!」
余程急いでいたのか、女は息も切れ切れだった。
女は息を整えるようにその場で身体を上下させていたが、しばらくすると毅然とした態度になり、青年に歩み寄った。
「今日が何の日か、忘れたわけではありませんよね?」
女の睨むように青年を見つめた。
青年はそんな視線など意に介さず、口元に手を当てて考えて込んだ。
「……はて、何の日でしたっけ?」
しばらく思案に暮れていたかと思うと、悪びれもせずに青年は尋ね返した。
女は一瞬呆気に取られた様子だったが、すぐに我に返り、もう一歩青年に詰め寄った。
「今日は入学式ですよっ? 人類の未来を背負う若者たちが、今か今かと式の開始を待っているのです! 毎度毎度のことですが、あとはあなたが来てくださるだけで、いつでも式は始められるのですよっ」
女は今にも殴りかかりそうな剣幕でまくし立てた。
「ああ、そうでした、そうでした! すっかり忘れていましたよ」
青年は得心したと言わんばかりに両手を合わせた。
青年の態度には、微塵の申し訳なさも感じられなかった。
女は再び呆気にとられたのか、あるいは怒りが頂点に達したのか、声も出ない様子だった。
何かを言いたいのだろうが言葉にはならず、口をパクパクとさせるばかりだった。
「では、この水やりが終わったら行きますね」
だが、青年は女の様子を気にすることもなく、女に背を向けてしゃがみ込んだ。
地面に置かれたジョウロを再び手に取り、水やりを再開せんとしていた。
「いい加減にしてくださいっ。もう皆待機している……と……」
勢い良く発せられた女の言葉は、尻すぼみに途切れた。
女は顔を青ざめさせ、口を開いたまま硬直してしまった。
「これが終わったら、すぐに行きます」
再び手を止めた青年は、顔だけで振り返り、笑みを深めていた。
女はわなわなと震えていたが、しばらくして我に返り、慌てた様子で返答した。
「わ、わかりました。で、では、でで、できるだけ早くお越しください。準備は全て整っていますので……」
女は先ほどまでの勢いは何処に行ったのか、頭を下げてそそくさと走り去った。
青年は女の姿が見えなくなると、ふうと息を吐き、独りごちた。
「いやはや、年甲斐もなく、若い女性を怖がらせてしまったようですね」
言い終えると、ゆっくりと空を見上げた。
「そうですか、いよいよこのときが来ましたか。君たちの血を受け継いだ、あの子たちが……」
そこまで言い終えると、青年は何かを懐かしむように目を細めた。
そして、思い出したように水やりを再開した。
「そうとわかれば、こうしてはいられませんね。早く終わらせて講堂に向かいませんと」
だが、言葉とは裏腹に、青年に慌てた様子はなかった。
「ふふふ〜ふ〜んふ〜んふんふん、ふふふ〜ふ〜んふ〜んふんふん♪」
青年は当初にようにのんびりと、鼻歌交じりに水を蒔いていた。
ただ、気のせいか、先ほどよりも更に上機嫌になっているようだった。




