目覚め、出会い、異世界
__夢を見る。そこはとても明るい闇で、目につく物は緋色の下卑たネオンばかり。
もう疲れたと息を吐き出す青年の姿。
目に見えない夜に吸い込まれるように消えていった白い吐息は、彼の苦悩を映し出している。
おそらく、冬の夜だった。立ち尽くす彼の右手には、つらりと輝く短刀が、血を滴らせていた。
「仕方なかったんだ」
そして彼は消えた。この世界のあらゆる位相から ただ、逃げるように____
家だ。木組みの、素朴だが温かみのある家。部屋は二つしかなく、細く狭い玄関と、寝室を兼ねた大きめの居間。居間には二つの窓が取り付けられており、その反対側にはパチパチと音を立てて橙色に燃える暖炉があった。
窓から光は入ってこない。どうやら今は夜のようだ。
内装は簡素なもので、黒樫の木で作られた木目の綺麗な机と椅子が窓際に置かれてあり、それ以外は、部屋の中央に鎮座している二つのベッドしか無かった。
暖炉の火が不規則に揺らめく。しんしんと広がる暖かな橙色の光は、設置された椅子や机にぶつかり、木で組まれた壁に奇妙な影を映し出していた。
二つあるベッドの内、片方には誰も入っておらず、もう片方には、どことなく柔らかな雰囲気をもつ青年が眠っていた。きちんと肩まで掛けられた毛布には少しの乱れも見えず、青年の安らかな顔からは、彼の体調が良好であるということがうかがい知れた。
少し苦しそうに眉間にシワを寄せた後、何かから解放されたかのように寝返りを打ち、栗色の、少し癖のかかった髪がふわりと揺れた。そして彼の綺麗な二重まぶたが重々しく開かれ、彼は初めて、この世界に降り立った。
彼は辺りを見渡す。不確かな覚醒のもたらす記憶の混濁は世界を虚ろにさせる。
「ただいまー」
玄関の方から声が聞こえてくる。異様に静かなせいだろう。靴を履いたままらしく、足音がここまで響いてくる。
「って、まだ起きて無いよね...」
少しの落胆の響きが付与された。
声の感じから予想すると、十代の若く張りのある女の子。どちらかといえば活動的で、人を振り回すことが得意なのだろう。人の上に立って当然、といった風な気質を少なからず有しているはずだ。青年はそう考えた。
両開きの扉が開き、青年は、恐らくこの家の主人であろう少女を見た。自分の想像と殆ど変わら無い容姿をしていたので少し驚いたようだ。自分より一回りほど小さい体格、線の細い肢体をあえて晒すかのような短い黒のショートパンツに、深緑色のチュニック。
少し目尻の上がった大きな瞳は紫色に輝き、肩甲骨の辺りまで伸びた細い髪が重力に沿ってさらりと流れ、幾分耽美的な雰囲気を醸し出している。唯一想像と違ったのは髪の色で、鮮やかなライトグリーンが暖炉の光を受け、綺麗に揺れていた。
「あ__起きたのかい?...そうかそうか」
淡白な言葉とは裏腹に、彼女の顔には喜色満面といった四字熟語の似合う笑みが浮かんでいた。
「ずっと待ってたんだよ、キミが起きるの。顔色は悪く無いね、意識も割とはっきりしている。さあ早く起き上がって」
青年はようやく自分がベッドに寝ていることに気付いたようで、申し訳なさそうに急いで起き上がった。
「っ、すみません、ベッドを貸してもらって」
「いいんだよ、気にすることなんてないさ。ボクもずっと一人で寂しかったんだ。さすがに、キミが庭に倒れていたときは驚いたけどね」
青年は、比較的整った造作の顔に困惑を浮かべた。
それは彼女の一人称に対してもだったが、何より彼は庭で倒れた覚えは無い。
「倒れていた?庭に?俺がですか?」
「うん。そうだよ。ボクがここまで連れて来て三日間も看病してあげたんだ。感謝してくれるかい?」
彼女は笑いながらそう言うと、蠱惑的な目で青年を見つめた。
「さて、じゃあ自己紹介でもしようか。お互い、相手の名前も知らないんじゃ仲良くなれないしね。
ボクの名前はマーリン。隠遁した伝説の賢者さ!
そしてキミは一体、何者なんだい?」
マーリンはそう言った後、弾むような足取りで歩き、木製の椅子にちょこんと座った。
青年は質問に応えようとして、それに値する記憶が頭の中に一切存在しないことに気がついた。頭の隅々にまで血を巡らすも、今より前の記憶が存在しないのだ。
しかし青年に焦りは見られなかった。まるでそれが当たり前のように、記憶など存在しないのが当然とでも言わんばかりに。
「賢者...?いや、それよりもすいません。何も思い出せないんです。多分、記憶喪失ってやつかも知れません」
自らをマーリンと呼んだ少女は、さすがに驚きを隠しきれないようだった。
「記憶喪失?ほんとに?じ、じゃあこの都市の名前は?王様の名前は?ソーマは、スキルは、魔獣は?」
残念ながら、と首を振る青年。
「自分の名前すらわからないのです。どこに産まれたのかも何故庭に倒れていたのかも...」
見るからに、マーリンは困惑していた。困った時の癖なのか、少し口を尖らせ、ふむ、と呟いてから肩の下まで降りた、綺麗にまとまっている毛先をいじり出した。足を組み、それが彼女のすらりとした生足を強調し、より扇情的なものとなった。青年は思わず頬を朱に染め、顔を背けたがマーリンには気づかれなかったようだ。
数十秒ほどそうしていたマーリンは、覚悟を決めたかのように膝をポンと叩き、こう言った。
「なら、ボクが教えてあげよう。この世界について。街に出て、そしてキミに関わる情報を探すんだ。」
青年は驚き、すぐさま申し訳ないという様子でその提案を断わった。
「え__いや、大丈夫ですよ。看病して下さった上にそこまでして下さらなくても」
「じゃあキミ、この先どうするつもりだい?家が分からない。お金も無い。自分の名前すら分からない。そんなやつ、そこらの魔獣どころか、野犬にでも喰われてオダブツさ」
痛いところを突かれた。確かに、このままでは行き先が不安なんてものじゃない。それに、こんな美少女が付き合ってくれるのなら、このまま厚意に甘えてもいいんじゃないか。
青年の心は揺れ動いていた。
「決まりだね、キミの自分探しの旅に協力させてくれ。それにこれはボクのためでもあるのさ」
「マーリンさんのため、ですか?」
「うん、そうだよ。実はここ30年ほど街に出ていなくてね、一応、外の観察はしていたんだけど、ほら、自分の目で見てみたいじゃない?」
青年は驚いた。目の前の少女が、どう見ても30年以上も生きているように見えなかったからだ。しかし、そんな内心はおくびにも出さず、
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
と応える。
「よしよし、素直でよろしい。あと敬語は使わなくていいよ。街の住人に混乱を与えたくは無いだろう?」
確かに、年下の少女に敬語を使っているのでは、どんな関係か疑われても無理はない。ここは素直に従うことにしたようだ。
青年は少し躊躇った後、話し辛そうにこう言った。
「分かった、じゃあ早速だけど、色々と教えて欲しい。ここが一体何処なのかを。ラピスやソーマ、スキルの説明も」
「りよーかい、その前にキミの名前を決めたいんだが、良いかな?
呼び名がないと、さすがに不便だからね」
青年は頷き、自分にあてがわれるであろう名前へのかすかな期待を抱いた。
マーリンは最初からこうだと決めていたような早さで__事実、最初から決めていたのだろう。何しろ時間はたっぷりとあったのだから__青年の名前を決めた。
「キミの名前はこれからレテだ。悪くないだろう?」
レテ、青年は己の新しい名前を発音してみる。口に馴染まない文字だったが、この国ではこれが一般的な名前なのだろうか。
「そしてここが何処なのか、だね。窓を覗いてごらん」
レテは言われた通りに、ベッドから立ち上がり、窓を覗く。そこには視界一面を覆い尽くす草原が広がっており、蛍なのか、淡い緑色の光が中空を漂っている。
夜の草木は遥か頭上に浮かぶ大きな月の光に濡れており、遠くには巨大な門とその奥に広がる広大な街の光がちらちらと輝いていた。
「ようこそ、言わずと知れた常夜の幻想郷、
『夜想冥界都市エウロパ』へ」