4、願望のない女
瑞貴君の父親は、熱心に明来ゼミナールの宮田専務の話を聞いていた。
北鎌倉の歯科医は、偶然高遠先生の一貫教育の中学高校の先輩で、その上4歳上のお兄さんの友人だったらしく、話が盛り上がっていた。
私は、塾案内を提示し、幾つか基本的な方針を話したが。
「いや、杉浦から、氷室先生の事は伺っています。実は・・・申し訳ないのですが、鎌倉校舎はあまり評判がよくなくて、通わせるのには便利なのですが、別の塾をさがしていたんです。」
やはり、食事の席を設けてよかった。
高遠先生も、真剣な顔になった。
「おい、桑田。今更そんな事を氷室先生に言うなよ。うちの瑞貴がどれだけ氷室先生にお世話になったか。知っているだろ?」
瑞貴君の父親の杉浦さんが、北鎌倉の歯医者の桑田さんにたしなめるようにそう言った。
「いえ、そういった生のお話を伺うのは、本当に助かります。口コミほど恐いものはないですから。宜しければ、詳しくお話していただけませんか?」
私は、手帳を出し、メモをとる準備をした。
大体の話を聞いて、問題点の改善に大いに役にたつと思った。
鎌倉校舎に配属になって2年目の高遠先生は、少し落ち込んだ表情だ。
私は、桑田さんに早急な改善を約束した。
「桑田さん、私は昔から氷室先生を知っていますが。なぜ、実績と人気のある氷室先生が鎌倉校舎に配属になったのか。それは、鎌倉校舎を改善できる優秀な人材だからですよ。だから、安心してお子様を通わせて下さい。」
宮田専務がありがたい事に、援護射撃をしてくれた。
会食は、始終良い雰囲気だった。
杉浦さんは瑞貴君を明来ゼミナールへ、桑田さんも息子さんをうちの鎌倉校舎へ入塾体験させることになった。
本来、勧誘するためにこんな会食を一々設けないのだが。
鎌倉校舎の悪評が聞こえていたことと、杉浦さんは経済倶楽部という社交クラブの青年部部長をしており、顔が広いので宮田専務にも紹介しておこうと思ったのだった。
結果、良かった。
「桑田先輩~、今週末の土曜日に鎌倉校舎の懇親も含めて、リトミックの会を開催するんですけど、よかったら来てくださいよー。」
高遠先生の誘いに桑田さんは乗り気になった。
しかし、私は、高遠先生の顔を睨んだ。
「桑田様、とお呼びする!口調ももっと丁寧に!」
公私混同はしないようにと注意した。
シュンとする高遠先生と、 ゲラゲラ笑う、他3名。
無事、会食は終わった。
杉浦さんと、桑田さんを送り出して、ホッと一息ついた。
良い感触だった。
「お疲れ。いい人紹介してくれたし。お礼がてら、ちょっと、飲みに行こうか?」
宮田専務に笑顔で誘われた。
高遠先生も一緒だったから、丁度いいかと思い、頷いた。
宮田専務の知っている店に行った。
パブ風の店。
ピアノが一台置いてある、落ち着いた感じの店内だった。
「ここは、ピアノの生演奏が聞けるんだ。」
宮田専務はそう説明して、ピアノから近い席にしてくれと店員に告げた。
高遠先生は、珍しいのかキョロキョロしている。
いつも、居酒屋専門だし。
「高遠先生、お酒弱いんですから、気をつけるように。」
「はーい。」
私と同じ生ビールを頼んだ高遠先生に、注意をした。
宮田専務は水割りを頼み、そんな私たちをクスクス笑った。
「何か、姉と弟の会話みたいで面白いなー。」
なにが、姉弟だ。
酔っぱらって店に迷惑をかける弟なんて、いらないし。
「えー、俺弟ですかー?どっちかと言うと、世話やいているの俺の方だし。氷室先生って、仕事はバリバリだけど、私生活は心配になるくらい構わないしー。」
高遠先生の暴露に、宮田専務が驚いた顔をした。
「無駄口はしない!」
彼が新入社員の頃、注意した時の口調でピシャリと話を止めた。
高遠先生が当時の条件反射でピタっと、おしゃべりを止めた。
苦笑が漏れる。
だけど。
「いや、氷室先生って、普段はそうなんだ。てっきり、普段も完璧だってイメージがあったから。」
あーあ、やっぱり宮田専務も私に不毛なイメージを持っていたな。
丈治が聞いたら、それこそ大爆笑だ。
って、何故ここで、丈治が出てくるんだ?
私は自分の思考に戸惑い、ごまかすように運ばれてきたビールに手をのばした。
その時。
店内の照明が落ちた。
そして。
ポロン――
何故か・・・わくわくする音が響いた。
ピアノが響くと、スポットライトがピアノ奏者に当たった。
え・・・・?
「いよっ、日本一!!」
隣のテーブル、2人の男性のうち、1人が場違いな掛け声をかけた。
クスクスと場内から、笑い声。
掛け声の主は、ゴツい顔の恰幅のいいおじ様だ。
奏者がそのおじ様を睨んだ。
「おー、睨むなよー。丈治、よそ見しねぇで、ちゃんとピアノ弾けー。」
おじ様がヤジを飛ばす。
そう。
出てきたピアノ奏者は、うちに泊まっていて、今朝私のお弁当を作ってくれた・・・紺野丈治だった。
目の前の出来事に驚いて固まっていると、丈治が私に目を向けた。
そして。
ギャグアニメの主題歌をひき出した。
私が笑った曲だ。
だけど、直ぐにアレンジが入って。
凄く、ゴージャスな、ジャズになった。
何か、よくわからないけれど・・・凄い。
ただ、丈治のピアノに引き込まれる―――
「え、もしかして。紺野丈治?」
宮田専務が驚いた声を出した。
「宮田専務、彼と知り合いですか?」
何か、嫌だな・・・丈治のこと、説明しにくいし。
仕事に絡むと面倒くさい事になりそうだし。
だけど、私の心配も取り越し苦労だったようだ。
「ふっ、違う。彼は若手だけど、海外でも今注目されているジャズピアニストだよ。」
「え・・・まさか?」
ジーンズショップの、オーナーじゃないの?
「そうですよー、まさか海外で活躍するピアニストが、こんな店でピアノ弾いているわけないじゃないですか。」
高遠先生の言葉に私も頷いた。
すると、隣の席から。
「いや、丈治のやつ横浜に来てるっつうから、3日くらいここで弾けって言ったんだよ・・・わ、両手に花でイケメン連れて、しかもおねーさん、かわいいねー。」
隣のテーブルの、こちらに背中を向けて座っていた男性が振り返って、そう言った。
ヤジを飛ばしたゴツい顔の連れだ。
確かに、宮田専務も高藤先生もイケメンだけど、この振り返ったおじ様の方が・・・凄く、格好よくて。
なんていうか・・・華やかで。
いい男の、格が違う。
ちょっと見とれていたら、何かが飛んできた。
そして。
「いてっ。」
それが、華やかなおじ様の頭にあたった。
で、こっちのテーブルにはねかえって。
見ると、紙にくるまれたキャンディーだった。
ドッと客が笑い、タイミング良く曲に入った。
信じられない。
丈治が、ジャズピアニストだなんて。
しかも海外で注目されているなんて・・・。
「横にいる俺の事、ちょっとは気にして欲しいな。」
「!!!」
丈治のピアノに心を奪われて、聞きいっていたら。
宮田専務が私の耳元で、囁いた。
近い距離と耳元にかかった息に、一瞬にして鳥肌が立ち、私は飛び上った。
そして、その拍子にビールのピルスナーグラスを倒してしまった。
あたふたしているうちに、曲が終わり。
気が付くと高遠先生が、自分のお手拭きでテーブルにこぼれたビールを拭いてくれていた。
私も、慌ててビールを拭く。
だけど、焦っているせいか、拭いた勢いでビールがテーブルからこぼれ・・・。
「おい、動くな。綾乃。」
拍手がわく中、丈治がタオルを片手に私の前に立っていて。
私のスーツにこぼれたビールを拭きだした。
「「えっ!?」」
驚いた声を出したのは、高遠先生と隣のテーブルのゴツい顔のおじ様で。
驚いた表情をしているのは、宮田専務で。
そして、面白そうな顔をしているのは、華やかなおじ様。
「ちょ、ちょっと、いいですからっ・・・。」
焦る私をよそに、丈治は私のお腹を拭く。
「あ?面倒くさがってると、こういうのはシミになんだよ。」
いや、そうですけど。
この、状況・・・結構注目を浴びて、キツいんだけど。
「ひ、氷室先生っ、この方と知り合いですかっ!?」
高遠先生、それ今聞くんだ?
はあ・・・空気よめないよね、あいかわらず。
「はい・・・知人です。でも、説明するのが面倒くさいので、多分違うということにしてもらえませんか。」
正直にそのまま言ったつもりなんだけれど。
「「ぶっ。」」
何故か隣のテーブルの2人のおじ様が噴き出した。
「えー、面倒くさいってなんですかー。」
高遠先生が、食いついてきた・・・って、宮田専務もこちらを見ている。
えーと。
「俺がこいつに惚れてんだ。で、俺になかなか興味もってくんねーから、今、猛アタック中。」
「「えっ!?」」
今度は、私とゴツイ顔のおじ様の驚愕の声。
ほ、惚れてるって・・・初耳だ。
「意外か?俺、充分アピッてんだけど?普通サービスで、宅配までやっか?」
ま、まあ、そうかもしれないけど。
「じゃあ、俺のライバルかな?」
宮田専務が、笑顔で丈治にそう言った。
「あ?」
丈治が宮田専務をキツい目で見た。
「俺、氷室先生に結婚を前提に交際を申し込んで、現在返事待ちなんだ。」
「えぇぇっ!?」
今度は、高遠先生だけの声。
うるさい・・・。
「へぇ・・・初耳だなぁ、綾乃。丁度いいから、今、返事しとけ。」
って、何で丈治が決めるんだ。
と、イラッときて、ギロリと丈治を睨んだら、凄い目力で睨み返された。
はあ・・・。
気が付けば、結構な視線が集中した状況で・・・・それには、やはりたえられず。
しかも、宮田専務が、どうぞ?と言うから。
2人になった時に言おうと思っていたのだけれど。
「ごめんなさい。結婚は考えられません。実は今日、後でお断りさせて頂くつもりでした。」
率直にそう言った。
どう言っても、断ることに変りはないから。
「・・・それは、彼、紺野さんとはあり得るって事?でも、君の様なきちんとした家庭のお嬢さんなら、うちの様な家に嫁いだ方が、幸せになれると思うけど?つまり、価値観の問題だよ。」
随分、見当違いな事を言ってくる宮田専務に、私ははっきりと答えた。
「そう言う事じゃなくて。私には結婚願望がないんです。」
結局、丈治は途中でピアノを弾くのをやめ、私の隣に座った。
宮田専務は少し表情を硬くし、あきらめないからと言い残し、先に帰っていった。
重苦しかった空気が少しかるくなったように感じたのは私だけだろうか。
ホッとしていたら、なんと。
高遠先生が、目を離したすきにビールを飲んで、酔っぱらっていた。
仕方がないので、何が楽しいのか大はしゃぎをする高遠先生に1万円を渡しタクシーに無理矢理のせて返した。
「はぁ。」
まったく、杉浦さん達との会食まではうまくいっていたのに。
何で、こうなったのか。
いや、誘われても飲みに来なければよかったのだ。
それならば――
「綾乃。帰るぞ。」
高遠先生を乗せたタクシーが走り去るのを見つめながら立ちつくしていた私の肩を、丈治が抱き寄せた。
部屋に着くなり、丈治に激しく抱かれた。
やはり、丈治が言うように、体の相性は良いらしい・・・。
感じすぎて、ぐったりとした私を腕枕しながら抱き寄せた丈治は・・・初めて。
「好きだ。」
と、言った。
だから。
「はい。」
と答えたら。
途端に舌打ちが聞こえた。
そして。
「ああああーーーー、もうっ。我慢できねぇぇっ!!」
そう叫ぶと、私の上に覆いかぶさってきて、顔を直視した。
「あのなぁ、俺との事、遊びだったら承知しねぇぞ?」
「いえ・・・遊びのつもりは、ありませんけど。」
「じゃあ、何で、俺に興味もたねぇんだよっ。名前もきかねぇ、仕事もきかねぇ、最初に俺の部屋で起きた時裸だったこともどうして聞かねぇ、んで、帰るって言い出す。宅急便が届かなくても、問い合わせすらしねぇ・・・つうか、完全に忘れてたじゃねぇか。ベッドの中じゃあんなにヨガってたくせして、俺がここに来ても帰れって顔しやがって・・・だけど、拒否らねぇ。だから、俺・・・どんどんお前にハマって・・・もう、抜け出せねぇじゃねえかっ!どうしてくれんだよ、あ?何で、そんなに願望がねぇんだよっ。それに、仕事じゃそつがねぇのに、プライベートは何でこんなに気ぃ抜いてんだよっ。俺も簡単に泊めるし、心配でしょうがねぇじゃねーか!!ああっ!?」
「・・・・・・。」
えーと、これって。
つまり。
告白・・・・?
随分と、喧嘩口調だけれども。
「何か言え。ゴラ。つうか、お前。もう、俺の女な?」
「丈治の・・・ということは、付き合う、ということですか?」
「ああ。本当は・・・最初会った日に、言いたかった。」
「あの・・・。」
「あ?」
「私に、何を求めて・・・付き合いたいのですか?」
「・・・・求める?」
「そうです。だって、私。料理も、洗濯も、掃除も・・・にが――「ああ、お前。ドン引きするくらい、家事能力低いもんなー?」
何も、そこまではっきり言わなくても。
ムッとして、言い返そうとしたのだけれど、切ない丈治の。
「ほっとけねぇんだよ・・・お前。」
という声に、何も言えなくなった。
丈治の私を見つめるその瞳は、暗闇が広がっているようだった。
まるで。
ネイビーブルーの―――