遺書という直訴状
死ぬことを想像していない皆様へ
未来の自分への手紙を書こう、という授業を受けたことがある。
そうすると、毎回、私の書く手紙はいつの間にか遺書になるというより、遺書を書いてしまう。
その日のうちに死んでしまうと考えるからだ。
道を歩いていたり、階段を降りていたりすると、ふとした瞬間に死んだ自分が見える。
落下したのか頭から血を流す自分、何時ぞやみた猫のように腸をブチまけている自分、鼻から血を流している自分、木の下に吊られている自分、そこらでのたれている自分、車に引きづられている自分、後ろから刺されてる自分、雷にあたり焦げている自分、工事現場の上から落ちてきたナットで頭が割れた自分、どこででも死ねる筈なんだし、そのどれかになるんじゃないかと思っている。
だから、何かを書残すことを考えてしまう。
この20余年で何度遺書を書いたのだろう、10回くらいは推敲をしていた筈だ。
遺されたものの処理や、財産の贈与先、できれば見られたくないがパソコンのパスワードなども書き残さないとならないかな。
できたら本を一緒に持っていきたいから一緒に火葬して欲しいんだけれどダメだろうか、あの小説の続きがきになるのが心残りだけれど、それじゃキリがないからダメかな、このまま生きて、書物を貪りながら衰弱していくのが最高の死に方なんだけれど許してもらえないだろうか。
どうかどうか聞き届けて欲しい、出来損ないの僕が死んだのだから悲しむのでなく笑って欲しい、僕なんて最初からいなくて弟だけがひとり息子と言って欲しい。
最初からいなかったらちょっと困るけれど、遅い流産とでも思って過去にしてくれよ。
義務で育ててるといったのだ悲しむ道理などないだろう。
良くしてくれたと知っている、恩を仇で返すと知っている、だからこそ、忘れて欲しい。
貴方達が間違ったのではなく、私が間違えたのだと知っていてくれ、納得してくれ。
俺の死は一つの呪いになるかもしれない、俺と同じように死んだものがいるのだから、それと関連付けてしまうかもしれない、だが、だからこそいうな、俺の死は偶然でありこの奇妙な偶然は間の悪さがもたらした一つの事象でしかない。これを関連付けるからこそ呪いとなる。
我が家が2世代に渡り長兄が死ぬなどというまやかしをうんではならない。
私だって未来を書きたい、私よ生きろと伝えたい、けれど、ダメなのだ。私が生きていることが信じられない。いつ何時も生き絶えろと思う私が生き続けていることは許せないのだ。
人は簡単に死ぬのだから、後悔するしかないのだ。
だから後悔を恐れないで欲しい。僕は後悔を恐れてなにもできないから。