クズ
一般的な皆様へ
目的を持って生きている人はどれだけいるのだろうか?
例えば、どうしても叶えたい夢だとか、振り向いてほしい相手だとか、今欲しいものだとか、そういったものを手に入れるために生きている人はどれだけいるのだろうか?
いるのなら教えて欲しい。どうしてそんな気持ちになれるのかを……。
瑣末なことであるが、私にはどうしても理解できないのだ。代替と挿げ替えと言い訳で生きてしまった私には目的を持って生きていく術が分からなくなってしまった。身じろぎひとつ、息ひとつすら億劫に思えるようになってどれだけの時が過ぎたのだろう。私を生かしているのは、ただ育ててくれた父母への義理立てでしかなくそれすらも億劫になってきた。
朝起きるたびに鈍痛がする。他人の顔を見る度に頭痛がする。歩くだけで息がきれる。動きを止めれば冷や汗がダラダラと流れる。それでも人並みに生きねばならぬという。このくらいの苦痛は皆我慢しているという。当事者である私のキャパシティを考慮されることはなく、数値化されているわけでもない大衆の平均が私に我慢を強いてくる。
辛いのだ。苦しいのだ。だのに生きねばならぬ。自死は逃げだと言い聞かせ、前のめりに斃れろと顔も知らぬ皆が言う。何故生きねばならぬのだ。私には夢がない、私には振り向いてほしい人がいない、私にはどうしても欲しいものがない、生きる目的がないのだ。だのに生きねばならぬ。遺されるものの気持ちを考えろという。生きるためにかけた金を考えろという。その考えは確かにそうだと思わされる。生きてきたからには大層な金がかかったにちがいあるまい。だからこそ、ここで死ぬのが最高の贅沢なのではないかとも思う。
最低なことを言っていることは理解している。けれどそうではないだろいか、生きるだけなら軽犯罪を繰り返し、留置所で肩身の狭い思いをしながら出たり入ったりすればいい。多くの人に迷惑をかけながら厚顔無恥に生きることもできるだろう。だけれど、満足に死ぬのなら、ここではないだろうか。生きている意味もなく、誰からも必要とされず、悲しむのは身内だけ、おそらくそれも一瞬だろう。ここが区切りとしては丁度いい、だからみんな死ぬのだろう。社会という不安の大海を前にたじろぎ、安易な方に向かう。当たり前の選択だ。どうせ目的もないのだ、ならば贅沢をするだけして、さっさとおさらばするのが正解なのではないだろうか?
死んだらどうなるのだろうか?無くなるのか、続くのか、はたまた繰り返すのか、誰も知らぬ。彼岸などもあるかどうかわからぬ。肉がないのだ、精神だけで意識が続くのならどれほど苦痛だろう。幻肢痛や時間の観念の消失に発狂もするだろう、ならもうどうでもいいのだ。
みんなそうでしょ、みんなそうでも踏ん切りつけて生きているのに私に出来ないのは何故?