せんぱい
バイトに受かった翌日。
まだまだ休日という名の土曜日がやって来ないまま和子は風香と一緒に学校へと向かっていた。
自宅から最寄り駅での待ち合わせで、今度は二人でちゃんと電車に乗ることができた。
「それにしても、わーちゃんがバイトなんてねー」
和子がバイトをすることにしたことを風香にもその日のうちに電話で連絡済みで、最初に聞いた時には思わず笑ってしまった彼女だった。あのわーちゃんが接客業をするなんて夢にも思っていなかったからだ。
「もー……」
それでも確かにその通りなのが言い返せなかった。
それから学校に着くまでそのネタで風香から弄られ続けられた。
『お家帰りたい』
風香と別れ一人で教室に入る和子。そして同時にいつもの感情が生まれてくる。
叶うのならばホームルーム間際まで風香と一緒にいたいのだがさすがにそれはできない相談だった。
なのでとりあえずまだ空いている自分の席を確保し、学校指定の鞄の中に入れてある小説を取り出す。勿論偽装のためのカバーをかけてある。
本の内容は今どきの異世界ファンタジー系で、主人公がヒロインの手により現実世界から異世界へと連れてかれ、そこで壮大な冒険が始まる話なのだが、
『知ってる絵師さんだったから思わず買っちゃったけど、やっぱりこういうのってあんまり好きじゃないな』
どうも毛色が合わないみたいだった。
いつも読んでいる小説は日常系で緩い感じを愛読しているのだが、たまに別のジャンルを読んだりしている。これがそれに当てはまる。
『日常系は飽きないけど、異世界系ってなんかワンパターンっていうかありがちな話しかしないとか……』
それは日常系にも言えることだが、それでもそれ以上にそう思ってしまうほどのものであった。
「ねぇねぇ、川和さん何読んでるの?」
「!?」
なんだかんだで読みふけっていた和子の前にクラスメイトである江柄子菜乃華が本のことについて訊ねてきた。彼女は陸上部に入っており、朝練終わりで教室にやってきたところ、和子が読んでいた本が気になり話しかけたのだ。
こういうことは時々あるのだが、如何せん対処法が未だに見つかっていない。誰か助けてとネットに書き込みかける程である。
自分がヲタクであることは極力隠していきたい。それは中学から一貫していることで、恐らくバレてはいないと思っている。
なのでリア充オーラをかもちだしている江柄子にもバレないように、頭の中な咄嗟に出てきた言い訳でやりすごそうと決めた。
「あ、の……えと……その…………じゅ、純文学……」
「純文学! なんか川和さんらしいね!」
とりあえずラノベではないことを思わせるために、難しい本読んでますよあんまり興味ないでしょと言わんばかりのオーラをできるだけ頑張って出してみる。
しかしそれが仇となり、江柄子が興味津々で食いついてきてしまった。
「どんな話? 恋愛だったりする?」
「え、えーっと……その……」
どんな内容にしようかと考え直したところ、ちょうどチャイムが学校全体に鳴り響いた。
ナイスタイミングと心の中でガッツポーズをして栞を本に挟んで鞄にしまった。
「あ、ホームルーム始まっちゃう。次の休み時間にね!」
「う、うん……」
バイバイと手を振って自分の席へと向かっていく江柄子の背中に一応小さく手を振り返した。できることなら忘れてくださいと心から願いながら。
そして思惑通り江柄子が次の休み時間に和子の元へと訪ねることはなかった。
「…………え、部活?」
「うん。部活」
放課後。
まだまだ午前のみの授業が続く中帰りのホームルームが終わり、速やかに教室から出て風香の元へと向かったところ、彼女の口から死の宣告が告げられた。
考えてみれば確かに小学校中学校と風香は部活には入っていたものの、同じクラスだったためまだ軽減できたことだった。
しかし今は違う。違うクラスであり二人で会う時間が極端になくなった上でのこの追い討ちに和子の心に大ダメージを与えた。
「悩んだけど水泳部に入ることにしたんだー」
「そう、なん、だ……」
これからどうしたらいいのかわからなくなってきた和子。本当に不登校になってしまおうかと本気で頭の中で確信し始めた時に、風香が和子の考えたこともなかったことを言った。
「わーちゃんがバイトしてる日とあたしが部活してる日が被ったらどっちも待たずに一緒に帰れるね!」
真っ白に燃え尽きつつある和子の心に一筋の希望が生まれた。
今までは一緒に帰るため、主に和子が風香の部活が終わるまで待っていたりしていたのだが、これからはそれがなくなるのだ。風香が部活終わりに和子の働き先に足を伸ばしたらそのまま一緒に帰れることになる。
そう考えただけで浮き足立ち、今からバイトに行くことが楽しみで仕方なかった。
「そ、そうだね! バイト頑張るよ!」
「なんかわーちゃんテンション高いね。それじゃああたしは行ってくるから、わーちゃんも頑張ってね!」
風香と一緒に帰れる日が多くなる。それだけでも和子は幸せな気持ちになり、手を振ってくれている風香をちゃんと見送ることができた。
バイト先である喫茶店へと和子一人、重い足取りでやってきた。近いとはいえ一駅分を歩くことは未だに慣れていないからだ。
カランカランと扉に付いているベルを鳴らしながら入る。
「来たね。入って左の部屋に制服あるから着替えてきて」
既に中には店員の時雨と老婆の客がいており、準備をしてこいと奥にある扉を指さす。
老婆が和子の方へと身体を向けてニッコリと会釈するも、彼女はあわわとして逃げるように店内の奥へと消えて行った。
「可愛いねぇ」
「新人だからお手柔らかにな」
二人が和子のことを話すのだが、それがまた追い討ちとなって急いで休憩室へと入っていった。
休憩室は喫茶店と同様の雰囲気を出しており、小さな部屋だが十分に休めたりできる場所である。
加工した木で出来たロッカーが壁に沿って置いてあり、計四つあってそのうちの一つに和子の名前が書かれたカードが貼られてあった。
そこを開けてみてみると中に制服がハンガーにかけられていて、予備のハンガーも数個ある状態だった。
そのハンガーに今着ている制服を脱いでかけ、そして喫茶店の制服を着てみる。
それは時雨が着ているものとほぼ同じで、違うところはサイズが一回り小さいのとネクタイが青ではなくて赤色なだけであった。
部屋に置かれてあるスタンドミラーに自分の全身を写してみる。サイズは事前に言っていたからピッタリで、なんだか入学式当時の気持ちを突沸させる。
思わずその場でクルリと回転して後ろ姿も見てみる。後ろ髪が引かれて宙を舞う。
しばらくの間変わった自分の姿に夢中で、誰かが休憩室に入ってくることに気づかなかった。
「…………何やってんの?」
冷たいその一言で和子は現実へと戻ってきた。驚いて声がした方を向いてみるとそこには和子と同じ制服を身にまとった一人の少女がいた。
ゴムで結ばれている銀髪のツインテールは太股辺りまで長く、ややツリ目気味のその瞳は和子のことを警戒しているようにも見えた。
が、和子は平均より身長がやや高く、その少女は風香と同じく平均より低めであるため若干の上目遣いになってしまっている。
そんな態度を受けながら冷や汗をダラダラとかきまくっている和子を、今度はジロジロと見つめる。
『帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい』
その場から一歩も動けずにいて、何も起こらないようにただ祈り続ける和子。そんな彼女のことがようやくわかった少女は手のひらをポンと叩く。
「お前が新人なのね」
「ヴぇ!? あ、その……えと……」
つまりこの少女は昨日時雨が言っていたもう一人のバイトの子ということに和子は今気づいた。
その少女は軽く喉を鳴らしてから和子に自己紹介を始めた。
「これからよろしくね。アタシは鎖倉一菜。お前は……えーっと……」
「……か、川和和子……です……」
「よろしくね」
握手を求められ、和子はオドオドとした手付きでその手を握る。手汗が溢れ出てくる前にさっさと手を離したいのだが。
しかしその手は一向に離れなく、それどころか何故か逆に一菜の方がオドオドとし始めた。
「アタシ、普通よね? 普通にできたよね!?」
「…………え?」
何を言っているのかまったく理解できていない和子を、一菜は少し頬を赤く染めながら告げた。
「みんなに言われてるのよね……一菜は怖いからもう少し優しく振る舞った方がいいよって」
「は、はぁ……」
『急にそんなこと言われても……』
本音を心の中でぶちまけながらもチラッと一菜の方を見てみる。彼女は心配そうな表情で和子の反応を伺っていた。
「あ! で、でも勘違いしないでね! それを褒めても嬉しくないから! ほんとだから!」
しかしふんとそっぽを向いてしまい、自分のロッカーの前に来て着替え始めた。
『…………可愛い』
リアルツンデレは無いかなと思っていた和子だったが、この一菜の姿を見てその考えも見直すべきかと改めた。
手慣れた手つきで喫茶店の制服を身にまとい、黒色のネクタイを結んでから彼女はツインテールを解く。
ツンデレのアイデンティティーを自分から捨てるなんて、とジロジロ一菜の生着替えを鑑賞していながらそんなことを考えているとその思考を読み取るかのように彼女から理由を説明された。
「こっちの方が気合入るから」
そう言って今度は髪型をポニーテールにする。ぷっくらとしたそれは確かにやる気が出そうなものではあった。
「ほら、行くよ」
「え? あ、あぁあ……うん……」
思わず見蕩れていたその姿が休憩室から出ようとして和子はようやく動き出せた。
二人して喫茶店へと向かうと、先ほどの老婆は既に帰っていて時雨がマグカップを洗っているところだった。彼女らを見た時雨は洗い終わったマグカップを乾かして置くところに置いた。
「それじゃあ適当に教えてやって。ワタシは一服してくる」
そう言うと彼女はすぐに店の外へと出て行ってしまった。一菜が呼び止めようとするがベルの音が虚しく響くだけだった。
他に誰もいない喫茶店に取り残された二人だったが、ため息をついて先に動き出したのはやはり一菜だった。
「全く……アタシは土日だけなのに今日呼ばれたのはやっぱりそういうことね……」
薄々と感じていたことだったが確信に変わったみたい一菜であった。要するに新人にバイトの説明をめんどくさくてしたくないため自分を急遽呼んだのかと。
「今日部活の説明会のはずなのに……もう」
「あの……えと……ご、ごめんなさい……」
何故か罪悪感が生まれた和子は思わず頭を下げてしまう。しかし一菜は慌ててそれを否定する。
「べ、別に謝らなくていいわよ。過ぎたことだし、あの人の身勝手さはもうわかってることだから」
コホン、と喉を鳴らして改めて和子に向き合う。そしてビシッと彼女を指さす。
「兎に角! アタシに教えてもらうからにはビシバシいくからね! ちゃんとついてきなさいよ!」
「ヴぇええ!?」
「わーちゃーん、来たよー!」
カランカランと何度目かの喫茶店のベルが店内に響くのと同時に元気の良い声もまたそれに負けない程の大きさだった。
時間は午後を回り二時手前。
部活の説明会は一時過ぎに終わり、そのまま風香は和子のいる喫茶店へと走ってきたのだ。
「い……い、らっしゃいませ……」
「声が小さいわよ! もっと大きく!」
「っい、ぃらっしゃぃませ……」
「大きくハッキリと言いなさいよ! いらっしゃいませーって!」
しかし和子は現在進行形で一菜の猛特訓を受けているところだった。それも親友の風香が来たことにも気付かせない程に。
あー、と彼女は察して静かに店外へと出て店の壁に寄り添っている時雨のところに行く。
「わーちゃん頑張って」
「しばらくは終わらないとは思うけど」
店の外にいても聞こえてくる一菜の発声を聴きながら風香と時雨は世間話をして猛特訓が終わるのを待った。
それが終わる頃には夕方になっていたが。