始まりの非日常
「ぷっ。アハハハハハ、アハ、ハハハハハハ!!」
「わ、笑わないでよー! もー! だから言いたくなかったのに……」
場所は変わって下校路。学校から駅までの道のりを二人仲良く歩いている最中。
入学式とのこともあり、午前中で終わることになっていたため、一緒に帰ろうということで待ち合わせをした。
風香にとっては割とあっという間の出来事らしかったのだが、和子にとっては永遠ともとれる苦痛の時間だったので、彼女に会えたことはとても嬉しかったのだ。
それから風香に今日のことを聞かれたため、最初は断っていたがやがて渋々と話した結果がこれだった。
「あはは……ごめんね、わーちゃん。でも、なんだかおかしくて」
「それはそうだけど……」
今思えば何故あんなことをしてしまったのかはわからない。今朝の頑張るやり方を少々はき違えたことは確かだった。
それでもこれは、彼女の多々ある黒歴史の一つにランクインすることは間違いなかった。
「じゃあとりあえず、自己紹介からいこうか」
担任のその一言で、とりあえず和子はこの担任を嫌うことにした。
『なんでとりあえず自己紹介しなきゃいけないの……』
何を隠そう和子は自己紹介がこの世の中で一番嫌いと言っても過言ではないほどなのだ。
あがり症でコミュ障、人見知りの権化である和子にとっては教卓前に立つことはおろか、自分の話をするなんて以ての外だった。
『お家帰りたい……』
そんな和子の心情なんて知ることもなく、担任はまずは自分のことを紹介し始めた。
「えーっと、手水拾夢だ。実はここの卒業生で、この学校の詳しいことが知りたかったらいつでも訊いてくれ。あ、忘れてたら勘弁な」
黒板に自分の名前を書いて生徒たちに見せる。字は上手い方ではなく、それでもまだ読み取れる方ではあった。
手水先生の計らいは沈黙していたクラスメイトたちをクスリと笑わせた。
「こんな感じで、自分の名前に中学校、あと一言添えてくれるとわかりやすいな」
『一言って何言えばいいんですかー!?』
手水にとってはサラリと簡単にやってのけられることだと思っているが、和子には果てのなく険しい道のりだった。
あわあわと内心で焦りながらも、しかし担任は早々にクラスメイトの自己紹介の時間を取ってしまった。
「それじゃ、一番からいこうか。折角だから前に出て言おうな」
『あぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ』
もう和子の頭は完全にショートしてしまった。薄々と感じていてしまっていたが、それが現実になってしまったのだ。
あわよくばと淡い期待をしていた自分が恥ずかしかった。入学式なのに自分の席で自己紹介できるなんてことは夢のまた夢だということを。
「出席番号一番! 愛春千秋です!」
和子の心の準備が整っていないまま自己紹介が始まってしまった。
「出席番号二番、新珠真珠です。趣味は散歩で中学は戦花中です」
「淡泣千冬。因みに誕生日は昨日でした」
「出席番号四番の伊江那珂新太郎っす。名前長いけど覚えてほしいっす」
どんどんと順番が進む度に和子の心臓はバクバクと激しく鼓動を繰り返す。
チラッと掛け時計を見てみるものの、休み時間までに彼女の順番は必ず回ってくるのは確定事項だった。
『どうしようどうしようどうしようどうしよう……何も考えてない……』
「出席番号七番、江柄子菜乃華! 馴れ馴れしく菜乃華って呼び捨てで呼んで下さい!」
よくまあその他一言が思いつけるものだと心のどこかで感心してしまっている和子だったが、実際これが普通だと気付くのには遠い未来のことだった。
「井ノ部中出身、日早遠輝です。出席番号九番になりました。これから一年間よろしくお願いします」
とうとう和子の出番である出席番号十番が来てしまった。
遠輝が和子の前の席に戻り、代わりに自分が立ち上がって教卓まで歩かなければならなくなった。
『待って待って待って。何も考えてないってば!?』
「ん? どうした?」
いつまでたっても席から立ち上がらないため、入学式の件もあり心配を顕にする担任。
『……あ。保健室に逃げよう……』
一瞬そう考えたが、すぐにその案は却下した。何故ならまた別の日に心の準備がないまま自己紹介をやらされるに違いなかったからだ。
それと、もう一つ理由があった。
『病弱キャラになるし、何よりみんなに腫れ物扱いにされる……』
一度だけそのようなことを体験してしまったことがあり、それだけは絶対に嫌だと昔心に誓ったのだ。あの自分への対応はいつまでも続くと身を持って知ってるからだ。
「だ、大丈夫です!」
数秒考えた結果、クラスメイトに疑惑の目を向けられるより早く席から立ち上がった。
『ぶ、無難に自己紹介しよう……名前を言って、これからよろしくって』
重い足取りで教卓へと向かう彼女の姿はクラスメイトからして見れば好奇な視線を送ることしかできなかった。
入学式を体調不良で欠席した少女とは一体なんなのだろう、と。
『ああああああああああああああああああ視線がああああああああああああああああ』
クラスメイト全員の視線を浴び続けることに比例するように顔全体が真っ赤になっていく和子。汗が身体中を包み込んだ。
一歩一歩が重く、目的地まで目と鼻の先のはずなのに目に見えないほど遠い場所にあるように思えた。
手汗を握り締めて歩き続けて、真っ赤な顔を隠し続けながらも和子はようやく教卓前に辿り着けた。
『あ……』
初めてこの教室に来てから顔を上げたが、和子は頭の中が真っ白になった。
クラスメイトの視線を正面からぶつかる強さ。それを持っていない彼女は話そうとしていたことを全て忘れてしまった。
教卓前に立ってからクラスの雰囲気でしばらく黙ってしまい、クラスメイトがざわついて和子のことを心配そうに見た。
それにようやく気付いた和子は焦りながら自己紹介を始めようとした。
「…………あ、あの! えっと……か、かわわ……ゎわわわこ…………でちゅ」
シン、と静まり返った教室の中、彼女の噛んだ言葉が全体に広がった。
『か、噛んだぁぁぁぁぁぁああああああ』
噛んだことに対しての羞恥心が尋常でなく、耳まで真っ赤なのは勿論のこと、頭上に湯気が出てるほどに体温が上昇してしまっていた。
所々のクラスメイトにクスリと笑われているのを見てしまった和子は慌てて自己紹介を続けようとするが、
「え、あ、その。あと………………よ、ょろしきゅお願ぃしまちゅ…………」
惨敗となってしまった。
もういっそのことひと思いに殺してくれ。心の中で頭を抱えて嘆いていた。
せめてもの情けなのか、パチパチとクラスメイトから拍手を贈られた。本人にとっては死体蹴りに等しかったが。
そのまま俯いた格好で自分の席まで戻り、机にうっつぶした。誰も彼女のその行動に異論は唱えなかった。
そしてそのままクラスメイトの自己紹介が続けられたが、和子の耳には当然入って来なかった。
「もうやってられないよ!」
「わーちゃんー、それで四杯目だよー?」
学校から最寄り駅前のファーストフード店。
何名か学生グループがいるものの、その多くは上級生と思われる人達だらけだったため、和子の黒歴史を見た同級生のことを気にせずに飲むことができるとのことでこうしてやってきた。
あのことを忘れるかのようにジュースを一気飲みしてはお代わりするという行為をし続ける友人を密かに心配しながらも、風香は止めはしなかった。
「もうやだお家帰りたい……」
「今下校途中だよー?」
四杯目も飲み終わって店員にお代わりを頼もうとする和子に、まぁまぁとそこでようやく風香は彼女の奇行を止めた
「そうだ、なら乗り換え駅まで歩こうよ。気分が晴れるよー?」
「ヴェ!? ふーちゃんは大丈夫かもしれないけど、私は無理じゃないかな……?」
乗り換え駅までは確かに歩くがそこまで歩けない距離ではないため、徒歩でも帰れることには帰れるが、インドア派の和子にとっては地獄に等しい拷問には違いなかった。
「大丈夫大丈夫! わーちゃんが倒れたらおぶって帰るから!」
「うー……早くお家帰ってアニメ観てピョンピョンしたかったけど……」
仕方なく和子は風香の提案に付き合い、五杯目を頼まずに店から出た。