新たなる日常の始まり 01
深い漆黒の髪をした少年、戌井 識は小さく溜息を吐いた。
とある少女と待ち合わせをしているのだが、当の本人がまだ姿を見せないのだ。
待ち合わせは10時。 今はそれを30分以上も過ぎているので、議論の余地もなく遅刻だろう。
相手が待ち合わせに遅れること自体は珍しくない。 とは言え、30分以上もの遅刻は初めてだし、そもそもその性格上、遅れる時は必ず連絡があった。
しかし、今回はその連絡さえない。 本来なら怒っても良いだろう状況で、識がしていたのは心配だ。
心配。
それは、相手の性格を理解しているからこそしてしまう。
困っている人を見ると放っておけない悪癖がある彼女は、トラブルに関わることが多い。 しかも、自分の処理能力を越えたトラブルに首を突っ込むことまであり、危ない思いをしたことは識の知る限りでも一度や二度ではない。
だからこそ、識の心配は切実なのだが、連絡が取れない以上は不用意に動くこともできず、結局のところ心配する以外に識はできないでいた。
(何か、厄介なトラブルに関わっていなければ良いが……)
そんな希望を心中で呟いた識は、特に意図もなく視線を辺りに巡らせ、そして、それを見つけた。
人混みに埋もれるように歩く少女を。
識の待ち人と瓜二つの顔立ち。 淡いイエローのジャージに身を包んだ少女。 識の記憶にある頃よりも随分と髪は伸びているが、それは間違いなく識が知る人物だった。
向こうも識の存在に気が付いたのか、嫌そうに顔をしかめながらも識に歩み寄る。
「……相変わらず不景気なツラだな」
「随分なご挨拶ですね、朔さん」
「あたしのことを名前で呼ぶなって言ってんだろうが」
「善処します」
外見に似合わない攻撃的な物言いに、識はいつも通りの淡々とした口調で返す。
少女の名は桜坂 朔。
識が通っていた中学に2年前まで通っていた先輩で、識にとっては数少ない友人の1人だ。
もっとも、朔が識との関係をどう捉えているのかは定かではない。
基本的に攻撃的な口調の朔だが、識に対しては殊更に攻撃的になる。 名前で呼ぶことは許さないし、識を名前で呼ぶこともない。 それでいて見かければ声をかけてくるのだから、その真意は曖昧だ。
「……なんつーか、あんた、変わんねえな」
「相変わらず性格が悪い、ですか?」
「おまけに気味が悪い」
言葉の刃でバッサリと斬りつけられるが、それもまたいつものことなので識はまるで気にしていない。
「で、なんだってこんなとこにいるのさ? しかも制服なんか着て。 あんた、卒業しただろ?」
「待ち合わせですよ。 制服デートが今回の趣向らしいので」
「はっ、そりゃご機嫌な冗談だ。 あんたとデートをしようなんて物好きがいるとわな」
「実の姉を物好き呼ばわりとは感心しませんね」
「…………」
淡々とした識の返しに絶句する朔。
まさか識の待ち人が自分の姉だとは思っていなかったのだろう。
朔の姉、桜坂 望と言うのが識の待ち人の名だ。
望は朔の双子の姉で、朔と同じく識にとっては数少ない友人の1人である。 とは言え、妹の朔とは違い、識に対して非常に友好的で、在学中どころか卒業後も何度かデートに誘われたことがある。
「もっとも、デートと言うのは冗談でしょう。 冗談と言うよりは悪ふざけの一環と言うべきですか」
「悪ふざけ?」
「どうもあの人は、僕を困らせたいようです。 以前、そのようなことを言っていました」
「はーん。 ま、姉貴らしいっちゃらしいな」
「ところで先輩」
ふと、それまでの雑談の空気を無視して識は言う。
識が朔のことを先輩と呼ぶときは真面目な話がある時だ。 そうでなければ普段通りに朔さんと呼んでいただろう。
「望さんが今どこにいるのか知っていますか?」
「あん? また面倒事かよ……」
識の質問に現状の説明は一切含まれていない。 だが、朔は持ち前の勘の良さを発揮して概ねの状況は察したようだ。 それは勘の良さに加えて、望の妹だからと言う理由もあるだろう。
自身の身を顧みないでトラブルに首を突っ込む性質は、識以上に熟知している。
「なあ、あんたはどう思うよ?」
「確証はありませんが、望さんが連絡もなく遅刻していると言うことを考慮すれば恐らくは」
「だよな……。 ったく、めんどくせえ」
そして、熟知しているからこそ、その行動も早かった。
流れるような動作で携帯電話を取り出すと、そのまま迷いなくどこかに電話をかける。
「……ああ、わりいな、寝てたか? ……いや、ちげえよ。 姉貴を探して欲しいんだ」
識と朔との違いは無数にあるが、その最たるものの一つに『他者を巻き込むことに躊躇がない』と言う点が挙げられるだろう。 現に今も友人の力を借りることを躊躇った様子はない。
「杞憂っつー可能性もあるけどな。 けど、姉貴が待ち合わせの相手を放ったらかして連絡しねえってのが気になってな。……ああ、それで十分だ。 頼んだぜ」
電話の相手は識には分からないが、どうやら協力要請を受けてくれたらしい。 別れの挨拶もそこそこに電話を切り上げた朔は、そのまま識に視線を戻す。
「さて、あたしらも探すぞ」
「それは構いませんが、しかし、良いんですか?」
「あん?」
「何か用事があったのでは?」
「今は姉貴の方が優先だろうが」
「朔さんの場合、常に望さんが優先でしょう?」
「う、うるせえ! つーか、あたしを名前で呼ぶな!」
「そうでしたね、朔さん」
「てめえ……」
明らかにからかう声音の識を恐ろしい視線で睨み上げる朔だが、やがて何かを諦めるようにため息を吐く。
「前言撤回だ」
「はい?」
「変わったよ、あんた。 昔のあんたなら、絶対にそんな顔しなかった。 なんつーか、今のあんたは人間っぽい」
「……一応、人間のつもりですが?」
「そりゃそうか。 いや、悪かった。 さすがに失礼だわな」
「いえ、そう言われて当然でしょう。 僕でもそう思いますよ」
苦笑混じりに肩を竦める識。
それは朔と知り合って間もない頃の識であれば、絶対にしなかった反応だ。 こんな人間的なリアクションを、当時の識はできなかった。
「さて、あまり悠長に話している場合でもありませんし、僕達も探しましょう」
「だな。 んじゃあ、あんたはあっちで」
「はい。 朔さんはそちらをお願いします」
「だから、名前で呼ぶなっての」
「見つけたら連絡と言うことで」
「……覚えとけよ」
無視された朔はもう一度だけ識を睨み、それから踵を返して走り出した。
どれほど強がっていようと、やはり望が心配なのだろう。 その後ろ姿には焦燥が滲んでいる。
そんな朔を見送ると、識も望を探すために走り出す。 それもまた、当時の識にはあり得ないことだった。