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終章 ~クリスマス~


            4


※           ※             ※

 

  「ちょっともういいから蒼汰さん、ほらほら」

  春菜はいつまでも抱きしめた手を離そうとしない男の手を振りほどこうとした。仕方なく手を離した男はにっこり笑って今度は母親の方へ歩み寄った。

 「お待ちしてましたよ、お義母さん」

 母親は子供がイヤイヤするように手を振って逃げる。その様子を見てクスリと笑う春菜はふと視線を感じて振り返るが、駐車場も通りにも誰人影は見えなかった。一箇所、街頭の灯が消えた箇所があり、その街路樹の陰に隠れるようにして佇む男の姿は暗くて気づかなかった。

 

 「もう、なにやってるのよあなた」中に入ると真紀がどなる。「またお姉さんやお母さんにハグしてたんでしょ。人に見られたら恥ずかしいってか、誤解されるからやめてよね」

 真紀の旦那である蒼汰は怒られて頭をかいている。

 「まあ、留学してたときの癖だからしょうがないんじゃない」

 「なにいってるのよ。留学なんて10年前にわずか3ヶ月なんだから。ただのスケベなおっさんなだけよ」

 「そうね、やっぱり問題あるかもよ」

 母親が睨むように義理の息子を見る。

 「ほうら、雪だるまつくるぞ」形勢不利と悟った蒼汰は子供を連れて外へ出た。 

 「雪積もって大変だったでしょう」

 「本当よ、しかもこの子ったら一方通行逆走しちゃうし」

 「ごめんなさい。自転車でいつもあの道通るからつい…それより手伝うわよ」


 「ようやく寝てくれたわ」

 真紀が雪遊びとパーティーで疲れきった子どもたちを寝かしつけて、春菜がひとりきりでビールを飲んでいるリビングへと戻ってきた。

 「子供はバァバと寝ちゃったし、旦那も飲むだけ飲んで高いびき。さあゆっくり飲もうよ」

 真紀が新しいビール缶を開けてテーブルに置き、残ったチキンの身をそぐようにはがしている。

 「あたしはもういいわよ」

 「何言ってるのよ。ようやく静かになったのに」残ったチキンを皿にとりわけて「そう、あの本ね、送り返してくれないかってメール出しといたの。もし連絡あったらよろしくね」

 「あの本って?リチャード・アダムスの? ダメよそんな信用問題よ」

 「だってお姉ちゃん寂しそうだったし」

 「そんなに寂しそうな顔してたかな、わたし」

 「まだ忘れられないのね。どうして会いに行かないの」

 「彼は素敵な小説を書く人だったの。出会った当初は文章は稚拙だったけど、根底に流れるやさしさとか、そういうものに私は惹かれて夢中になったの。そしてなんとしても彼を世に出したくて私の知る限りの小説作法というか文章作法を教えたの。私も作家になりたくてそんなハウツー本を読んだ時期があったの、知識だけはあったのよ。ただ彼は知らなかった、わたしは知っていた、それだけのことよ」

 そこでいったん言葉を区切るが、どうせならすべて話してしまおうと早口になる。

 「それだけでよせばよかったのに、新人賞を落ちてばかりで落ち込んでいる彼のためにストーリーの組み方まで口出ししたの。落ち込む姿が見てられなくって。その結果、彼はひとつの賞をとったわ。だけどそれは彼の作風に合うものではなかったし、私はなんでも賞さえとればよかったと思ったけどそれは違う。少なくともその出版社は彼の作風を理解することはなかったの」

 「よくわかんないけど、それだけ尽くしたのに他の女の人に走るなんて許せない」

 真紀は本気で怒っているようだ。

 「私達が別れて2年ぐらいかな、彼はかなり有名な歴史ある賞をとったわ。彼本来の作風で。そして今でも少しづつ作品を発表し続けているの」春菜は真紀の方を見つめて「結局ね、わたしが彼のためにと思ってしたことはすべて無駄だったのよ。彼の本来の良さを殺してダメにしちゃた。私と過ごした時間や彼に教育めいたことをしたのは全部無駄で、逆に彼の成功を遠回りさせちゃった---そう思うと彼に申し訳なくって」

 「もう、お姉ちゃん良い人過ぎ!」

 激しく言い放つ真紀の言葉にクスっと笑う春菜。外の雪はいくらか小降りになったようだ。


 「ここでいいよ。お母さんお願いね」

 真紀が玄関から出て見送ろうとするのを春菜は押しとどめた。玄関のスロープは雪が積もっているから。玄関先で手を振る真紀に応えてタクシーに乗り込んだ。

 店の場所を告げ、タクシーが走りだしてほっとして足を伸ばした時、足先に何か固いものが当たるのに気がついた。助手席の下に何かある、屈んで引き出すと、感触で書籍だと感じた。封筒の角が雪で濡れているのを知ると、商売柄とっさに中身の無事を確かめるために封筒の中身に指先を滑りこませた。

 「あっ」

 思わず声が漏れたのも当然、差し込んだ指の隙間から覗き見えた犬の絵の表紙は、さっき話していたばかりのリチャード・アダムスの本に間違いなかった。封筒から引き出して雪の滲んだ箇所を確認するが、幸い中まで染みこんではいなかった。それよりも裏表紙を開くと、隅に「イカヨ」と鉛筆書きが見て取れる。昔から春菜が使っている符牒による仕入れ値だ。二冊とも同時期に同じ値段で手に入れた品だ。「フルホンガ、ダイスキヨ」に1~0まで番号を与えた春菜独自の750円をあらわすその符牒を見るまでもなく、何度も繰り返し読んだ本は表紙のかすかな傷や小口の焼け具合、角の潰れ具合まで記憶にあるものに間違いなかった。<下巻>はつい先日送ったものに間違いなく、3年ぶりに見る<上巻>の様子もすべてが記憶と合致した。

「運転手さん」

春菜は大きな声で呼びかけた。


 「そうそう、そのお客さんをここへ送ってきたよ間違いない。やっぱりあんたの知り合いかね」

 彩華堂の前にタクシーを止めると運転手は感心するように言った。倉田の特徴を話すと運転手は本を落としていったのはその男だろうと言った。確かに乗るときは荷物を持っていたはずなのだが、降りるときに無かったのは背中のバックにでも閉まったのだろうと解釈したのだと言った。

 「じゃあ私の方でその方に連絡しておきます。もし、そちらに連絡あったらそのようにお伝えください」

 「いやあ、助かりますよお客さん。しかしこんな偶然あるもんだね」

 こんな稼ぎどきに面倒な仕事が減ったおかげで、運転手は喜びながら雪の中をタクシーを走らせて去っていった。


 春菜は店を開けて中に入り、ストーブの火をつけた。二冊の本を置き、濡れたところへ吸水紙とタオルをあてて処理する。角封筒にもう一冊、薄い単行本が入っていた。その背表紙に記された作者名『権太倉雅流』は「倉田雅之」の本名をもじって最初の編集者がつけた名前だったが、倉田はドン臭い名前だと嫌っていたものだ。威厳のありそうな素敵なペンネームだと何度も慰めたことを思い出して春菜は笑いがこみ上げる。冷えた店内はなかなか暖まらない、春菜はコートを着たまま権太倉雅流の来年発売の新作を読み始めた。表題作の主人公は恋人のために別れたが、仮の恋人になってもらった女と深い中になってしまったこと、再ブレイクした後もそれを悔やみつづけ、恋人のことが忘れられずにいる情けない男のことを、倉田らしい飾り気のない真実味のある文章で淡々と書いてあった。

 バカね、男って…読み終えてふと涙がでた。彼自身の真実の話なのだと不思議に確信できた。

 春菜は店の外へ飛び出して左右を見渡す。ふと気づくと店の前に雪に足あとが残っている。小さいのは自分の、大きいのは倉田のだろう。足あとは店の前でとまり、そしてまた通りへと向かっていた。跡を追って通りへでる。すでに車や自転車の轍や足あとでそれは消えていた。

 足あとの消えた先を追って歩き始めた。




     ※               ※                  ※


 橋をわたる人が怪訝な顔をして通り過ぎる。そのそばをチェーンを巻いたトラックが圧雪を削り飛ばしながら、大きな音をたてて走り去る。その地響きが足元まで響いて倉田は我に返る。気が付くと橋のたもとに近い川の欄干に腰掛けていた。背中や肩に積もった雪で長い時間そのままでいたことがわかる。

 どうしてこんなところにいるのか、ああそうかと、男に抱かれる春菜の姿を思い出した。どうして5年もたっているのに昔の女が結婚もせず、そのまま自分を待っているなんて思ったのか、結婚して子供もいて当たり前なのだ。第一自分のことなどとうに忘れているのが当然なのに、何を期待してここまで来たのか自分の甘さ加減が恥ずかしくなった。アパートの玄関で春菜が振り向いた時、とっさに街路樹の陰に身を隠したのはよかった。そう、このまま帰ろう。心を決めるとゆっくりと立ち上がった。

 寄りかかるように座っていた欄干の後ろに「初雪や 雪かかりたる 橋の上」と書かれた句碑が建っていた。

 そういえば本はどこへ行ったのか---春菜が振り返ったとき、とっさにそばの街路樹に隠れた。皆が部屋にはいるのを確認してから本を拾い上げて歩き出したはずだ。それからどうしたかショッピングセンターでタクシーに乗った記憶があった。それから…彼女の店の前に立っていたことは思い出したが、その時も本は持っていなかったようだ。探すつもりであてもなく道を歩いたのか、いまさら見つけてもどうなるものでもあるまい、諦めよう。広い通りはクリスマスの電飾でどこも飾り立てられていた。LEDの眩しい青い光が目に突き刺さるようで、それを避けるように橋をわたらずにそのまま通りを横切って川沿いの細い道をゆく。

 歩き始めると濡れてたっぷり水を吸ったスニーカーは足を下ろすたびにくちゅくちゅと音をたてる、クツだけに仕方ないか、と薄ら笑いを浮かべて歩き続けた。川の上を跨ぐように、にところどころに細い枠組みがあった。電飾で飾り立ててるのもある。気がつけば何箇所にもあるようだ。

   ---ちゃんとした店をかまえたいの--古い木造で壁は漆喰。そう、川のそばに建ってるような古い…---

 春菜の言葉が記憶の底から浮かんできた。そうか、それでこんな場所に。あらためてあたりを見回すと、その先でまた枠組みが川をまたいでいた。今度は少し長く、さらに川を広くデッキフロアが覆っている、その上にテーブルとチェアが並んでいた。そうか、これは藤棚だ--花や植物には疎い倉田でもさすがに見当がついた。初夏の様子を思い描いてさぞや華やかだろうと眺めていると、テーブルの上に子供が作ったものか、小さな雪だるまが二体寄り添うように並んでいるのに気がつき目を止める。と、その先に川を挟んで女の姿が見えた。向こうもこっちを凝視していた。

 泣きそうな、それでいて信じられないといった顔つきで倉田の顔をじっと眺めている春菜の姿があった。


 先に足を踏み出したのは春菜の方だった。倉田はただ呆然と立ちすくんでいる。滑りやすくなっているデッキの上、春菜がバランスを崩して倒れこんだ。とっさに駆け寄って差し出した倉田の手をとる春菜、目を合わせて笑う。かわらなく優しいその笑顔、初めて会った時のときめきがそのままよみがえって、冷えきっていた体が暖められるようだった。手をとって立ち上がり、膝やスノーシューズの雪を払うと、「ほら、忘れ物よ」と手提げに入れた本を差し出した。中を見て驚く倉田に「本当に相変わらずなんだから」と呟いてから顔をくしゃくしゃにした。   春菜の頬にかかる雪が涙で溶けていく。また強くなった雪から女を護るように、かばうように倉田は彼女を抱きしめた。

 テーブルの上の小さな雪だるまがだけがふたりを見守っていた。


 

                  終章 ~クリスマス~


 目が覚めると6畳の和室は雨戸が閉まっているせいで外の光は遮られているものの、部屋の隅にある電気ストーブがじんわりと周りを赤く暖かい光で照らしている。彩華堂の二階の六畳間にいた。昨夜、数年ぶりに感じた春菜の、ややふっくらしたものの、よりしっとりとした肌を思い出していた。ストーブの灯りをたよりに窓へ近づきカーテン、サッシ、雨戸は木製だ、木片を掴んでロックを外して開ける。外の冷気が音を立てて入り込む。空はまだ薄明かり、それでも降り積もった雪で街の端々まで明るく見て取れる。店のちょっと先で川がくの字に折れているところに幅広の橋があり、そのまん中を表通りから走ってくる人影--春菜が息を切らせながら走ってくるのが見えた。大きな紙袋をかかえて滑らないように足を広げて歩く姿に倉田は微笑んだ。いたずらごころで手すりの雪をとり軽く握って下へ放る。足元に落ちた雪玉に驚いて立ち止まった女は上を見上げて微笑む。冷えていたまわりの空気が一瞬和らいだようだ。そのまま二階へ向かって大きく手を振った。

 「靴屋のおじさんね、まだ寝てたみたい」

 嬉しそうに話ながら紙袋から男物のスノーシューズを取り出した。ふくらはぎまでカバーするアウトドア用品メーカーのしっかりしたものだ。「だって昨日のシューズ乾かなかったし、どのみち今日は帰りにも必要だよ」

 「ぴったりだな」

 「じゃあちょっと散歩しようか」


 昨夜歩いた時よりも少し雪かさが増えていた。彩華堂の前では北へ向かう川もくの字に折れた先からは東の方向へ伸びていた。少しずつ登ってきた太陽が雪に反射してまぶしいくらいだ。少し目を細めて歩くふたり、昨日のテーブルの上の雪だるまが新たに降った雪で半分埋まっていた。震災の前はまだ古い建物や蔵もあったのだという。震災の被害で多くの建物が取り壊されて駐車場になったりしたのだと春菜は寂しそうに説明した。元気よく泳ぐ鯉を眺めつつデッキの上を渡り、今度は北側の道を歩く。滑りかけた春菜の手をとっさにつかむ倉田。一歩一歩、大きく足を上げて、べた踏みで歩く二人の息があって安定して進んでいく。

 「でもいいのか?こんな早朝からふたりで歩いたりして。バレバレじゃないか」

 「そうね、東京じゃないしね。ちょっとマズイのかな」

 それほどマズイといった感じでもなく答える。やがて左から

 「5月になるとね藤の花でいっぱいになるの。この川沿いすべてよ」また藤棚を見つけては嬉しそうに川上を指す。「夜にはライトアップされてとてもきれいなの。それにアヤメもあじさいも、それが楽しみなの」

 「そうだな。見てみたいな」

 「なあ、もし良かったらだが…また一緒に暮らさないか」

 「それは…どうかな」つないでいた手を離して数歩歩いてから振り向いた。「だってもう私達若くないし、いつまでもそんなんじゃいられないよ」

 「そうじゃないんだ。じつは俺は今はそこそこ仕事があって、本も何冊か出してる。今度重版も決まって、もしかしたら並みの暮らしができそうなんだ。それだけじゃないぞ、クロスも貼れるし、4t車も運転できるし、タンスも運べる」

 ぽかんとした表情で春菜は倉田を見ている。

 「だから、何?」

 「いや、だから、結婚しないかってことだ」

 「私にはお店があるのよ」

 「おれがここへ引っ越す。引越は得意だ」

 「あなたの仕事はどうするの?」

 「これでも作家だぞ。どこでだってできる。というかここのほうが書けそうだ」

 「冬は寒いのよ」

 「前とは違う。体を鍛えたせいで基礎代謝も高いから大丈夫だ」

 「なにそれ、わかんない」

 話しているうちに県道との交差点へさしかかった。道路を渡ると昨日倉田がぼんやり座っていた場所についた。『初雪や雪かかりたる橋の上』の句碑に雪が積もっていた。「芭蕉の句碑よ」と春菜が説明する。

 「ねえ、もう一度言って」

 なんのことか一瞬戸惑ったものの、気を取り直してはっきり言った。

 「結婚しよう」

 「いいよ」

 春菜はそう言うと男の胸に飛び込んでいった。

 川で鯉が大きく跳ねた。

 舞い上がる幾多の水しぶきが朝日を受けてきらめいていた。


                -----了------

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