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半沢春菜が生まれ故郷の宮城へ戻ってきたのは4年ほど前の事だった。
倉田と別れて間もなく、父親の様態が悪くなってきて、母親も看病疲れで倒れてしまい、しかたなく春菜は両親の面倒を見るために実家に戻ることにした。妹は同じ市内に住んでいるとはいえ、結婚していてまだ小さい長男の世話もある、母親は少しづつ体調を取り戻していったが、それでも一人にはできなかった。病院と家を往復しながら両親の世話をする生活が半年以上続いた。一時は危うかった父の状態も良くなり、退院できる頃には母親の調子もすっかり回復してきた。すっかり元通りの生活に戻ったかにみえたが、両親の世話のために退職した職場に復帰することは難しかった。
それでも東京でまた職を探そうと考えていた時に東日本大震災が起こった。春菜の家は地盤が緩かったせいなのか外壁に大きな亀裂が入り、中の壁は落ちて屋根の瓦は半分以上落ちてしまっていた。大学教授である父親の書斎は本の洪水となって、とぐろを巻いた龍が住みついたかのような有り様だった。
職業柄貴重な本も多い。傷んだ本はきれいに補修しながら、病み上がりの父に変わって時間をかけて少しづつ整理していった。母はこの機会に本は処分してしまえばいいと言って父と言い争いになっていた。
本の整理と家の修復がだいたい終わった頃はすでに初夏の陽気になっていた。田舎の暮らしがすっかり板について、東京でもう一度働く気持ちが失せ始めた頃、川沿いを歩いていて昔通った古本屋へ入った。
店番をしていたのは、少し老けたものの高校時代に通った時と変わらぬ、見覚えのある店主だった。
---店売ります---
日に焼けていない、わりと最近書かれたらしい紙が貼ってあるのが目についた。何かの冗談かと思ったが店主は
震災で店も在庫の本も被害を受けて、つくづく疲れ果てて店を閉めるのだと言う店主。
---君のことはよく覚えている。よく通ってくれたね、古本が好きな人は見てわかる、あんただったらこの店を安く譲ってあげてもいい---
店主におだてられた形で、七年務めた退職金とわずかな貯金、そして各銀行がここぞとばかりに出してきた復興支援関連の様々な融資のうちの一件を受けることができて店を買い受けることが決まった。店内の在庫は確かに相場よりは安かったようだが、店舗は震災被害の応急処置はしてあるものの、経年劣化による傷みや汚れも酷く、そのままで営業することをよしとはしなかった。結局、予備にとっていた資金も店舗の補修で出て行った。
貯金なしの借金だらけの店舗だが、それでも夢がかなって一国一城の主となれた。美術書や郷土史を得意とする店舗はそれなりに顧客もついていたものの売上は微々たるものだった。日銭を稼ぐために春菜は一般書も売り始めた。店主が変わり、店内も少し明るくなったせいで、少しづつ一般の顧客も入るようになり、僅かながら日銭商売もできるようになった。ネット販売も手を抜かずにこまめに更新し、店のサイトも立ち上げて目録をいつでも見れるようにしていた。
売ることはちょっとしたセンスと慣れで誰にでもできると春菜は思う、問題は仕入れであったが、震災の後で蔵書を処分したいと願う人達は少なくなかった。買取依頼が来ると母の車を借りだして顧客の家に向かい、一点一点チェックする。当初は苦手なジャンルなど、携帯で検索しながら値付けすることもあったが、今では古書店の店主としてはそれなりの知識と貫禄がつき始めた。組合の同業者には馬鹿にされ、支払いが遅れて銀行に酷い対応を受けたり、値付けが高いの、買い取りが安いのと、顧客には毎日のように怒られていたころが懐かしく感じるくらい安定してきた。買い取り品も店の雰囲気にどうしても合わないものは同業者と交換したり、売れないものは処分したりと、それなりのルートも出来上がっていた。商売上見捨てなければいけない本もあるのは残念だが、少しづつ慣れていった。
春菜の「菜」をもじって名づけた「彩華堂書店」の看板は何十年も前からそこにあるように川沿いの町並みに馴染んでいた。
「ただの風邪だろうって。安静にしておきなさいって」
病院から戻った春菜が真希にマフラーを返してから言った。
「油断しちゃダメよ。今日は寝てていいよ」
「大丈夫よ。あれ?子どもたちは」
「おかあさんに頼んで連れてってもらっちゃった。あの子達ったらここ来ると騒ぎすぎるんだもの」
「なにか言ってた。お母さん」
「言ってたけど。いつものことよ。気にしないでいいよ」
「それよりホントに寝てちょうだい。お姉ちゃん。大丈夫店のことはあたしやるから」
「じゃあお願いしちゃおうかな」
春菜は妹の提案を快く受けることにして着替えて休むことにした。
「年末だから通販のお客様にはなるべく早く発送してあげてね。クリスマスプレゼントに贈る人もいるから」
買い取りで店を開けるときは妹に店番を頼むことも多く、店の仕事にはすっかり慣れているので多くの説明はいらなかった。
「プレゼントに古本?あっと、古書だよね。はい、わかりました」
「じゃあ、御願いね、何か困ったことがあれば起こしてね」
「ああ、コレは出しとくの?」
真希が帳場のカウンターの脇に積み上げられた10数冊の本を指し示して聞いた。
「ああ、それは店の在庫とダブっているからネットに出すやつなの」
春菜はカウンターの中に回って手にとって一冊づつ再確認する。
「出しといてあげる。アマゾン?ヤフオク?」
「ああ、それは古書店サイトの方よ、最近はあそこも悪くないの」
「ふ~んそうなんだ。じゃあ出しとくね」
帳場の後側の壁際にも動きの悪い古書が重なって並んでいるため、一人通るのがやっとである。「じゃあお願いね」と言って春菜は体を捻るようにしてカウンターの中からでる。カウンターの内側に立てかけていた春菜の私物の本が身をひるがえした時にワンピースの裾に引っかかって床へ落ちたのに気付かず、そのまま二階へと登っていった。
「さてと」真希は早速ネット販売の本を処理しようと積み上げた本に手にかけた。重ね方が悪かったのか、本は崩れて何冊かカウンターの後へと落ちたのを中に回ってあわてて拾い上げる。「よかった傷んでないわ」一冊づつ確認しながらカウンターの上に戻すと、パソコンを開いて古書サイトにアクセスする。真希はこの作業が気に入っていた。身内の店を手伝うのはなにかと気持ちのいいと感じていた。マニュアル通りに出品する本を登録し始めた真紀は、拾い上げた本の中に姉の私物が混じってしまったことは全く気づいていなかった。
夕方 春菜は人の気配に目を覚ました。真希が額どおしを合わせて熱を計っていた。
「子供のときよくやったよね」真希が笑う。
「もう夜なの?」
「夜7時をまわったところ。旦那が迎えに来たから帰るね。今夜はお弁当で我慢してね、明日の朝は美味しいの作って持ってくるから」枕元においた弁当を指し示して「店は閉めたから裏からでるね。明日またくるから」
そして立ち上がった真希の持った小包みに目を留めて「それ通販?」と尋ねた。
「うん、今日の出品分も早速売れたよ。明日ここ来る前に出してくるね」
「ありがとう」春菜は目を細めて笑ってから「そうだ年末だからポスパケットで出しておいたほうがいいかな」
「あ~年末年始は配達がアルバイトだからね。わかったそうする」
少し高くなるが配達記録がつくサービスだ。誤配は信用を無くすから少しの出費は仕方がないだろう。春菜は起き上がって弁当を食べ始めた。嬉しくて目元があつくなった。
火曜日の朝、店に寄った真紀は店の外を掃除している春菜を見て驚いて声をかけた。
「起きだして大丈夫なの?もう少し休まなくていいの」
「土日あなたに店をみてもらって、昨日の月曜は定休日でしょ、都合3日間も休んだからもう十分よ、ほら」
そう言ってほうきを持ったままピルエットを決める春菜に吹き出す真紀。春菜もつられて笑う。
「あなたは子供どうしたの」店内で珈琲を出しながら春菜が尋ねた
「今日は祭日でしょ。旦那が家で見てる。スウェーデンじゃこれが普通だって、あいつそういうところは変に外国かぶれで助かっちゃうの」
「いいじゃない、そういうの」
「そうそう、明日クリスマスイブでしょ。その外国かぶれが、うちでパーティーやるからお姉ちゃんも来ない?ああ、お母さんも来るわ」
「う~ん」
「男の人と予定があるとかならしょうがないけど」
「そうね、しかたないな行くわよ」
「しかたないってことないでしょ」
真紀は軽く叩く素振りをして笑った。
「ああ、ところでここにあった本知らない?」春菜はカウンターの内側を指して聞いた。
「知らない、そこは触ってないけど、どんな本?」
「ええとね、頭に絆創膏貼った犬の扉絵の」
「あ?もしかして疫病とかなんとか…売れたよ」
そのとき春菜の顔色が変わったのを真紀は不思議に思った。
狭い帳場の内側で二人で何事か言い合ってる。
「売れたものは仕方ないわね。でもちゃんとここに立てかけて置いたのよ」カウンターの内側の棚にそっと本を立てかけた。「何かの拍子に落ちたのね。ドシンドシンと歩いたんでしょ真希」
「お姉ちゃんより軽いですよだ」
クスっと笑って「まあいいわ」と言って体を回して帳場を出ようとした時、ワンピースの裾ベンツが本に引っかかって床に落ちた。今度は音に気づいて春菜は振り向いた。真紀も気づいてふたりで落ちた本を眺めてから目を合わせた。
「ボンディングのワンピースがね、セールだったのよ」
ニットの裏側にボンディングを貼り付けた素材は暖かく張りがあって、切替の妙もあってシルエットが綺麗に見えるので春菜が衝動買いしたのも仕方がなかった。厚みと重みのある素材は、振り返った時に立てかけた本をなぎ倒すくらいのハリと強さがあった。
「たしかにこの前もそれ着てた」
「暖かいしね、デザインも気に入ってるのよ」
今度貸してねと言う真希にいいよと答える。
「その本は大事な本だったの?あるいはキコーボンとか」
「そうでもない、絶版だけど稀覯本とかじゃないわ」
「でも、すごいがっかりしてた、お姉ちゃん」
それには答えずにうつむく春菜の頬にうっすら笑みが浮かぶ。
どんな内容かと聞いてくる真紀に簡単にあらすじを説明する。
「面白いの?」
「昔は夢中になって読んだけど今はそうでもないかな」
「じゃあなんで取っておくの」
再び薄い笑みと沈黙。
「あ~元カレの思い出の品だ。プレゼントの品とか」
違うと言いかけたが、うまく説明できそうもなくて言葉がでない。ゆっくり言葉を選んで話し出す。
「そういうのじゃないの。ただ本当に偶然だけど彼のところに上巻だけ忘れて来て、その本がいまだに彼とのつながりを保ってくれるような気がしてるの」
「本が無くなったら二人の縁が永遠に切れちゃうような気がしたとか」
「うん、そんな感じ。でもいいの。多分そういう時期が来てるんだと思う。いい加減忘れなさいってことね。それに彼だってもうその本を処分してると思うし」
「あたしも読んでみようかなその本」
ネットで検索して「仙台図書館だとあるみたいね」と真紀に告げた。ついでに購入者が気になって確認しようと古書店サイトにアクセスした時に店のドアが開いて常連客が顔を出した。
「年末の大掃除をしてたらいらない本がいっぱい出てしまってね、整理がつかないから買い取りに来てくれないか」
困ったように話す常連客を見て、行ってきなよと合図する真希に店番を頼んで、パソコンを閉じるとすぐに出かけた。
※ ※ ※
「ああ、ありがとう。必ず出席させてもらうよ」
そう答えて地元の同級生との電話を切った倉田。地元の書店が地元出身の作家フェアを開いていて、その中に倉田の本を発見した同級生が急遽、新年会と同窓会を兼ねた倉田の激励会を開くのでぜひ出席してほしいとの電話だった。地元の連中の顔をみるのも何年ぶりかと、喜んで受けた倉田。そして電話番号を実家に問い合わせたおかげで、事情を知った実家の両親や兄夫婦も今年は是非帰ってくるようにと連絡があって、これも喜んで帰省しますと返答したのもついさっきのことだった。
何冊も大ベストセラーを出してる有名作家と自分のような2~3冊の無名作家が同じコーナーに並んでいるのを想像すると恥ずかしい気がしたが、それでも書店のナイスな企画に感謝せずにいられなかった。
さて年内にもう少し進めておくか、と机に向かったときにチャイムが鳴る。郵便局員が持ってきたのは一昨日注文していた、<下巻>だと発送の書店名を見て気付いた。慌てて包みを開き、<下巻>を取り出すとむさぼるように読み始めた。
数時間後、ようやく読み終えて放心状態の倉田。気に入った作品を読み終えた時はいつもそうなるのだが、そう来たのか、ちょっとずるいかな、と感動をかみしめながらぼんやりとした時間を過ごしていた。
一時間ほどたってようやく立ち上がると、放り出していた封筒を捨てようと手に取って、中の納品書に気がついて取り出してからゴミ箱に放る。そのあと納品書を見た倉田の顔がこわばった。そこに書かれた書名と販売価格、そして店名。さらにその下にかかれた責任者の名前に見覚えがあった。
『お買い上げありがとうございました/彩華堂店主/半沢春菜』
※ ※ ※
「もう、いいかげんにしなさい」
真希が朝から騒いでいる二人の子供に我慢できずに声を張り上げる。旦那はまだ寝ている。子どもたちの朝食は済んだものの、今日のクリスマスパーティーの準備で猫の手も借りたいほどなのに、旦那は昼まで寝かせてくれと高いびき、子どもたちは二人で遊んでいるのはいいが、そうすけが1時間に3回は弟を泣かせている。
「今度は何よそうすけ。弟をいじめちゃダメでしょ」
「だって僕の本をとった」
「貸してあげなさいよ本ぐらい。お兄ちゃんなんだから肝の太いところ見せな」
「だってもっくんにもらった大事な本なんだもの」
涙を浮かべて必死に絵本を抱えながら叫ぶそうすけに真希はそれ以上言えなかった。両親の都合で去年の春引っ越していった隣の棟に住んでいた同い年の女の子。引越の日に互いに好きな絵本を交換しあった。同じ幼稚園に通っていて、ものごころつく前からいつも兄弟のように遊んでいた女の子の思い出の品であった。
小さな弟に汚されてはたまらないとばかりに必死に絵本を守るそうすけの姿がせつない。
「初恋だったのかしら、この子…」
真希はしばらく考えこんでからスマホをとりあげると古書店サイトへとログインして<下巻>を買った客のメアドをチェックした。
「クリスマスだものいいよね」独り言をつぶやきながらメールを打ち始めた。
※ ※ ※
倉田は窓から入る光に眩しそうに目を細めて起き上がった。いつのまにかとっくに朝になっていた。春菜がどんな気持ちで自分のところへ本を送ってきたのか考えていて、酒の力を借りても昨夜はろくに眠ることが出来ず、体は重く立ち上がるもの億劫だった。
まだ古書販売をやっていたのも驚いたが、店を構えている古書店だけが出店しているサイトであることも驚きだった。商売なのだから注文があれば送るのは当然としても、倉田が注文主であることに動揺することはなかったのだろうか?まさか忘れているとは思えない。もうひとつの可能性も考えてみる。店頭やネット販売は他の従業員に任せて自分は店主として本の仕入れや経営に専念しているかもしれないと。それなら注文者の名前を知ることもないだろう。
思い切って電話してみるかと携帯を手を伸ばしかけた時に着信音が鳴った。メールの着信音、メールを読んだ倉田の顔が輝いた。読み終えてやおら立ち上がると、「疫病犬と呼ばれて」の上下巻を拾い上げて胸に抱えるようにして、車のキーを掴んで玄関に向かった。玄関のドアを勢い良く開けた時、ちょうど倉田の家のチャイムを押しかけていた男があわてて飛び退いた。編集の関谷だった。
「やあ、いらっしゃい」
驚いてようやく声を出す。
「おや、お出かけですか先生」
車のキーに目を留めてにっこり笑った。
「良い本に仕上がったね。ありがとう」
関谷が持ってきた来年発売予定の単行本を手にとって倉田は満足そうに頷いた。
「いやぁ、装丁担当がよかったんですよ。社内の仕事ですがね、先生の大ファンだって、ぜひやらせてくれって」
関谷は口がうまい、適当な話をでっちあげて人を良い気分にさせる。だがそれが心地良い。
「ところで表題作は先生の経験談ですか?」
「いや、まあ創作部分が多いかな?」
「いやあ、いつになく悲恋ぽい終わり方ですから、なんとなくそうかなって」
ヒット曲も出せない売れないミュージシャンが苦しい生活の中で献身的に尽くす恋人の身を案じて、彼女の人生のために別れを告げ去っていく。やがて男はヒット曲に恵まれてブレイクするが別れた恋人のことをいつまでも忘れられずにいた---やはりバレバレだな、書かなければよかった…ひどく後悔した。
「まあ似たようなことがあったかもしれないな。この歳になれば」適当に返事をしてごまかす。
関谷が帰ると、すぐに車に乗り込んでエンジンをかける。日産の中型セダン、中古が安かったという理由だけで買った車だが、しっかりした基本性能が気に入って時々乗り回している。目的地は遠いが高速を走れば午後の早い時間には着くはずだ。車を道路へ出した途端、目の前にひとりの男が大きく手を振っているのに気づいて、あわててブレーキを踏んだ。駆け寄ってくると車のサイドウィンドゥに触れんばかりに目いっぱいの笑顔を突き出して何度も何度も首を振る男の顔に倉田は覚えがあった。
「どうもご無沙汰しております先生」
最初の受賞作、8年前に新人賞を獲ったときの出版社の編集者だった。次々に原稿を持ち込んだ倉田を馬鹿にしながら追い返した男。以前はついぞ見せたことのなかった笑顔を無理やり顔に貼り付けていた。
「やあ、その節はどうも」
車を降りて、寒空の中で続く当りさわりのないやりとりが途切れかけた頃、編集者の顔から作り笑いが落ちて、すがるような表情になった。
「先生、じつはこのたび先生のご本が増刷の運びとなりまして、ご報告にまいりました」
この男には決して笑顔を見せまいと決めていた倉田だが、その言葉を聞いた途端つい口元がほころんでしまったのは無理もないことであった。なにしろ増刷など初めての体験だったのだから。
「先生のご本をですね、見込みが無いから処分しちゃえって言う上の命令を無視してね、私は裁断せずに保管するように言ってたんです。そしたら最近少しづつ問い合わせが来るようになりましてね、再出荷してみたら売れ始めたんですよ。そしてついに品切れになりまして、あわてて増刷ってことになりました」
裁断処分を免れたのがこの男の働きだとは思えなかったが、疑ってかかることもなかろう。良い話なのだから。--私は先生を信じてました。かならずこの本はいつか売れるからと--必死に弁解するように話す編集者の手をとって、「よろしく頼みますよ」と倉田がしっかりと握った。今はこの男をハグしてもいいくらいの気持ちになっていた。あの時、テーブルを叩きつけなくって本当に良かったと思った。
「それと先生」握手で調子づいた編集者に笑顔がもどり、「今度うちにも短いので結構ですから書いてもらえませんか」と言った。
「エンタメかい?」
「いえいえ、もうなんでも結構です」
いつものように大仰に手を振ってあわてて答えた。
「わかった。考えておきますよ」
「それじゃ、ちょっと急ぐので失礼」
倉田は待たせていたV6エンジンを廻すと車は滑るように走りだした。ルームミラーに映った深々と頭を下げ続ける編集者の姿が、むかしエレベータの前でいつまでも頭を下げていた自分の姿とダブって複雑な気持ちになった。
信号待ちの間にカーナビを操作する、おおまかなセッティングを終えると、古いカーナビはじっくり考えてから町田ICを指定するが、それを無視して八王子へ向かった。この方が早いんだよと神崎が言っていたお得意のコースだった。年末のせいか道路は混んでいて車で出かけたことを少し後悔した。
「車があったら便利なのにね」
古書店巡りをした時に春菜はよくそう言った。「ガソリン代や維持費もバカにならないぞ」と言い返すと「それもそうね」と笑っていた。それほど二人で背負う古本は重く、時々饒舌な春菜の口も黙らせるほどだった。一度でいいから車で送ってあげたかった、そんな思いが車で出かけることを選ばせたのだ。
八王子のICを通り、いくつかのJCTを抜けて東北道へ入った。JCT通過で速度を抑えた時に助手席に置いた携帯のメールをちらっと見る。
先日はお買い上げ誠にありがとうございます。
彩華堂書店の庄司と申します。
このたびお客様へお届いたしました「疫病犬と呼ばれて」(下巻)につきましては
私の手違いにより売約済みの商品をお届けしてしまいました。
そこで勝手な御願いではございますが、もし差し支えなければですが、商品の方がご不要であれば
当店に着払いにてご返送していただければ非常に助かります。
もしご連絡きただければ直ちに返金の手続きをとらせて頂きます。
ご都合がよろしければ何卒ご連絡ください。
二度とこのようなことがないよう細心の注意を払ってまいります。
今後とも、ご愛顧のほど何卒よろしくお願いいたします。
彩華堂書店 担当・庄司真希
※ ※ ※
「あら」
窓ガラスにふわりと白いものが張り付いたかとおもうと、じんわりと溶けて水滴が広がる。次々に引き寄せられるように窓ガラスへ向かってきては水滴になる。店内の書棚を拭いていた春菜は窓へ近づいて手のひらを当てる。---初雪だわ---ガラスを通して冬の寒さが手のひらににじむ。午前中から断続的に降る雪は夕方になって強くなったようで路面を白く覆い始めた。
雪がたっぷり降った翌日の川を臨む雪景色は美しい。雪かきするのがもったいないほどだ。去年の大雪の日を思い出して川を眺めていると国道から入ってきた車がすぐ近くの橋の上で止まる。そこだけ橋の幅が広いため軽自動車が短時間とめることがよくある。降りてきたのは50代なかばくらいの女性、足元の雪を恐る恐る踏みつけながら、まっすぐ春菜のところへ歩いてきた。
「こんにちはお母さん」
春菜はドアを開けて出迎えた。
帳場のカウンター差し向かいの母娘、ココアの香りが静かに、客のいない店内に広がる。
「相変わらず寒いところね」
母は腕をさすりながら店内を見回して、しかめっ面してつぶやく。
「でもここの景色が好きだから」
「せめて私達と住みなさいよ、家から通えばいいでしょ。この前もひどい風邪をひいたそうじゃないの」
「うるさいのがいなくなってせいせいするからって言ったのはお母さんでしょ」
「あれはあなたに自由に生きてほしくって言ったのよ。お父さん、いちいちうるさいでしょ」
「でもいいのよ。この商売好きでやってるんだから。それにだいぶ慣れてきたし」ココアを一口飲んでから顔を上げて「もう、そんなことで寄ったの?」
「迎えに来たのよ。真紀の家でクリスマスパーティでしょ」
「ああでも」時計を確認して「まだ早いわ。店を閉めてから行くのに」
「馬鹿ね。子どもたちが寝ちゃうでしょ遅い時間じゃ」
「そうかな」
「それにこの雪、自転車行くのは危ないでしょ」
言われて外を見ると、雪はまた強くなったようだ。
※ ※ ※
「まずいな」
東北自動車道を北上して雨が雪に変わり始めた。冬用タイヤ装着を促す電光掲示板の表示がさっきから気にかかっていた。まだ路面はギリギリ濡れた状態だが高速で走るのは限界だ。中古で買ったセダンにはチェーンの装備すら無かった。もしあったとしても装着できるかどうかも怪しいのだが。せめて郡山まで走りたかったが限界を感じて白河ICで降りる。時刻はすでに午後4時になろうとしていた。首都高の混雑と東北道が雪でゆっくりしか走れなかったのでだいぶ予定が狂っていた。ICを降りると一般道の路面はさらに酷く、シャーベット状の雪が路面全体を覆っていた。日産のセダンは4号線に入る時にシャーベットの層でわずかにスリップしたのを感じて肝を冷やす。恐る恐るゆっくりとアクセルを踏む。ここで事故でも起こすわけにはいかない、道路は渋滞しているがそれでもブレーキをかけるときは心臓がせり上がりそうだった。すぐにでも車を停めたかった。そのとき道路端にイオンの大きな看板を見て倉田は迷わず次の信号を右に入ってイオンの駐車場に停めた。緊急事態だ、悪いがしばらくとめてもらおう。タクシー乗り場は数人並んでいたが、運良く次々に入ってきたタクシーが拾っていったため、倉田もすぐに乗り込むことができ、乗り込むなり行き先を告げた。
「新白河駅まで」
濡れたフロアで危うく転びそうになりながら倉田は階段を駆け上がった。チケットを買ってギリギリ乗り込んだ「なすの261号」は郡山で「やまびこ」に乗り換えなければいけない。僅かな時間でも惜しい倉田だったが時間通り到着すれば、彩華堂の営業時間に間にあうのを考えて落ち着こうとした。なんとか座ることができて昼食もとっていないことに初めて気づいて車内販売の来るのを気が遠くなりそうになりながら待っていた。
「やまびこ」は時間通りに古川駅に到着して、ドアが開くと同時に倉田は飛び出した。11番線から一気に階段を駆け下りて東口へ飛び出す。駅前はすっかりの雪景色だった。道路の轍さえも白く埋もれていた。タクシー乗り場は混雑しているため北へ向かって一本先の通りまで出て、流しのタクシーを運良く捕まえて彩華堂の住所を告げる。32号線にぶつかり右折したとたん倉田の目の前の情景がスローに流れて見えた。すれ違った赤い軽自動車を運転していたのは間違いなく春菜だったと確信できた。数年の年月が多少は雰囲気を変えたにせよ、倉田は魂で感じた。
「すみません。今すれ違った車を追いかけて」
「ああ?」
運転手は振り返りもせずに不機嫌そうな返事をした。
初雪の降った夕方の県道は、渋滞して車が数珠つなぎになっていた。
春菜の車が陸橋を越えたところの信号を右折した時は、倉田の乗ったタクシーはかなり後を走っていた。激しく雪を払うワイパーの間から確認できる赤い軽自動車は溶けた雪で滲んで今にも見失いそうだった。それでもしばらく走った先で細い道に入ったのを確認したもの、
「お客さん。ここは入れないよ」
運転手が叫ぶ。見ると、侵入禁止の標識が頭上で微かに雪をかぶっていた。
スニーカーが蒸れないようにメッシュが多用されている事に始めて気づいたのは、タクシーを降りて、一歩通行を逆走していく春菜の乗った車を追って走り始めてからだった。地方の人間はほとんどが自動車での移動である、まして雪の夕方、人通りは少ない。狭い通りを車の轍の跡を滑らないように必死に走る足元から、溶けた雪がメッシュを通して侵入して、くつしたまで濡らしていく。幸い春菜の車は対向車にも出会わずに数十メートル走ったところでウインカーが光って減速するのを倉田は離れたところで見ていた。
もう少しだ。数十メートルの距離を必死に走った。ハイツの名前を冠した2階建ての2軒並びが二棟並び建つ賃貸アパートにようやくたどり着いた時には、春菜と母親は左側の部屋の玄関へと入るところだった。息を整えて背中のバックから本を入れた角封筒を取り出て胸に抱えるように持った。深呼吸して再び足を踏み出した。
その時、玄関のドアが開き、30代前後の痩身の男がでてきて春菜をおもいっきり抱きしめた。
その光景を目撃して倉田の頭の中は白くなった。倉田がショックで立ちすくんでいると、男は続けて春菜の頬にキスをした。春菜のまんざらでもない表情が玄関灯ではっきりと見えた。そして角封筒が倉田の手から滑り落ち雪の上に落ちた。湿った雪が角封筒の隅から溶けて滲んでいった。