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 親方が騙されたと気付いたのは3日前の午後のことだった。

 入札結果を連絡してくれるはずが、いつまでたっても来ないし、連絡もないので橋田工業まで出かけてみれば、事務所は騒ぎになっていた。どうやら佐渡がだました連中はひとりふたりではなかったようで、その日は多くの業者が事務所へ怒鳴りこんでいた。みんな津川のように仕事を廻すからとの甘言につられて、それなりの金額を騙し取られた連中だろう。自宅の方へ回ってみると、すでにその筋の連中が張っていて、もう何をしても無駄だと悟った。

 とにかく一社員が勝手にやったこと、会社に責任はないとの一点張りで橋田工業へ捩じ込んでもみても、どうにかなるものでもなかった。みんな必死に佐渡の行方を探していたが、家の中はもぬけの殻、行方はようとしてしれなかった。ただ数日前から姿を消した佐渡の行きつけのスナックの女と橋田工業が預かっていた顧客の調度品がいくつか倉庫から消えているのを関連付けていろんな噂が飛び回っていた。

 その男、佐渡がよりにもよって今回の依頼者だった。前もって荷物だけ運び出すとは明らかに最初から逃げる気だったのだ。怒りがこみ上げ、拳が震え始めた時、不審な様子に気付いた神崎が割って入った。

 「石渡さまですね、お荷物お持ちしました」

 「なんだ遅かったじゃないか。さあとっとと運び込んでくれ」

 予定時間より早いくらいなのに勝手なやつ、と腹が立ったが神崎に目で制されて黙って仕事を始めた。酔っ払っていた猿が自分を覚えている気遣いはないとは思ったが、念の為に帽子を深めにかぶり、なるべく猿と顔があわないように注意した。運び込んだ調度品はどれも素晴らしい物だった。価値ある西洋アンティーク家具であることは、引越業務の経験で倉田にもわかった。普通の家具より重いため二人で運ぶのは骨が折れた。猿はまったく手伝おうとしないが、それでもなんとか無事に仕事を終えて、石渡と名乗る大猿に確認してもらって終了した。お茶の一杯も、ねぎらいの言葉さえもない大猿にあきれて、乾いた喉を潤すためにすぐ近くのコンビニで飲料水を何本も買いこまなきゃならなかった。


 「おまえ、会社の規則はわかってるだろうな」帰路についた時、神崎がいつになく怖い表情で口調も荒く聞いた。「夜逃げ屋の規則だよ」

 「わかってますよ。なんにもしゃべりません」

 「知ってる奴なのか? 一旦契約した以上、秘密は守らなきゃダメだ。奴は殺人でも犯したのか?」

 「いや、そんなんじゃ…」

 「だったら諦めろ。こんなこともあるさ」

 それっきり二人は黙り込んだ。


 狭い店舗内で津川が一人で作業していた。路面店のブティックの改装工事のようだ。手をいっぱいに広げてクロスを壁に広げていくが、端が捲れて位置が決まらないのを必死に手を伸ばしてなんとか押さえようとしている。そこへ誰かの手が伸びて、捲れた端を押さえ伸ばしていく。驚いて振りむいた津川の目に倉田の顔が映った。

 「一人じゃキツイでしょ」

 クロスの端を壁にそって撫でながら倉田が話しかける。

 「しゃあない。お前に払う金もないしな。今日は手伝っても金は出ないぞ」

 「いいから少し手伝わせてくださいよ」

 それからふたりは黙って作業を続けた。

 「休憩だ」作業が一段落してから津川はタバコに火をつけて言った。

 「もし佐渡が見つかったらどうします?」

 出された缶コーヒーを両手でもじるようにしながら倉田が聞いた。

 「そうだなボコボコにして金を取り返すだろ」

 「金を持ってなかったら?」

 「ガラを押さえて、どこかのタコ部屋に放り込んで金にするか、そうだな内臓や目玉を売るのもいいな、とにかく売れるものはみんな売っちまおう」

 「そんなルートを知ってるんですか」

 「知るわけないだろ、バカ」

 薄く笑う神崎につられて倉田も苦笑した。そんなことができる男じゃないことは短い付き合いでもわかっていた。

 「そんなことより仕事あるのか」

 「大丈夫。引越の仕事があるんですよ。この前も秋田まで行っていい金になりました」

 「へー」

 「町道に沿って信号の先2軒目の家でした。「石渡」の表札に、中古だけど豪華な日本建築の二階建ての家で、運び込んだのは見事な調度品ばかり。家の主は大きな体の赤黒い顔をした猿みたいな男でした」

 そこまで言うと神崎の頬がぴくりと動いた。倉田は横目でそれを見て話を続けた。

 「そうそう、目のこの辺に小さなキズがありましたね」片手で右のまゆの端を押さえながら、他にも細かい特徴を伝えていった。神崎の顔つきが変わっていく。

 「まあ、ろくな男じゃないでしょうね。必死に働いて喉が渇いたのにお茶の一杯も出さないんですよ。その家から西に向かって5~6軒先にローソンがあるので、そこでジュースをいっぱい買って帰りましたよ」そこまで言って立ち上がると「だから俺のことは心配ないですから」それから体に気をつけて、と伝えて名残惜しそうに立ち去った。ポケットに突っ込んだ右手から紙片がひらひら舞った。

 「おい、これ…」

 津川が拾い渡そうとしてふと見るとレシートだった。数種の飲料水の名が打ち込まれたローソンのレシートには秋田県の住所が印字されていた。



「クロス屋の親方は?」

 翌日、気になって現場まで来たものの、親方の姿が見えないので表で外壁を塗り直してる塗装屋に聞いた。

 「さあ、午前中で切り上げて帰ったようだな」

 「どこへ行ったのかな」

 「さあね」

 まさか大猿のところへ……知らせるべきではなかったかも、帰ってからも自分の行動が悔やまれて、親方がおかしな行動に出やしないかが気になって夜もまんじりと出来なかった。

 塗装屋に礼をいうと自転車で駅まで向かい、そのまま電車で東京駅へ向かい、片道でさえ一日分の日当が飛んでしまう新幹線のチケット料金にさんざ悩んだあげく購入した。

 秋田駅で乗り換えて現地に到着した時は、すっかり日も短くなった季節だけに、すでに真っ暗になっていた。大猿の家の南側は田んぼばかりなので南側を通る県道からもよく見えた。カーテンに映る影から見て猿は一人のようだ。自分より1~2時間早く動いたとしても、家を探し当てて話し合いをしていればまだいるはずだと考えて、まだ親方は到着していないと倉田は判断してもう少し待ってみようと、家を監視できる道沿いをゆっくりと散歩するふりをして歩き始めた。東南にむかって田園が広がっているとはいえ、住宅もあるし監視できる場所はそう多くない。田舎町だ、通りを何度も行き来すれば不審者だ。

 2時間近く経ち、もう不審者として通報されたかもしれないと考えていたとき、一人の男が大猿の家の前に立った。街灯の光も弱く暗い庭先だが、背格好も含めて親方だと確信して倉田は走りだした。自分なら騙した男を見つけ出した時にどうするか考えた時に親方のことが心配になり現場へと足を運ばずにいられなかった。とにかく止めなければ---津川が玄関を避け裏口へ回ったのが見えたが、裏側は倉田の方からは死角になって確認できないため必死に走って辿り着き、同じように裏に回る。裏側といっても、すぐ隣にも家があって内部の灯りから在宅が確認できるため津川も無茶はしないはずだと思い込むことで気持ちを落ち着かせた。

 裏口のドアノブを廻すと、あっけないくらい抵抗なく開いた。壊された鍵穴を見ながら、足音を立てないようにゆっくりと中へ入った。入って右手が浴室、そこから続く廊下の奥から声が聞こえる、奥のリビングも無人なのを確認して声の方向へ向かって音を立てないように歩いて、突き当りのドアの前で立ち止まり、ドアの向こうの様子に全神経を集中させた。

 ---すまなかった。騙したのは本当に悪かった。だが本当に金は無いんだ。

 ---これだけの自宅と家具をそろえて何を言いやがる。

 ---これは借家だ。家具調度品も借り物だよ。現金はみんな銀行に預けた。 女の名義になってる。

 ---それをよこせ。

 ---女に渡してあるんだ。もうすぐここへ来る手はずになっている。

 ---また騙す気か。

 激しい言い合いが続くが、乱暴している様子がないのに安堵して、ひとまず落ち着くと庭先に車が停まった音がした。もしや女が到着かと思い、リビングまで出てみると黒塗りの東京ナンバーの高級セダンが2台、庭の端に停まっていた。車の角度からしてライトを点けて侵入してくれば気がついたはずなのにと考え、さらに車から降り立った男たちの外見風貌を見て、その家業に見当が付いて倉田は血の気が失せると共に下半身から力が抜け始めた。

 玄関にかかっていた鍵をバールのようなもので壊したのだろう、静かにやったつもりだろうが、派手な破壊音は奥の寝室まで届いて、津川も大猿も身を固くした。とくに血の気を失って震え始めた大猿の様子は、今の破壊音がただ事でないのを示唆していた。判断に迷って見つめていたドアが勢い良く開いて人影が現れ、津川は身構えた。

 「早く逃げないと。あいつらヤクザですよ」

 突然あらわれた倉田の姿に声もない津川の手をとって走りだす倉田。

 「待ってくれあいつからまだ…」

 その時玄関のドアが完全に壊れ、なだれ込んだ数人の足音が聞こえたときにはふたりとも裏口から出ることが出来た。ホッとしたのもつかの間、スウェット姿の男が二人、裏口に張っていたのに気づき足が止まる。近づく二人に為す術もなく立ち尽くすと、いきなり目もくらむ眩しい光がチンピラを照らし、連中の視力を奪った。

 「こっちだ」

 津川が倉田の肩を持って北側の田んぼの方へ走った。仕事柄、暗所を照らすのにも便利だと、いつも持ち歩いているフラッシュライトで先を照らしながら走る。まだ目がはっきり見えないのか目を押さえて追ってくるチンピラが植え込みに足を取られ派手に転倒するのを横目に見て、田んぼの土手を降りて、暗闇の中に蛇のように横たわるあぜ道を足を取られないように注意深く、そして全力で走る。土手は高く民家の下を走り抜けて2~3軒先から再び土手を這い上がった先は民家の敷地かと間違うような細い路地、そこを抜けると線路の脇道へと出た。後を振り返ってだれも追いかけてこないのを確認して、頷き合って津川が無言で示す方向へと走りだした。車の通れない細い踏切を抜け、また民家の間の細路地から出てようやく裏通りに突き当たった。裏通りを北へ向かってしばらく行ったところの集合アパートの共用駐車場で神崎がようやく止まった。膝に手を当て激しく呼吸する倉田。

 「なんだよ。俺より若いのにだらしない」

 神崎もそう言いながら自分も苦しそうに息をしていた。

 「まあ…それは、あれとして、車で来たんですか?」

 駐車場の軽トラックを認めて倉田は驚きの声を上げた。

 「早く乗れ」

 少し息を整えると津川は素早く軽トラに乗り込んで、足が震えてふらつく倉田にむかって運転席から手を伸ばして引っ張りあげた。倉田の顔に笑顔が浮かぶ。津川はそれを見て口元をゆるめると車をスタートさせた。


 激しい咳が暗い車内でこだまする。普段吸わないタバコを口にして思わず咳き込んだ倉田だった。深呼吸をして前を見ると津川が戻ってきた。少し離れたところのコンビニから戻ったところだ。

 「電話済みましたか」タバコを投げ捨てて聞いた。

 「ああ、奴の家の住所とお前が覚えていた車の車種とナンバーを伝えた。警察が馬鹿でなければ捕まるだろう。俺にできるのはここまで、奴が拉致されようがどうしようがどうってことはない」

 「あいつが捕まったら俺達もまずかったりしますかね」

 「まさか、話し合いに行っただけなのに」

 「それはそうと軽トラでここまで来るなんて信じられませんよ」

 「まあ興奮してたから気にならなかった」

 「まったく新幹線でくればよかったのに」

 「軽トラだったらさ」ハンドルを切って車道へと出ながら「やつの家の調度品を引き上げてこれると思ったんだ」

 

 翌朝、倉田のアパートの前で軽トラが止まる。長時間乗っていたせいで腰が固まってしまって降りるのもひと苦労なので、手すりに捕まってゆっくりと地面へと足を下ろす。

 「いろいろありがとうな」

 「いえ、こちらこそ。送ってもらったし」

 「俺を心配して来たんだろ。当たり前さ」津川は吹き出すように笑って  

 「もう病院の仕事も金もあきらめた。いままで通り地道にやるから心配するなよ。この歳だからな、最後のチャンスだと思って焦りすぎたし、周りも見えてなかったなぁ」と遠い過去を見るように語った。

 倉田は何か答えようとしたが言葉が見つからなかった。

 「まあ、お前はがんばれよ。若いんだし、夢を追えよ」

 「もう若くないですよ」

 「俺よりは若いだろうが馬鹿」 

 津川はそう言うと笑って「じゃあな」と車を走らせた。倉田は軽トラが角を曲がって見えなくなっても、そこへ立って見送っていた。


 佐渡が逃亡先で暴力団に拉致されかけたところを踏み込んだ警察に確保され、詐欺容疑で逮捕されたことは、次の日には街中に知れ渡っていた。女は佐渡から受け取った金を持って、ひとり別な場所へ逃げたものの闇金を踏み倒したため暴力団から追われる羽目になった。あっという間に捕まり、佐渡との関わりまで吐いた。女からの回収だけで満足すればよかったのに、佐渡の金まで手を出そうとしたのが運の尽きだった。


 【渡邉病院新築工事、S建設・橋田工業JVにて来春着工予定】新聞の片隅にそんな小さな記事が出たのは翌月のことだ。橋田工業は地元の利を活かし、大手ゼネコンに食い込んだ。さらに佐渡の件で知らん振りを決め込むことは出来ないとの橋田側の意向で、佐渡に騙された業者を優先的に使うことをS建設との間で取り決めた。その英断と行動力に地元での橋田工業の人気は高まり、街中の話題となって、津川も他業者と協同とはいえ、内装工事に参入できることが倉田の耳にも届いていた。大猿もあの日、親方が乗り込んだことは特に話さなかったのはせめても良心なのか、とりあえず倉田は安堵した。

 「なんだ倉田くんはもう終わったのか?」

 新聞専売所の休憩室で今朝の新聞を読んでいた倉田に、配達から戻ったスタッフが声をかけた。

 「ええ、半月経ってだいぶ慣れましたから」

 なにがなんでもとりあえず、と見つけた新聞配達のアルバイト、折込業務も含めて朝は早いが、早朝の空気は気持ちが良いと感じ、臨時のつもりのアルバイトも意外と長く続きそうだと思った。ちょっとワケありのスタッフも多い中、倉田はうまいこと人間関係もこなしていた。いざとなれば寮に入ることもできるため、とりあえず今すぐの生活の不安は去っていた。 

 「じゃあもう少し縄張り広げてもらいなよ」

 「ええ、そのうちおいおいと」

 当たり障りのないように返事して自宅へ戻ろうと腰を上げた。少し休んでおきたかったし、夕刊までに集金業務も少しこなしたかった。それに少しの時間でも惜しかった。春菜と別れてから、いろいろありすぎた。多くの人達とかかわり、彼らを受け入れ、心を開いて付き合ってきた。みんな自分なりに、与えられた世界で必死に生きていた。過去の失敗にもめげずにチャンスを待って再起を狙うものもいた。

 遠回りしたが自分も人生をやり直そう。そう誓った時、ふつふつと小説を書きたくなった。自分の経験した何かを他の人に伝えたい、そんな気持ちが日を追うごとに強くなって耐え切れなくなってきた。新人賞を獲ったのはもう何年も前、もはやその世界からは忘れ去られた存在であって、もう二度と世にでることはないのだとわかっていたが、それでも兎に角、書きたかった伝えたかった、何かを残したかった。とりたてて大きな事件が起こるわけでもない、単調な普通の市井の人々の一瞬を切り取っただけの小説を倉田は衝動のままに、時間のある限り書き続けた。


 新聞配達の朝は辛い。特に冬に向かって寒いし、暗いうちから働かなければいけないのは気が滅入る、緊張感のある最初のうちはともかく、毎日のこととなると苦痛に感じることも多かった。体も生活サイクルも慣れるまでは一年近くかかった。寒い冬を越し、雨の続く春が過ぎて、暑い夏を過ぎて、特に早朝は涼しくなった頃、S文学賞の最終選考に残ったとの連絡があった。もう作品を発表することもないだろうと思って、書くだけ書いて机の奥深く閉まっていた作品。せめて陽の目を浴びせてあげたい、下読みだけでもいい、人目に触れさせたら水を与えられた草花のように命が宿る気がして応募してみたのは春先の事だった。そして見事最終選考を抜けだした。

 街路樹の下も落ち葉でいっぱいなった頃、倉田の受賞式が行われた。

 まとまった金額が振り込まれた。

”当分ひもじいめをしないでもすむ。胸がはずむ。ああうれしい。”「放浪記」のラストシーンが蘇る。”---私は窓をいっぱいあけて、上野の鐘を聞いた。晩はおいしい寿司でも食べましょう。”

 倉田は寿司屋のカウンターを思い出そうとしたが、うまくいかず、代わりに浮かんだのはスーパーの惣菜売り場のパック寿司だった。苦笑した。


 そして2年が経った。道を埋める落ち葉の色が目に眩しい季節だった。

 「今度のもいいですね。特に表題作とかちょっと泣けました」

 若い編集者は倉田に好意的だった。以前の担当に冷たい対応をされてたため編集者には恐怖心を感じていた倉田だったが、関屋という担当は編集者はトラウマを消すに十分な対応をしてくれた。最初の受賞先へ持ち込めなかった経緯も理解してくれた。

 関屋は今まで書いた作品を読んで、S文学賞受賞作を含めて短篇集として出版しないかと言ってくれた。

 「ほんとうにこの作品集でいいですか?ミステリー仕立てとかしなくって」

 一度失敗しているだけに、二度目のチャンスに慎重な倉田だった。今度売れなければ3度めのチャンスは天地がひっくり返っても無いだろうと。

 「何を言ってるんですか。この自然な感じ、何事もない日常を淡々と描いてるところがいいんじゃないですか」

 「でも、もし受けなかったら」

 「大丈夫。ベストセラーってわけにはいかないけれど、みんながみんなエンタメやミステリー好きなわけじゃないんですよ。このエッセー風味の私小説っぽい感じ、好きな人は大勢いますから自由に書いてください」

 関屋の強い口調に押されて、他の作品もわずかな手直しだけで出版され、倉田の心配をよそに出版社を満足させるくらいの売上を確保したことは、次回作の話が出たことで証明された。2冊めは引越にまつわる人間模様や出来事など、引越便の経験をいかした作品集--これは編集長もご満悦だったと関屋に言わしめた作品だった。アマゾンのレビューに初めて書き込みを発見した作品でもあった。

 そして受賞から丸2年、ようやく3冊目の出版までこぎつけた。相変わらず出版前は不安は消えない。今度こそボロがでて不評を買うのではないかと。「とにかく10冊出すまで頑張りましょう」と言う関屋に追い立てられて、いつしか専業の形で小説を書くようになっていた。自然や街の情景描写が素晴らしいと、おだてる編集者の口車に乗った形で、現地取材に時間をとられるため、新聞配達は辞めなければならなかった。だが世間一般からすればやや低い方のレベルの生活とはいえ、なんとか小説一本でここまでやって来たのはひとつの自信となった。

 「新作の単行本は来週にでも上がりますから出版前に持ってきますよ。だから来週中には原稿おねがいしますね」

 倉田はすぐ来年の雑誌に載せる作品を書き始めた。担当は「自由に書きなさい」と言いながらヒントも与えてくれる。関谷は自分も学生時代に新聞配達をしたのだと言い、その時の変わった体験を語ってくれた。おかげで新聞配達でもいろいろあったことが徐々に思いだされ、ノートに文字となって流れていく。

 途中まで書いてふと誰かの作品に似ているような気がして筆が止まる。こうなると気になってたまらなくネットを検索してわからず、蔵書の中にあった気がして隣の部屋へと出向く。専業となってから2回引越をしているのは、あふれる蔵書を捨てきれず、どんどん本が部屋に増殖していくためであった。今は相模原の古い住宅を借りて住んでいる。一時親交が途切れた神崎に連絡をとって格安で引越を済ませることができたのは、倉田の荷運びが手馴れてるせいもあった。

 一部の本を除いて読み返すことはあまりないにもかかわらず、念のためと処分せずにとっておいた本も、実際のところ箱詰めのまま陽の目を見ないで次の引越まで部屋の隅に積み上げられたままであることは簡単に予想できた。そうして数年間、陽の目を見ない箱のなかに目当ての本がある気がして宝探しともいえる大胆な捜索が開始された。

 「ああ、これか」

 幾つもの箱をひっくり返すようにして、ようやく目的の本を探し当ててチェックすると、記憶違いでほとんど今書いている作品とは違うものであることに安堵して、読んでいた本をなにげに重ねた本の一番上に置いた。その時、平積みにしていた本の塔が崩れた。やれやれと言いながら一冊一冊手にとっては箱へ入れ直していると春菜と一緒に本の整理をしていた頃を思い出し、喉が詰まるような気がして、つばを飲み込んでみたりした。 

 春菜は出て行って数日後に倉田の留守中、荷物の整理に来ていた。荷物と言ってもほとんどが古書だったため、箱詰めして運送業者へ連絡するだけの事だった。必要な本があれば取っておいてとの伝言だったが、未練になるからと彼女の本はすべて送った。何かあった時のためにと、引越し先を明記した発送伝票を残しておいたのはやはり未練なのか、S文学賞の受賞作出版の時に出来上がった本を手に携え、引越先を訪ねて行ったものの、何ヶ月も前に田舎に帰ったのだと管理人に教えられた。春菜の引越し先も田舎の住所も知らなかったし、たとえ知っていたとしても訪ねて行ったら彼女は迷惑がるかもしれない、第一、自分を憎んでいるだろうし、すでに結婚しているかもしれないのだと。

 崩れて散乱した本の最期の一冊を手にとった時、表紙を見て自分の蔵書ではないと気がついた。彼女の本が一冊混じっていたようだ。しかもそれは上巻のみで、残った箱も開いてすべてチェックしたものの下巻は見当たらなかった。

 「迷子なのかおまえ…お母さんからはぐれちまったな」

 リチャード・アダムス著「疫病犬とよばれて(上)」

 新天地を求めて旅をするウサギ達の物語を書いた児童文学の作家であることは倉田も読んだことがあるので知っていた。--他にも翻訳されていたのか--妙に感心しながら仕事のことは忘れて読み始めた。

 読み終えた頃はすっかり日が暮れていた。しっかりしたプロットだと感じた。翻訳のせいか少々読みづらい部分はあったものの、さすがに世界的ベストセラーを生み出した作家らしい仕事だと感じた。児童文学を離れ、大人向きに書かれたその本は、ミステリータッチとなり、主要な登場人物が出揃って物語の方向が見えてきたところで上巻は終わっているため、倉田は下巻も読みたくなっていた。

 ネットの普及で本は新刊、古書含めて圧倒的に手に入れやすくなったと理解できるのは自分の世代が最期かもと倉田は思った。特に子供の頃は田舎の小さな本屋では限られた本しか手に入れることしかできなかった。まして絶版になった古書など、手に入れることはほとんど不可能だった。

 東京へ出てきて古書店巡りに夢中になったのもその反動なのかもしれない。

 ネットで<下巻>を探すとアマゾンのサイトで簡単に見つけることができた。絶版と見ると定価の何倍もの値段がつくのは市場原理で仕方がないとはいえ、少々やり過ぎなのではと思う価格がつくことも多いアマゾンだが、この本に関してはそれほどでもなかった。読みたい時がもっとも本の価値が高い時、常々そう考えるため、定価の2倍以内なら安いほうだと思いカートへ入れかけたが、その前に念の為にと古書専門の別サイトをチェックすることも忘れなかったのは貧乏生活が長かったせいだろう。

 別の古書専門サイトの検索では三件ヒットした。二件は両方とも上下セットで一万円近い価格をつけていたが、もう一件は「下巻」のみ700円と定価の半額を示していたため、倉田は目を疑って何度もチェックした。---ド素人か?--アマゾンと違い、組合に加入する古書店しか出店できないサイトのはずなのに、まして下巻のみに至ってはより高く値付けするものもいるのにと不審に思って状態をチェックするが問題がないようなので安値をつけてる店から購入することにした。それほど希少価値のある本でもないから特に不思議でもないだろう、古書の価格など人それぞれなのだから……そう考えて倉田はカート画面で住所氏名を入力し始めた。


     ※     ※     ※


東北の宮城県北部の街。市内を流れる川沿いを一台の軽自動車がゆっくり走ってきては一軒の店の前で止まる。切り返して店の脇の駐車場にゆっくり入れ、若い女が8歳の男の子の手を引き、2歳ぐらいの女の子を抱いて降りてくると、一息ついて店の外観を眺めた。古い2階建ての木造家屋は壁の漆喰は表面を塗り直して数年といったところか、小さな窓が正面ドアの脇にひとつずつ、中央のドアは木製だがこれも意外と新しく、店全体が通りより少し奥まって建っていて、入り口ドアの両脇には小さなワゴンが文庫本を満杯にして、「100円均一」の色あせたPOPを垂れ下げて鎮座していた。上を見ると「菜華堂」と書かれた看板が取り付けてあって右上方にライトがあった。女は子供の手を引いて店内へと入る。

10坪に満たないほどの店内は、低い天井まで届くような書棚が店の壁際を窓を除いてびっしりと張り付いている。中央に背中合わせに置かれた書棚も頑丈そうで小さな歴史を感じさせる色合いを出している。それらの棚はほとんど隙間なく古書で埋められていた。さらに下の方にもすのこが敷いてある上には雑誌類が横に積み上げられ、足元の半分近くを占領していた。ドアを入って右側にはカウンターがあり、その奥の小さなのれんの向こうには2階へと続く階段が見えて、無人の二階へと暖められた空気がどんどん逃げていくため、カウンターの後ろに座った店主らしき女は店内のエアコンや足元のストーブだけでは寒いのか丸まって震えていた。

 「お姉ちゃん大丈夫?」

 若い女はレジスターの脇で顔を伏せてる人影を見つけてあわてて駆け寄る。

 「ん、なんだ真希か」

 ゆったりしたニットとフリースの上着に包まれるようにした女がダルそうに顔を上げて答えた。

 「なんだじゃないわよ。電話の様子がおかしいから気になってきてみたら」

 「大丈夫よ。ちょっと昨夜冷えたから風邪を引いたみたい。今夜寝とけおけば治るわよ」火照った顔でつらそうに話す。

 「ホントに?インフルエンザかもしれないよ」

 「大丈夫、そこまで酷くない、自分でもわかるの。でも一応病院行こうかな?真希、その間店番ちょっとお願いできるかな」

 「ちょっとどころか治るまでいるわよ」

 「もう、旦那さんと子供どうするのよ」

 「だって今日から連休でしょ。今日のところはお母さんにお願いして、明日からは旦那休みだから子ども押し付けちゃう、連休だから月曜までこっちに詰められるから大丈夫だよ」

 「まあ、そんなには…でもちょっと病院開いてるうちに行ってくるからお店お願いね」

 「わたしの車使っていいよ。」マフラーを外し、姉の首に巻いた。

 「ありがとう真希ちゃん。助かるわ」熱っぽくふらつく体を妹が支えた。

 「春菜お姉ちゃん」コートを羽織るのを手伝いながら真希が声をかけた。「土曜だから市民病院じゃなくてK病院よ」

 半沢春菜は妹に向かってにっこり笑うと大きくうなずいた。

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