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「やあどうもどうもお待たせしちゃってすみませんね」
倉田雅之の担当者が顔を出したのは、一時間もたった頃だった。いい加減にしびれを切らして帰ってしまうかと何度も考えたが、ここで帰ってしまっては、またいつ会ってもらえるかわからないことを倉田は知っていた。
ここは都内の出版社の来客室、倉田の前に置かれた珈琲はとっくに冷えきっていた。担当は遅れたことを一言もわびもせずにどっかりと席に座った。
「で、今日は何?」
歯を剥きだすようにして顔を突き出して聞いてくる担当、昨夜も飲んだのだろうか吐く息が臭い。しかし倉田はいやな顔をせずに小さな声で遠慮がちに聞いた。「前回の作品はどうでしたかね」
「あああれね」担当は大仰に体をゆらしてあさっての方を向いて「わりぃけどまだ全部読んでないんだわ」
「読んだ分だけで結構です、どうですか?今度のは出版できますか?」
「読んだ分だけって言われても」頭をかきながら弱ったような表情で「まあ、なんていうかうん、よく出来てはいるけどアレ、インパクトに欠けるかなぁ。会議で押すにはちょっと弱いかもしれないなぁ」
この男は読んでいないと確信した。今度だけでない、いつものことなのだ。
「それなら」倉田は足元においたリュックから分厚い紙の束を取り出した。それを見て担当の顔が曇る。
「いや、そんなに長くないんですよ。ほら、いつか言われたようにセリフも多いし、改行も多くしたので枚数は増えてますが、わりと短くて読みやすいんです。せめてあらすじだけでもここで読んでもらえませんか?」
ここで読まれなければ、もう読まれることはないだろう。倉田は今までの経験で知っているだけに、表題の下に2枚ほどのあらすじをつけたのだ。必死に頼み込む倉田の気迫に押されて、担当編集者はしぶしぶ読み始めた。
読み始めてすぐに担当者は笑った。その反応に喜んだ倉田だった。
「え~と何々、大企業のお嬢様が小さい時に両親を殺されて使用人に助けられて命は助かったものの、会社は乗っ取られて、18歳になった時に両親は殺されたと真相を聞いて復讐を誓った。チャチャ~ン!」
書いてもいない合いの手を手を振り回して叫ぶ編集者に回りにいたものがクスクス笑う。さすがに馬鹿にされているのに気づいて倉田は真っ赤になった。
「そして名前を変えて乗っ取られた会社へ社員として忍び込んだ娘。やがて社長の右腕として働く若い青年に恋する。しかしその青年は親の敵の息子。愛と復讐の間で揺れるこころ。果たして娘の復讐は達成できるのか。ああ二人の恋のゆくえはいかに!」
周りが笑いに包まれる。担当はアドリブで茶化した。倉田はその場から逃げ出したかった。
「な~んか韓ドラみたいだよね倉ちゃん」
倉田より年下の編集者はフレンドリーな態度を取りながら馬鹿にしていた。明らかに低く見ているのだ。
倉田がこの出版社主催の新人賞を獲ったのは二年ほど前のことだ。受賞作はすぐに出版されたものの売れ行きは芳しくなかった。担当者が言うには史上最低の売上だったと。当然、次の作品を出すには躊躇する。それでも倉田は必死に次回作を書き上げて持ち込んだ。
とにかくエンタメ性の高いものを、出版社の意向を汲み、必死に書いた。何度もプロットを書き直し、セリフも描写も凝った言い回しを考え多用した。なりふり構っていられない、多くの本を読んで良い文章は積極的に取り入れた。何度か読みなおして受賞作をはるかに凌いだ作品が出来上がったと確信した。担当が感激して読む姿さえ妄想した。
しかし、そうして持ち込んだ作品を半年たっても読んでいないのだという。念のためにと持ってきたもう一つの作品。プロットにはこちらのほうが自信があったのだ。きちんと読んでさえ貰えればきっと下手な作家のミステリーよりも素晴らしいはずだ。それが今、目の前であらすじだけ読んで嘲笑されているのだ。しかも衆人の前で…
目の前の重量感のあるテーブルを持ち上げ、担当の頭に叩きつける。テーブルの鋭利な角は編集者の頭に一瞬で食い込みザクロのように弾ける……
思わずそんな妄想をするほど無礼な態度だ。せめて減らず口をたたく、臭い息を吐き出す歪んだ口元に正拳を叩き込んだら……だが倉田にはどちらも実行することは出来なかった。
「まあ、でもこーゆーの好きな読者もいるかもしれないから会議にはかけてみるよ。まあちょっと時間ちょうだいね」
それじゃ忙しいのでこれで、と、さっさと歩き出す編集者をエレベーター前まで慌てて追って、よろしくお願いしますと扉が閉まるまで頭を下げ続けた。
「かわいそうに、あんな情けない姿で」まわりの人達のそんな憐憫の声が聴こえる気がした。
倉田は学生時代からちょっと変わった男だった。人付き合いは普通にしていたが、心のなかでは誰も彼も見下していた。なんの根拠もなく、自分は素晴らしいことをやってのけることのできる人間だと信じていた。
卒業しても定職につかず、次男の気軽さもあってか実家にも帰らずに東京に残ってアルバイトで毎日を過ごしていた。いつしか小説を書くようになって、ベストセラー作家になることを夢見た。そして瞬く間に10年の歳月が流れた。倉田にとっては一瞬だったかもしれない。30半ばになって、定職も貯金も無い生活。それでも精神は卒業した頃のままだった。資料と称して買い込んだ本の処分にネットを使うことを覚えた。アマゾンやヤフオクを使えば簡単に本が売れた。古本屋に持ち込むよりもはるかに良い値段で。古本で手に入れたものの中には買った時以上の値段で売れるものもあった。わずかながらも利益が出たのだ。
蔵書もそれなりのものが売れてしまうと、残ったものはなかなか売れずにいて退屈した。蔵書の処分ではなく、古本を売ることに快感を感じるようになり、いつしかネットの情報をたよりに「せどり」をするようになった。アルバイトの合間には古本屋をめぐり、一冊一冊、携帯で古本相場をチェックしながら高く売れそうな本を買い込んでアマゾンやヤフオクに出品する。小説を書くことも忘れ、わずかな利益のために、ただ販売する快感のためだけに本を買い込む生活が続いていた。子供のお店やさんごっこにも似ていて、倉田にとって本は売って儲けるもので、読むことは殆どなくなっていた。
倉田雅之が半沢春菜に出会ったのはそんな時期だった。
いつものように近所の大型古書店をチェックしていたある日、一冊の本に手をかけた時に、同時に手を伸ばした女の手とぶつかった。はっとして見ると、若い女が隣にいた。年の頃は20代なかばだろうか、「あ、ごめんなさい」と言って手をどけ、「おじさんに譲るわ」と微笑んだ表情が心に残った。
それ以来、女をその古書店で時々顔を見かけるようになった。取り立てて美人といった顔でもないのに、妙に倉田の心を捉えて離さない雰囲気があった。顔を合わすと覚えていたのか、女のほうから軽く会釈をしたので倉田も釣られて返す。そばにいたいと思わせる女だった。
それ以来、古本屋に出かけるときは身だしなみに注意して髪をとかし、髭も剃ってから出かけるようになった。彼女に二度と「おじさん」と呼ばれたくはなかった。
その日、いつもの古書店に行くと、彼女が十数冊の本を抱えて店を出てくるとこだった。両手に持った本の重さにふらついて倒れそうになるところを倉田は反射的に支えた。
体に触れた手に驚いて、その先を見る女。倉田に気づくと、やさしく微笑んだ。
「よかった。どうやって持って帰ろうか悩んでたのよ」
彼女の自転車を引いて寄り添うように歩く倉田に話しかけた。自転車の前カゴと後荷台には、買ったばかりの全集が無理矢理に積まれている。ふらつかずに支えて歩くだけも容易ではなかった。
「いつもそう。気が付くといっぱい買ってしまって今日みたいに困ることもしょっちゅうなの」
そう言って見せる、くったくのない笑顔は、またも倉田の心をわしづかみにした。
---部屋まで運んであげるよ---
彼女のアパートに着いた時も自然に言葉が出た。少しでも一緒にいたかったから。そしてドアが開いた瞬間息を呑んだ。玄関の土間から狭い廊下の両脇に平置きに重ねられた本は奥の部屋まで続いていた。腰の高さ以上に積み上げられた本の壁を、体を半身にしながら部屋へと進む。
「この高さが精一杯なのよね」彼女は胸のところまで積まれた本を残念そうに見て通る。
部屋の中はさらにひどく、本が要塞のように積み上げられていた。壁全体を覆うような安物の本棚はすでに満杯。部屋の周りから中央にかけて渦を巻くように本が重なっている。寝起きしたり、食事をするための場所が、わずかに空いているだけだった。
「なんかもう放っておけないのね」両手に本を持ったまま呆然としている倉田に言い訳するように「古本屋さんでね、連れて帰って、って、本の声が聴こえる気がするの。そうすると放っておけなくって、連れて帰ってしまうの」
互いに自己紹介を終えてから、倉田は僅かに空いたスペースに本を置いてから腰を下ろし、じっくり蔵書を眺めた。小説から実用書までジャンルは様々だが、倉田の知る範囲でも価値ある本が多かった。くだらないベストセラーなどはほとんどなかった。
「積ん読派なの?」
「そんなことないわ。ほとんど読んでるわ。でも読み終わっても捨てるわけにもいかないし、古本屋さんに持って行っても、また棚晒しになるようで処分できないの」
「これらの本なら欲しがっている人が必ずいるから、その人達に届けてあげるのもいい」
「どうやって?」
「ネットで売るんだよ」
その言葉を聞いて、彼女はしばらく考えこんでから嬉しそうに笑った。
倉田は次の週末に彼女のアパートに通った。アマゾンへの出品方法、アカウントの取り方から発送方法まで自分の知る限りのことを丁寧に教えた。春菜は戸惑いながらもひと通りの流れをこなすと、二度目からはもう数年もやっているごとく流暢にこなしていった。
本で溢れかえっていた部屋も数週間できれいに片付いていった。それでも、どうしても売れない本はあった。とっておきたい本を除いて古本屋へへ運ぶ。ついでに新たな本を仕入れる。どちらにしてもかなりの量になるため、荷運びのために倉田が同行することがほとんどだった。休日のたびのそんな習慣がいつしか楽しみになっていた。
「古本屋を開くのが夢なの」
いつものように古書店巡りの帰り、重い荷物に息を弾ませながら語る春菜。
「もうやってるじゃないか」
春菜よりもさらに大きな、中身は本でいっぱいのリュックを背負った倉田が答える。
「ちゃんとした店をかまえたいの」かぶりを振って答える春菜。「古い木造で壁は漆喰。そう、川のそばに建ってるような古い…」
昔からの夢だったと話す春菜。「あなたの夢は?」と聞かれて答えに詰まる倉田。夢はベストセラー作家だったのか、小説を書かなくなってどれくらいになるだろう。何度も落選することで、いつしか投稿はもちろん、書くことさえも避けるようになったいた。自分のプライドを守るための自衛本能みたいのが働いたのだと感じていた。
机の引き出しからノートを取り出した。引き出しの中は、数十冊の古いノートであふれていた。何度も読み、書き直したためページがよれてふやけ、汚れていた。
---作家になりたかった---
独り言のように呟いた倉田の言葉を聞き逃さず、最終的に春菜は倉田の部屋へと押しかけた。春菜ほどではないが、本であふれている部屋を気にすることもなく、差し出したノートを受け取って読み始める。
「ちょっとゆっくり読ませてね。速読はできるけど本当によく出来た小説はじっくりと1字1字読みたいの」春菜の反応を気にする倉田を落ち着かせようとして、さとすように言った。
「あなたのは良い本だわ」
何冊か真剣な表情で読んでから、やっと口を開いた。
「お世辞は--」結構だよと言いかけた倉田の言葉を春菜はさえぎった。
「でも、出版するには弱いのよ、もっと面白くできる。足りない何か、そう私協力するわ。あなたを応援する」
無邪気な笑顔がそこにあった。断ることなど及びもつかなかったのだ。
倉田が執筆に専念できるようにと、春菜は倉田の本の処分も、ついでだからとやり始めた。さらに食事の準備から掃除洗濯一切も引きうけた。最初は頑なに拒んでいた倉田も徐々に彼女のペースにはまり、受け入れ、アルバイトさえもやめて執筆に専念した。
そのうち通うのがめんどうだからと春菜は夜も泊まるようになり、いつしかふたりは一緒に住むようになっていた。
春菜は早朝から起きだし、掃除洗濯、食事の準備。それから出勤して、帰ってくるなり夕食を作るとアマゾンへの出品登録と売上の処理。休日はせどりにも出かけた。めぼしいものがあれば背負いきれないくらいまで買い込むこともしょっちゅうだった。
今まで書きとめていた小説を彼女の指示通りに書きなおしてみると思いの他いいものが出来上がった。そして運良く、中堅出版社の新設の文学賞を受賞することが出来た。
春菜と一緒に暮らし始めてから一年と経っていなかった。
彼女は勝利の女神か、これですべてがうまくいく。倉田はそう思った。
だがそれからが地獄だった。本は売れず、担当には相手にされない。必死に次回作を書くが無理やり型にはめ込んだ小説は登場人物の誰も生きていなかった。流行りのプロットに、定型のキャラが、どこかで聞いたようなそれっぽいセリフを語るだけ。何度通っても担当編集者の態度は硬化するばかりだった。それでも必死に書き上げた自信作を持って出かけたのに、あらすじだけ読んで、嘲笑され、ズタボロになって帰ってきた。
倉田は好きな作家Kの最期を想った。病気になって小説も書けなくなって、生活苦から若い奥さんは自殺した。作家自身も数年後に亡くなった。
自分の将来を見るようで怖くなった。春菜だけは守らなければ。この生活にケリを付けなければならない。
その時の行動が正しかったのかどうか倉田はわからなかった。ただこのままでは共倒れだと信じたから思い切った行動に出た。
行きつけのスナックから引っ張ってきた女に即席の恋人になってもらって別れを告げたのはうまくいった。春菜は何も言わずに小さな荷物だけまとめて出て行った。あまりにもあっけなさ過ぎて拍子抜けしたほどだった。しょせん自分はその程度しか思われていなかったのだ。春菜を失った衝撃は想像よりも大きく、倉田を打ちのめした。ショックのあまり言葉も出ない男に即席の恋人は、「うまくいったね」と囁いてもたれかかる。柔らかい胸が肩にあたる。スナック店内でこそ程よいアクセントとなる魅惑的な体臭も、二人だけの室内では暴力的といえる香りとなって鼻腔を刺激した。
倉田はそのまま女を押し倒すように倒れこんだ。
女はなぜかそのまま倉田の部屋に居着いた。春菜が処分してくれた倉田の不要な蔵書の売上は、すべて倉田の口座に入っていた。とりあえず半年くらいはなんとかなるはずだったが、居座った女のために予定より早く消えていった。一時の気の迷いで関係したことを後悔したが、出て行けとも言えずに関係が続いていった。
いよいよ金につまってくると、それを察したのか、女はいつの間にか出て行った。季節は春に向かっていた。
「なんだ、だらしないな。体はでかいのに」
3月は引越シーズン真っ盛りだ。わりと簡単に見つかった引越便の助手の仕事。本を運ぶことで自信のあった体力も連日の引っ越し作業のまえには無力で、相棒のドライバーに迷惑をかけるばかりだった。なまじ大きな体がうらめしかった。
それでも何日か経つうちに、コツも飲み込み体力もついてきて、人並みの仕事ができるようになった。もはや小説も何もない、経験や年齢から雇ってくれるところも選べない、とりあえず見つかった仕事を必死にこなしていった。
すっかり暖かくなって引越しシーズンもおわった頃、内装工事の仕事が見つかった。学生時代に内装業者でのアルバイトの経験があったので<経験者募集>に応募して採用された。
「なんだよこんなこともわからんのか」
経験者と信じて採用した親方は個人事業者だったが、仕事が出来ない倉田にあきれ果てた。学生時代の経験と言っても大きな現場で使い走りみたいな仕事を数日やっただけで、新築物件の内装工事など何一つできなかった。
それでも親方は根気よく、ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。性に合ってるのか、真剣に取り組んだせいか、思いの外早く仕事を覚えていく倉田に親方は満足して、仕事が途切れるまで使ってくれると約束した。
パテを壁に塗りこんでいく。凹凸ができないように丁寧に薄く伸ばしていく。壁の段差やネジ穴を埋め込んでいく作業がなんとなく気に入っていた。そしてサンダーでの仕上げ。そして糊付けした壁紙を貼っていく。数週間でかなりの部分まで仕事を任されるようになった。仕事で他人に信頼されたのは、倉田にとって初めての経験だった。小さなことでも褒められるたびに胸が熱くなった。
「ちょっと午後はオマエのとこの若いの貸してくれよ」
時には同じ現場の大工仕事を頼まれて手伝うこともあった。親方が了承して倉田に合図すると「若くもないけどお手伝いしますよ」と軽口を叩くこともできるようになっていた。休憩時間には同じ現場の他の職人や施主とのふれあいが楽しみになっていた。
ずっとベストセラー作家を夢見て、普通の生活に甘んじている人たちを見下していた倉田。自分のほうから壁を作って他人に心開くことはなかった。しかし、気がつくと、みんな必死に自分の人生を生きているのに気がついた。施主の中には倉田より若く、子供もいるものも少なくなかった。ふと自分の今までの人生を振り返って無念に思った。そのうち何者かになれると信じていて、真面目に生きる努力を怠っていた自分。アルバイト生活は仮の姿、この経験も小説のための取材みたいなもの。そう思い込むことで自分をごまかしていた。10年たっても一次審査さえ通らない小説を書き続け、女のヒモ同然の生活でやっと受賞した作品は世間で認められなかった。
そして女も夢も去った時、自分が人並みの人生さえからも取り残されていることに気がついたのだ。
少しづつ取り返していこう。ズレた軌道を少しづつ修正していけばいいのだ。そして普通の人間の生活に戻ることができるだろう。倉田は失意のそこから立ち直り、ようやくそう考えることができるようになった。
「お前口は堅いほうだろうな」
内装の仕事は途切れがちである。親方はすまなそうに数週間先のスケジュールを伝えるだけだった。そんなときは臨時の引越便の仕事はありがたい。その日は二人で間にあうほどの楽な仕事で、終わって会社へ戻る道すがら、ドライバーの神崎が唐突に尋ねてきたのだ。
「人が話してほしくないことは絶対に話しませんよ」
「話す相手がいないだけだろう。お前は友だちがいないはずだ」
時々神崎は人の心をえぐることをさらっと言たりする。言い返そうとしたが事実なので黙っていた。神崎はその様子を見てニヤニヤしていた。
その夜、神崎が指定した場所で待っていると、10分ほどして2トントラックが来た。会社の車ではない、レンタカーのようだ。
「遠いんですか」
「栃木で拾って岡山まで走る」
運び出す荷物は少なく、ふたりでも2時間もあれば終わると見当がついた。いつもと違うのは、とにかく静かに手早く運び出せという指示だった。夜逃げであることは見当が付いた。荷物などみんな捨てていけばいいのにと思ったが、それぞれ事情があるのだろう。
「誰だってやり直すチャンスはあるだろ。俺らが扱う連中は、法律でも守ってくれない輩から依頼主を守ってやるのさ」
何を綺麗事をと思ったが黙っていた。機嫌を損ねて金がもらえなくなっては大変だ。最近は地道な暮らしをしているが、万一の時のための貯金も始めたため、金はあるにこしたことはなかった。
「このことは会社に内緒にしてくれよ。他の業者に知られでもマズイし、もちろん依頼主のことも絶対に喋っては困る、なにしろ個人情報だからな」
神崎は真剣な表情で釘を刺す。「俺は昔はトラックのドライバーで運送会社で働いてたんだ。だがある日、事故やって責任とらされクビだよ。ひどい会社だったんだよ。疲れがたまってうとうとしていて…」
その後仕事を探して東京まで出てきて3つ目の会社が今の引越便だったという。なんとか続いているが、新たにトラックを買うために、別にアルバイトを入れてるのだと語った。
「時間有る時は手伝い頼むよ。会社の倍は出すから」
翌日、仕事を終えて東京へ戻ると、神崎はそう言って引越便の仕事へ向かった。
気が付くと津川親方が倉田の仕事ぶりを窓の外からずっと眺めていた。久しぶりの親方の仕事なので少し照れくさかった。
「どうしたんです?」
「いや、だいぶ慣れたようだなと思って」津川はサッシを開けて入ってくると腰をおろした。手に持った缶コーヒーを差し出す。自分の開けて一口飲むと一息ついてから言った。「お前来年からフルで働いてみないか」
「え、雇ってくれるんですか毎日」
正直この仕事は慣れてきたし、気に入っていた、毎日できるなら御の字だ。
「実は来年竣工する病院、といっても個人病院に毛の生えたようなものだが、そこそこの物件の仕事が取れそうなんだ」照れくさそうに話す津川。
「まあ着工すれば半年ぐらいの仕事になるし、その後も他の仕事が取れそうなんだ」
「そりゃ願ってもないです。でもホントに大丈夫なんですか」
「話を持ってきてくれたのは長年懇意にしてる建設会社のチーフだ。いけ好かないやつだがこんな時のために、ずっと仲良くしとったんだ」
個人病院とはいえそれなりの規模をもつため、希望業者で入札になるが、ほとんどその業者で決まりらしい。その際に内装工事に関しては自分のところを使ってくれると約束させたのだと神崎は語った。この仕事をこなせば信用もつくし、営業もやりやすくなる。将来的に会社を大きくするには今がチャンスだと興奮して話しつづけた。
「細かい仕事をなんぼやっても儲けにならん」口癖のように言っていた親方は、大きな仕事を獲るチャンスを常々伺っていたようだ。
正直、今の生活がどこまで続くか不安があった。綱渡りのように内装工事と引越や夜逃げの手伝い、運良くつないできたが、来年も続く補償はない。果たして何歳までそんな生活が続けられるのか。いつもそんなことを考えていた。親方の仕事がうまく行けば会社が大きくなるかもしれない。正社員になれるかも。ここは住み良い街だ。仕事があるなら骨を埋めてもいいと思った。
倉田はその夜、久しぶりに以前通ったスナックへ寄った。春菜と別れるときに一役買ったナナがいた店であった。ナナが消えたのが自分のせいに感じて顔を出しづらかったのだが、いずれにせよもう時効であろう。来年から安定した仕事につけるかもしれないと弾んだ気持ちで気軽にドアを開けた。
「あ~らご無沙汰ねぇ倉ちゃん」
半年ぶりか、忘れずにいてくれたママに感謝。奥のテーブル席を横目で見ながらカウンターに座る。まだ時間は早い。倉田の他にはテーブルに一組の客だけだった。痩せた女と、ぷっくりした若い女がついていた。倉田の知らない顔だ、女達の顔ぶれも変わったらしい。
「倉ちゃん、みんな新しい子たちよ、よろしくね」
「いや、ママの顔を見れれば十分だよ」
柄にもない世辞を言ったせいで語尾がぼやける。
「そんなこと言って、ナナがやめたので来る気になれなかったんでしょ」
「いや、そんなことはないよ」
「あなた知ってるかどうか…あの娘はこの店に来ていた客について入ったのよ。けっこうイケメンの会社員。転勤するからってついていって…向こうで結婚の真似事でもしてるんでしょ。まあどうせ長続きはしないと思うけど。振り回されたあなたは気の毒だったわね」
ナナとのことを知っていたことに驚いてグラスを落としかけた。その様子を見て笑うママ。
「倉ちゃんには前の娘のほうがお似合いだと思ったけどな」
「ほら、背の高い、よく一緒に歩いていたでしょ」
ああ、あの子は…と言いかけた時、激しく音をたてて店のドアが開いた。
酔いすぎて真っ赤になった猿のような顔の大男が激しい息遣いで立っていた。
「なんだぁこの店は。ババァと寸詰まりのビヤ樽と鶏ガラ女しかいねぇじゃねーか」
大猿は店内を素早く見回して悪態をつく。ママの顔が歪む。
「何がババァビヤ樽に鶏ガラだい。とっとと出ていきな猿野郎が」
「なんだぁコラァ」
ママの思いもよらない反撃に一瞬怯んだ様子を見せた大猿だったが店内に足を踏み入れた。倉田も一番近くにいたため、とっさに身構えるが、ママがカウンター内をドアに向かって移動するとレジの脇から出ると大猿と対峙した。困った様子の猿だが周りの眺めて後には引けないとばかりにママに覆いかぶさるようにして睨みつけた。
倉田が席を立ったその時、
「ああ、ここにいたんですが斉藤さん。探しちゃった、その店じゃないこっちですよ」
大男の背後から声がした。連れのようだ。連れの男は店内を見て何か察したのだろう、ペコペコしながらニヤついていた。
「とっとと連れて行きなよ。その猿」
ママの怒声になにか言い返そうとする大猿を「まぁまぁ」と言いながらとりなす小男。倉田はその小男に見覚えがあった。
「まったくいけすかない野郎だよ」
仇はとったからね、というような表情で店の子達や客に目を向けた。ママの怒りは店の子達へのポーズだった。
「誰?いまの」倉田は動揺を隠しながら聞いた。
「橋田工業の専務よ。といってもやってることは現場監督。長いこといるからでかい顔してるだけなのよ、嫌われ者」
「今度の渡邉病院の新築工事、橋田が獲るらしいから、あんな男でもいろんな奴がつきまとうのよ」
「じゃあ、一緒にいたのは」
「秋山内装のオヤジよ。むかしからあいつにべったりなの。おかげで橋田の内装工事は秋山が受けることが多いのね。最近特に一緒に出かけてるみたい、佐渡は評判悪いから、あちこちで苦情聞くわよ」
「この店には来ないの?」
「前に来たことあるけど、愛想悪かったから来ないわよ」
「病院の内装工事も秋山が狙ってるんですかね」
「そうね、このあたりじゃ大きな物件だからどうなるのかしら。橋田が獲るのかどうかもあやしいしね」
倉田の中で不安がくすぶり始めた。
気にはなっていたが、親方に真偽を問うこともできずに、いたずらに時が過ぎて入札の日になった。
夕方まで電話を待っていた親方だがしびれを切らして「時間が来たら適当に帰るように」と言い残して出かけた。そして帰らなかった。他の業者が落札したことは翌日の新聞で知った。落札業者には大手ゼネコンの名が書かれていた。
その日は直接現場に行くようにと指示があっただけで、親方は顔を見せなかった。路面のブティックの改装工事だった。ドアの付け替えや壁の塗装は終わっている。3日で内装クロスを貼り直すのに親方が来ず仕事が進まない。ひと通りのことは出来る自信があったが、いざひとりになると何も進まない。親方の確認をとらなければならないことが幾つもあったが、親方は電話にすら出てくれない。
予定よりだいぶ遅れて古い壁紙を剥がし、ようやく下地処理にとりかかった頃、背後に親方の姿を認めて思わずどきりとした。いつになく憔悴しきった顔が別人のようだった。
「新聞見たか?」
黙って頷く。
「やられちまったよ。見事に騙された」
もともと大手ゼネコンが落札する予定だったらしい。それなりの規模の工事となれば、いろいろなしがらみのせいで、施主の意向が反映しない場合も多い。橋田工業が当初から絡んでいたのは嘘ではないらしいが、その後の動向を確認しなかったのは自分のミスだったと津川は途切れ途切れに話した。
「来春からの約束だが、すまんが無かったことにしてくれ」
「ああ、いいですよ今までどおりのんびり行きましょうよ」
深く頭を下げる親方に慰めるように答えた。
「それが実は…」言いにくそうに口を開く津川。来春からの仕事をこなすために何人か声をかけていて雇う手はずになっていた。もちろん断るが、ひとり世話になった恩人の息子をめんどう見ることになっていて、それだけは断ることが出来ないのだと言いにくそうに語った。
「正直来春からの一般の仕事は入れてなかったからな。いまから頑張ってもどれだけ取れることやら……悪いがお前を雇うほどの仕事がないと思うんだ」
「じゃあ俺は来年からの仕事は無いってことですか」
「その恩人の息子さんだが、見習いも含めてこの秋からめんどう見ることになっていたんだ。今から教えこんで来春からそれなりに動けるようにするつもらいだったんだ。だから…」申し訳無さそうな目でチラリと倉田を見る。
「じゃあ俺の仕事はもう無いんですか」
「来月いっぱいまではなんとかする。それこそフルで働いてもらってもいい。俺も営業で抜けることが多くなるし、なんとかそれでかんべんしてくれ」
改装のために、フロアタイルを外してコンクリートむき出しの床に、頭をつけんばかりにして謝る津川の頬に、夕日があたって赤くなっていた。
「なあるほど、それは災難だったな」
神崎が話を聞いて同情してくれた。
親方は毎日来てもらっても良いと言っていたが、仕事が無いのに無理しているのはわかるので辞退した。引越も運送助手も年末まではとれそうもなかった。そこへタイミングよく神崎から「夜逃げ」の仕事の連絡があったので、飛びついたのだった。
その夜の仕事は、積み込みが済んでいるので、現地まで運んで荷物を運び下ろすだけの仕事で、距離はあるものの楽だった。運転は交代で倉田がすることもある。それだと体を休められるので翌日仕事が入っていても楽だと神崎は言った。
「俺も40過ぎだよ。徐々に体が言うこと聞かなくなってきてる」
そして二人で笑った後、交代で運転しながら現地へ向かった。神崎も倉田も翌日の仕事は入っていない。現地では日中ゆっくりと搬入できるから気が楽だった。
「積み込みが無いと体が楽ですよね」
現地に近くなってからは神崎が運転していていたが、倉田も起きていた。目覚めてすぐでは、やはり体が思うように動かない。車中で体を小刻みに動かしていた。
「バカ、中を見て驚くなよ。高級家具とか、でかいのがわんさとある。3日前に俺が別の連中と苦労して積み込んだんだ。今日は二人だ。依頼主も手伝うとは言ってるがどれほど役立つものかな」
「何者なんでしょうね」
「わからん。犯罪の匂いがするのには手を出さん会社だが、今回のはちょっと怪しいぞ」
地方都市の繁華街から離れ、田舎の風景が見えてきたあたりで車は停まった。中古の一軒家でも手配したのだろうか。広い庭に純日本風の建築、前の持ち主の事情も気になるような、夜逃げ先にしては豪華な建物に思えた。
こんな家に住むのはどんな人間か、少し緊張しながらインターホンを押す。周りに広がる田んぼは黄金色に輝き始めたころだ。こんな田舎に住めるなら夜逃げも悪くないな、相手の事情も知らずに倉田は勝手なことを思った。だがそんなのんびりした気分も一瞬で消え去った。間もなくしてドアを開けたのは、猿のような大男だ。いつかスナックで顔を見た橋田工業の大猿だった。倉田の心臓が止まりかけた。