零ノ二.
放された腕を無意識に抱え、彼の瞳を見詰めて返す。「どういう意味ですか?」と訊ねようとして、「いいから」とその言葉を遮られた。
こちらの存在に気が付いていない九郎さんを視界に映し、久親さんは少し間を置いて口を開く。「さあ、行こう」と僕の手を取ると、ペットショップとは真逆の方へと向かって歩き始めた。
駅前の裏通りに面したところに小さな喫茶店があると、そこで話をしようと久親さんが提案した。「ここでは話にならない」と言葉を続けた彼に頷き、引っ張られるようにしてその後を着いて行く。遠ざかるペットショップを再び振り返ったが、そこにはもう九郎さんの姿は無かった。中に入ってしまったのか、帰ってしまったのかはわからない。
けれど、首に巻いてる見慣れぬ蛇の姿に、僕は悲しくなった。
「すまない。恥ずかしい思いをさせてしまったな」
店に着くなり、繋いでいたその手を大きく振り解く。クスリと微笑む彼の言葉には答えず、アンティークのような造りの小さな喫茶店に目線を移した。
「割とお洒落だろう?」
背の低い木製の扉を軽く押し、久親さんが微笑んだ。まるで恋人をデートに誘った時のような、甘ったるい笑顔だ。そんな彼の背中を追って入り口の扉を潜ると、カウンター越しにグラスを磨いていた、恰幅の良い初老の男性と目が合った。
「いらっしゃいませ」
「お好きな席へどうぞ」と優しい笑顔で案内をされて、僕達は最奥の席へと移動し、向い合って座る。軽く店内を見渡せば、僕達以外に客の姿は見当たらなかった。
お冷を運んで来た店主に、慣れた様子で久親さんがアイスコーヒーを二つ注文する。それから「今日は暑いな」と呟くと、徐に学校指定のネクタイを解き、襟のボタンを数個開けた。
(そう言われてみれば、凄く暑い)
クーラーの利いた店内と外気との差に気が付き、自分の頬を伝う汗に眉を顰める。ハンカチを探して制服のポケットの中に手を突っ込んだが、どうも今日は忘れて来たみたいでそこには無い。思わず溜め息を吐くと、久親さんが自分のハンカチを差し出してくれた。「髪が汗で凄いことになっているぞ」と指摘され、慌てて癖のある髪を撫で上げる。汗で湿ってしまい、何だかごわごわしていた。
――ああ、これだから夏は嫌いなんだ。そう思った瞬間、彼が僕の方を見てクスリと微笑んだのが目に入った。
「通りで見つからなかったわけだ。まさか、女の子になっていようとは」
テーブルに片肘を付き、更に小さく笑い出す。思わず自分でもわかるくらいに顔の表情筋が引き攣った。
「随分と可愛くなったものだな」
固まる僕の髪に手を伸ばし、汗でうねったそれに触れる。呟いた彼の言葉には、小さな溜め息が少しだけ混じっていた。