一 帰り道で
――――わんわんわんっっ!!
「……ん」
携帯の個性的なアラーム音がアパート一室に鳴り響く。ベッドからもそもそと動く気配はあるが、アラームは止められることなく、しばらくすると自動的に鳴りやんだ。
「あ……!」
がばっと勢いよく起きると同時に携帯がベッドの下へと落ち、そのうえ少し奥へと滑り込んでしまった。
「う、そだろ。こんなときに……!」
天里は慌ててベッドの下を覗き込む。ほこりの中に沈んだ携帯がアラームの告知を画面にチカチカと表している。
「届く、よな」
うぐぐと右腕をめいいっぱい伸ばす。しかし、あとちょっとの所で届かない。今度は指先を精一杯、広げて動かしてみるが、周りのほこりが舞うだけでやはり取れる位置まで進んではくれない。
それを何度か繰り返してみるものの、しまいにはほこりが口元まで飛んできてしまう。そんな始末に天里はついに右腕をひっこめると、手についたほこりを左手で払った。
「……とりあえず、帰ってからにするか」
別に携帯が無くても一日、いや普通に毎日過ごせるだろうし。少し不安な感じもするが。
「早く行かないと、ゼミの説明会が始まるよな。帰ってくるまで待ってろよ」
まるで、犬にでも接するように天里はほこりまみれの携帯に話しかけると洗面所へと向かった。
がらがらとうがいをして、軽く歯磨きをして顔を洗った後は再びリビングへと戻り、いそいそと服を着替え始める。
説明会が始まるまで、あと20分。朝ごはんを抜いて今から全力で自転車を漕いで行けば多分、間に合うはず、だ。
「……行くか」
身支度を整えると、天里はアパートのドアの方へと足を進めた。鍵をする前に、部屋を見回してみる。
これといって意味はないが、それが天里には習慣になっていた。確認し終えると、閉じまりをすませ外の階段をとんとんと降りていく。
アパートの一階にある駐輪所から自分の自転車を取り出し、リュックを背負い、ペダルを踏み込んだ瞬間。
――――――――――びゅんっっ!!!!
風をひゅんひゅんと通り抜けるように、軽快にスピードを出しながら天里は大学から五分程度の位置にある神社まで来ていた。
「あと、10分……! 何とかいけそうだな」
腕時計をちらりと目視すると、天里は息をつきながら大学の門を目指して再びペダルを踏み込んだ。
ぶみゅっ。
「……? 今、なんか踏んだか?」
漕ごうとした途端、前輪が何かに引っかかった感触があったが自転車の前方を見てもそれに見当たるようなものは何もない。
「……っと、それよりも説明会に間に合わくなる……!」
石でも踏んだかと思い、天里は特に気にかけることもなく大学へと急いだ。
「……ぐっ、よくも……!」
その少し後に、通り過ぎた神社の門から響いた唸るような声は、天里の耳に入ることはなかった。
「……な」
『本日の説明会は教授の急な出張により行うことができなくなりました。出席希望の学生には、後に大学からお知らせします。本日は誠にご迷惑をおかけ致します。高原大学文学部事務室より』
天里は大学の文学部事務室にある掲示板の前で立ち止まっていた。
その目の前には今日の午前中に開始されるはずだった説明会の中止の張り紙が何食わぬ顔で掲示されていた。
急な出張だって? ……意味が分からない。こんなことなら、携帯を取り出す時間もあったのに。
そんなことを心の中で呟きながら、一通り張り紙を読み終えると天里の体は一気に脱力してしまった。
「なんか……損した」
これからどうしよう。特にすることもないから、別にこのままアパートに帰ってぐだぐだしてもいい。
だが、先ほど大学の門に入った時に挨拶した警備員さんに「え、この人もう帰るの?」とか思われたくないし……。
掲示板の前で少しの間、悶々と考えたあと天里はとりあえず大学の図書館で暇つぶしをすることにした。
「やっぱ、休みの間は少ないな。大学が始まってからでも、これぐらいだと良いのに」
図書館の中は、春休み期間でほとんど学生はいなかった。いつもこの時間には満席になっているパソコン室は二人ぐらいが小声で談笑していたり、誰も使用していない部屋もあった。
ぐるりと人気の少ない図書館の中を見渡しながら、天里はいつもの席へと足を運んだ。
「ここが、落ち着くんだよな。普通の日でもあんまり人が来ないし」
テスト前になると、さすがに此処も埋まるだろうけど。
天里がいつも座る席は地下一階にある、個室の机だ。地下であるためか風通りが少しひんやりしていて、棚に並んだ本の古い匂いがその風に乗ってくる。天里はその匂いが好きなのだ。さらに一番いいのは、静かな環境であること。ほんのり薄暗い照明も、どこか心が落ち着く。
すとん、と椅子に腰かけると天里はリュックの中を探り出した。何か、読む本でも入れてきたっけ。
そう思いながら、がさごそと探ってみたが出てきたものは今日の説明会のために持ってきた説明会のしおりとメモ帳と筆箱だった。
「……なんか、本でも探すか」
天里は立ち上がると、地下にある文庫コーナーへと向かった。
「うーん、これも前に読んだ気がする。あ。あとこれも」
文庫コーナーに着いた天里はそこにある本を出しては見て、すぐに入れたりするのを繰り返していた。
なかなか、興味があるような本がないなと首をひねっていると、ある本が天里の目に留まった。
「『柴犬の基本!』? 文庫本では珍しいかも」
その本をすっと取り出すと、ぱらぱらとめくってみた。表紙は何とも可愛い柴犬の子犬の写真があり、中身も柴犬の特徴や正しいしつけ方など、文庫本にしてはかなり詳しく書かれていた。
しかし、何よりも天里の目を惹きつけたのは…………。
「か、可愛い……!」
愛くるしい様々な柴犬の表情。どの柴犬も所謂カメラ目線というやつで、まるで自分に向かって甘えているような錯覚に陥る写真ばかりであった。
「これ、借りよ」
すぐにそれを借りることにした天里は席に戻ると、机の上にだしていた筆箱などをリュックにしまい、一階にある貸出カウンターへと若干急ぎ足で向かった。
「四月の十五日までの貸出です。どうぞ」
「どうも」
カウンターで貸出を済ませると、天里は足早に大学の門へと進んだ。
ちょっと前のあることを忘れて。
「そうかぁ。困るよねぇ、急に中止にさせられちゃあ。君も門に入ったとき、あんなに急いでたのに。そりゃ行き損だったね」
「は、はい」
うっかり忘れていた。来たばかりなのに帰ろうとする天里を見た警備員のおじさんに運悪く捕まってしまったのだ。警備員さん曰く、天里のように来たばっかりなのにすぐ帰ってしまう学生が何人か目に留まったため同じくすぐに帰ろうとした天里を見て、つい声をかけてしまったらしい。
「まあ、そういうこともあるよ。ご苦労さん。気を落として帰り道で事故しないよう気をつけてな」
「はぁ……どうも」
にこにこと笑う警備員さんに、こくこくと相槌を済ませると天里は大学に来たときとは違う意味で急いで、自転車を取りに行った。
少し頬を赤くさせながら、ちらりと後ろを振り向くと二人組の女子学生がこちらを見ていた。目が合ってしまった天里はすぐに前を向くと、ぐんっとより速く走りだした。
(……警備員さんに捕まってたから、変に思われたのかも……!)
はあはあと息をつかせながら、ようやく大学の駐輪所へとたどり着くと天里はふうっとため息を吐いた。
「なんか、今日はついてないなぁ。まぁ、面白そうな本見つけたのは良いけど」
帰って早くベッドの上でごろごろしながら読もう。
でも、その前に……。
ぐぅーーーー。
「朝ごはん抜いてきたから、お腹空いた……。コンビニ寄ってから帰ろ」
お腹をさすりながら、天里は自転車に乗ると大学前にあるコンビニへと向かうことにした。
「ちょっと買いすぎたかな。今日は朝兼昼、夜も弁当で済ますか」
明らかに朝?だけの分じゃない弁当やおにぎり、その他お菓子などが詰められた袋を自転車の前かごにのせると、天里はあることに気が付いた。
天里の視線の先にある神社の鳥居の下に白いものがわずかに動いているのだ。
何だろうと目を細めてみたが、此処からの距離ではまだはっきりとそれは見えない。
「何だろ、行くときはあんなのなかったよな?」
動く何かに気になった天里は、その神社へと自転車を走らせた。
「う、うわぁ」
神社に着くと、天里は思わず変な声を出してしまった。
というのも、鳥居の下にいたのは…………。
「くうん」
一匹の子犬。それも白柴の。
行儀よくおすわりをして、天里の方を見上げていた。首元を見ると、鈴のついた紐が取り付けられていた。飼い犬なのだろうか? でも、普通の首輪でもないし。もしかしたら、神主さんの飼い犬なのかもしれない。
天里はこちらを見つめてくる子犬と同じ目線になるよう身をかがめると、怯えないようにゆっくりと手を近づけて、優しくふわふわとした頭に触ってみた。
「大丈夫、かな?」
特に、怯えることもなく触られてもこちらを見つめてくる子犬に少しほっとする。
そのまま、頭を撫でていると気持ちよさそうに子犬は目を瞑った。
(……柴犬って、なんでこんなに可愛いんだろ)
うっとりとしながら眺めていると、ふとあることが思い浮かんだ。
「お前、誰か待ってるのか? 此処の神主さんの犬?」
「くうん? きゃんきゃんっ」
天里の問いに、少し首を傾げたが子犬はすぐに小さな首を振った。
「え、此処の飼い犬じゃないのか? じゃあ、誰を待ってるんだろ……は! まさか」
此処の飼い犬でないのに、誰かを待っているということは――――
「もしかして、捨てられたのか?」
心配そうに天里が聞くと、子犬はまたもや首をぶんぶんと横に振った。
じゃあ、なんで此処に一人でぽつんといるのだろう? 他の飼い主さんが此処で待つように言ってあるのだろうか。それにしたらリードもつけていないし、何かあったら危険なのではと天里の頭によぎった。
そして。
「じゃあ、俺もここで一緒に待つ。どうせ、暇だし。あ、でも嫌なら言えよ? 俺、帰るから」
そう声をかけると、子犬はきゃん! と返事をすると天里の足元に寄ってきた。
どうやら、一緒にいるのは嫌ではないようだ。その様子に天里は内心、嬉しく感じ子犬の頭を撫で続けた。
――――――――――約一時間後。
「……まだ、帰ってこないんだな」
「くうん……」
さすがに、一時間も待つと天里のお腹は空腹を思い出したように訴えだしていた。
子犬も待ち続けてから何も食べていないのか、明らかに天里と会ったときよりも元気がなくなっていた。
「神社の前で食べるのは駄目だしな。お前、俺のところに来るか? これだけ待ってると、お腹もすくだろ?」
「くう……」
子犬は少し、ためらっているように見えたが天里が優しく微笑むとついていくことを決めたのか尻尾を振ってきた。
「もし、飼い主さんが探してたら、俺が連絡して帰してやるから。それまで、うちにいた方がいいよ」
「きゃんっ」
そうして天里は、子犬を抱いてとめておいた自転車のところへ行くと、ふわふわとした生き物を前かごの中へと慎重に乗せた。
様子を見てみると子犬は怖がることなく、前かごの匂いをすんすんと嗅いでいる。
それに安心した天里はほっと一息つくと、下宿先のアパートの方へと自転車を漕ぎ始めた。
「なんか、今日は良いことがあるかもな。あの本も役に立ちそう」
春の風に揺られながら、天里は心地よさを感じていた。