序 お別れ
※思いつきの面もあり、途中で設定などが予告なく変わることもあります。
「待って!」
夕暮れ時。一人の少年が呼び止めた先には直垂を纏い、後ろ髪を短く一つに束ねた青年の後ろ姿があった。
彼のその横には一匹の黒柴が尻尾をゆらゆらと揺らしている。
「ここから先は駄目だ。俺とこいつしか行けない」
背中を向けたまま、静かに告げる青年に少年の胸の中で駆け上がるように不安が走った。
何だろう。このもやもやは。昨日だって青年と遊んだあと、ここで別れて今日もまた遊ぶことが出来たのに。明日もきっと、そうであるはずなのに。
もしかすると……今日でもうお別れなのかもしれない。そんな考えが小さい頭の中によぎり始めていた。
「な、なんで? もう会えないの?」
心で思った恐れをそのまま少年が口に出すと、ぴくりと青年の肩が動いた。すると、ゆっくりと首を斜め後ろへと向けた。まるで、少年の様子を覗うように。
ふっ、と軽くこちらを振り返った青年の顔には相変わらず龍のお面がぴっしりと張り付いていた。
素顔はまだ、一度も見たことがない。
少しの間、青年が少年を見つめていると横でおとなしくおすわりしていた黒柴が上を見あげ、小さく吠えた。
「……槞、いつまでもこの童にかまってられんぞ。扉は待ってはくれん」
「分かってる。あと少しだけ」
小声で話す二人に、ますます少年は嫌な考えが浮かんだがそんな不安を打ち消すように恐る恐る青年に話しかけた。
「ろ、六介は何て言ってるの? 槞兄また明日も遊べるよね?僕の父さんが帰ってくるまで、一緒にいられるよね……?」
初めて会った日、約束したのだから。父さんが帰ってくるまで、一緒にいようって。
そうだ、槞兄が約束を破るはずがない。これまでだって、自分に嘘をついたり、裏切ったことなどもなかった。だから、きっと明日も一緒に。
「そんな泣きそうな顔をするな。天里、しばらくお前とは会えなくなる。でも……」
「何で!? 父さんもそう言って、今だって帰ってきてないじゃないか! どうして父さんも槞兄も僕を置いていくの!?」
「天里」
固い意志を宿した目で槞は、天里と同じくらいの高さまで腰をかがませた。
「俺は絶対、此処に戻ってくる。何年かかっても。だから、待っていて欲しい」
「でも……、その間、僕はどうしたらいいの? また一人になるのは嫌だよ……」
だんだん泣き声に近くなる天里に槞は優しく微笑んだ。天里が自分を信じてくれるように。
「大丈夫。俺のなじみの知り合いに天里のことを俺が帰ってくるまでずっと見てくれる人がいる。天里、俺を信じて。俺は必ず帰ってくる」
まっすぐにこちらを見つめ、自分の両肩をしっかりと掴んで話す槞の言葉を聞くと天里はうっと嗚咽を漏らした。
「……本当に? で、でも……もし」
「もし、なんてない。ほら、もう泣くな。泣いてたら俺の顔が見えなくなるだろ」
「え……?」
槞兄の顔が見えない? お面で顔が見られないのはいつものことなのに、何で今更そんなことを言うのだろう?
不思議に思いながら天里が目を擦りつつ上を見上げてみると。
「……あ!」
槞兄が龍のお面を取っていたのだ。手に取ったお面をひらひらと目の前でちらつかせながら悪戯げに微笑んでいた。
「ほら、泣き止んだから見えただろ?」
ぽん、と頭に手を置かれる。天里が大きく目を丸くしてこちらをじっと見つめる様子に槞は苦笑いになった。
「そんな見つめるな。こっちが恥ずかしくなるだろ。……天里、またな」
呆然と眺めている間にも、槞は再び後ろを向いて黄昏が迫る方へと歩き出した。
天里がはっとしたときにはもう、槞と犬は夕刻の赤い空の下へと溶け込まれようとしていた。
「ま、待って! 僕はどこに行けばいいの!? 槞兄はいつ帰ってくるの!? お願い……っ、置いていかないで……!!」
二人がいなくなれば自分は本当に一人になってしまう。知らないところへ預けられるのは嫌だ……!
ぐるぐるとした気持ちが天里の体中を蝕んでいく。一人になるという孤独と知らない人に預けられる恐怖がごちゃごちゃに混ぜ合わさり、天里はただひたすらに小さくなっていく槞たちの背中を追いかけた。
「ぼ、僕も連れてって……!! 一人になんかなりたくないっっ!」
槞に聞こえるように、天里は声が出るかぎり大きくお腹の底から叫んでいた。走りながら地面を蹴っ飛ばすたびに、靴裏がじんじんと痛くなる。
もう、槞の姿が見えなくなるといったところで天里は右の腕を伸ばした。届くはずはないと十分、分かっていても。
「ろうに……!!」
天里が声を張り上げた瞬間、槞たちの向かう方から暗闇が生まれ天里の元まで徐々に幅を広げながら迫ってきたのだ。
まるで槞たちだけを受け入れ、追いかける天里を拒むように暗闇は天里の行く手をことごとく遮ってゆく。
一気に辺りの視界が見えなくなったため、天里は小石につまずき、膝と手を強く擦りながら転んでしまった。その間にも槞たちの影すらもなくなり、気づくと天里だけがぽつりと闇に取り残されていた。
「や、やだ……。助けて、槞にい……! 助けて……っ」
幼い体を丸く抱きかかえ、真っ暗闇の中で去ってしまった人の助けを呼ぶ。擦りむいた足と手の痛さよりも胸の奥がずきずきと痛んで苦しい。
「怖くて痛いよ……。槞に……っ」
自分が今、感じている全てのことが口に出てしまう。これから、どうなるのだろう? このまま、道端で一人死んでいくのだろうか。それとも、ここでずっと待っていれば槞たちが戻ってきてくれるのだろうか?
そんなことが頭を巡り始めたとき、後ろから誰かが此処へ近づいてくるような足音が聞こえた。
誰だろう? もう此処には僕しかいないのに。 僕独りになってしまったのに。
ああ、もしかすると今までのことは槞たちの遊びの悪戯で自分を驚かせようとしただけなのかもしれない。それにしてはちょっと度が過ぎているけど。でも、遊びというならもうそれでいい。早く、連れて帰って欲しい。
近づく足音が槞のものだと信じながら、天里は深く膝を抱え込んだまま、ゆっくりと瞼を閉じた。
―――もう大丈夫だと自分に言い聞かせながら