女神の予言
芝生の敷き詰められた庭園、その真ん中に生える一本の大樹の根元。
そこでは、緩やかな風と時間が流れていた。
僕が少女のリクエストに応えるたびに、彼女はまるで花を咲かせるように笑う。
可愛らしいレースのリボン付けた黒髪を揺らし、宝石の様な深い蒼の瞳を細めながら。
そんな彼女は、良い所のお嬢様といった様相である。
始めは堅く怯える様にしていた彼女も、いまでは年相応の無邪気さを見せていた。
名前を聞くと、人見知りの少女は「エリス」と小さな声で名乗った。
代わりに僕が名前を教えると、彼女は「もう知っている」と答える。
何処かで会った覚えは無いのだが、なぜだろうか。
そう思ったのは束の間で、代わりに少女が答えを教えてくれる。
「あのね、町の入り口の、馬車で……。あの時は、ごめんなさい」
そう言われて苦い記憶を思い出すと、次の瞬間には謝られてしまう。
彼女が口にしたのは、僕がこの世界に初めて来た日の事だ。
リノの町の入り口で、馬車に巻き込まれる様にして、狼の群れに襲われた一件であった。
エリスは、あの時に馬車に乗っていた少女なのだろうか。
「そんなこと気にしなくて良いのに。もう全部治ったから大丈夫だよ」
僕がそう言って笑うと、少女は俯くようにして言う。
「あのね……。あれは……本当は……お祖父様がわざとやった事なの。本当は、今日も貴方の事をずっとここで待っていたの」
少女の意味深な発言に眉を顰めつつも、この子も実は狩人なのであろうかと邪推する。
お茶会に参加していない影の刺客。誘い受けの罠である。
しかも、今度は正攻法では無く、不思議ちゃんという事なのだろうか。
もっとも、10歳前後の女の子にそんな事を言われても、当然の様になびくことは無い。
エリスの容姿と相まって、至極可愛らしいとは思うのだが、彼女の場合は完全にアウトだろう。
ロリコン認定試験一級に合格してしまう。
そして、仮にそうだとすれば、このアレイスター家の屋敷、罠だらけである。
グランドムが、わざとやったという話も気になる。
彼女がこの場所に一人で座り込んでいたのも、あの伯爵の差し金なのだろうか。
色々と推測をしてみるも、少女のいきなりの言葉に、僕は上手く返す術を思いつかず苦笑いを返した。
「あはは、えっと、そうなんだ」
「あの……えっと……」
少女は視線を彼方此方に移しながらも、次の言葉を真剣に探している様だった。
そして、少しの沈黙の後に、すぐには聞き流せないことを口にする。
「私は、貴方は貴族にならない方が良いと思うの……」
僕は彼女の言葉を飲み込み、少しの間を置いて、穏やかな口調で尋ねてみる。
「それは、どうしてかな?」
すると、エリスはたどたどしく答える。
まるで、持てる勇気を振り絞る様に、上目遣いに僕の顔色を伺う様にして。
「あのね、夢を見るの……。私にはそういう力があって……。だから、貴方が貴族になれば、きっと苦しむ事になる」
エリスは、やはり話すことに不安があるのか、終始俯きがちであった。
もうつい先ほどの打ち解けた様な笑顔は無い。
「そっか。でも、反対に僕が貴族にならなかった場合はどうなるのかな」
「えっと……。それは……分からないの……」
そう言って、彼女は押し黙る様にして口を閉じる。
少女を責める訳ではないが、もう少し話を詳しく聞いた方が良さそうである。
「ねぇ、良かったら、エリスが見た夢の事、詳しく教えてくれないかな。二人で一緒に考えたら、何か分かるかもしれないし」
僕がそう尋ねると、彼女は小さく頷いた。
——少女が見る夢は、現実になるという。
それはさながら一枚の印象派の描いた絵画を眺めるようなもので、輪郭などの細部はぼやけて見える。
普段の夢とは一風変わった、夢の中での絵画鑑賞だ。
そして、その絵に登場する人物達の感情は、その絵の中に入ったようにリアルに体感できた。
そのため、それがただ夢なのか、現実となる夢を見たのかは、起きてすぐに分かるという。
彼女が夢の中で見た光景は三つ。
一つは、黒髪の青年と幼い少女が、大きな木下で、仲むつまじく並んで座る姿だという。
周りに人影は無く、二人の中心には、魔法で作り出された天使の姿。
それは確かに、つい先ほどの僕とエリスの様子と合致する。
もう一つは、夜のパーティー会場で、争い事が起きる様子であるらしい。
荒らされたテーブル、床に落ちたシャンデリア、逃げ惑う人々。
そして、幼い少女の側では、天に向け両腕を掲げ、太陽のごとき光の魔法を使う者の姿。
彼女は、それがおそらく僕だと言った。
彼女が魔法で光の玉を出せるかと尋ね、僕が試しに作り出してみると、彼女はそれと言って目を大きく見開いた。
その驚く様子から、彼女が嘘を言っているようには思えなかった。
そして最後は、青年が町の広場に剣を突き刺す姿だ。
全身に光を纏い、黄金色に輝く剣を石畳の地面に深く埋める者。
黒煙が空を覆い隠し、燃え盛る町並みを背景にして。
そこにエリスの姿は無く、数人が青年の事を取り囲んでいる。
それは、まるで伝承にある四英雄の封印の儀式に似ていた。
そして、その青年の感情は、酷く苦しそうだったという。
「予知夢ってやつなのかな……」
あるいは、予知体験といった具合だろう。
恐い夢がよりリアルに感じられるのであれば、その未来を回避したくもなるだろう。
そして、彼女が知るはずのない光魔法の事について、僅かではあるが言い当てている。
彼女の夢に考えを巡らせていると、エリスが再び口を開いた。
「あのね、もう一つあるの……。女神様の残された予言……」
僕が押し黙っていたのが恐かったのか、怯えつつといった表情だ。
その様子が少し可哀想なので、僕は口元に笑みを作りなるべく明るい声で答える。
「うん、聞いたことあるよ。『女神の眠りから三百年の後、聖女の施した封印は紐解かれ、魔界の門が再び開かれる』だったよね」
エリスは頷くと、詩を重ねる。
それは僕のまだ知らない詩の続きであった。
「『盟友は再び集い、固い約束を交わす。契りを纏いし若人は、大いなる地へ永久の平穏をもたらすであろう』」
彼女の言葉に、僕は安堵する。
やはり、こういった物は、破滅的なまま終わってはいけない。
最後には、やはり救いが無くてはいけないのだ。
それが物語というものだろう。
「なんだ。予言の続きではちゃんと世界は救われるんだね。通りでこの世界の人には、あまり焦りが見えないと思ったよ」
そう楽観的に言うと、少女は静かに首を横に振った。
「ここまでは、沢山の人が知っているの……。でもね、本当は女神の予言は二節あって、まだ続きがあるの……」
少女は歌う。辛く悲しい表情をして。
それは王族や一部の力ある貴族のみに伝えられた、秘められた詩だ。
『我らの眠りが三百の年を数える頃、聖女の施した封印は紐解かれ、魔界の門が再び開かれる。
盟友達は再び集い、固い約束を交わす。契りを纏いし若人は、大いなる地へ永久の平穏をもたらすであろう』
『されどそれは苦難への旅路。若人はかつての我らの過ちと同じ道を巡る。
その身は焼かれ、心は枯れ果てる。旅路の果てには、全の源さえも失うことであろう。
地に残りし、我らの子らよ。どうか、せめて、彼の者の歩みを支えることを願う』
彼女は歌い終えると、ひとときの間、視線を合わせ、やがて静かに俯いた。
二節目がわざわざ隠されている理由は、その予言を一度聞いただけで何となく予想が付いた。
詩にある世界を救う若人は、旅路の果てには、おそらくは息絶える。
その事が分かっていれば、もしかしたら旅には出ないかもしれない。
きっとそれを防ぎたいのだろう。
エリスは、その若者が僕であると言う。
俯きがちな顔で、真剣な表情をして……。
それは、きっと、何かの間違いで、突然言われても乾いた笑いしか出てこない。
そして、彼女は再び僕に謝った。
「ごめんなさい。色々な国が魔界の復活を止めようとしている。でも、女神様の予言に当てはまるのは、きっと貴方だけ……。私の夢に当てはまるのも、きっと……」
彼女は息を飲んで、尚も続けた。
「お祖父様は、私の夢の事は誰にも話すなって……。でも、お祖父様は、分かってやっているの。馬車の出来事も、私が見た夢のことをお祖父様に話したら、ああなったの。毎日私を城から連れ出して、わざとあぶない夕暮れ時を馬車で走ったの」
「うーん……」
彼女の言葉を信じるのであれば、おそらくきっとそうなのだろう。
しかし、それは、ただの一本道が分かるというだけである。
一本の道の行く末が初めから分かるからといって、別の道を通れば必ずしも良い方向に転ぶという訳でも無い。
別の道は一本目の道とは違い、先が全く見えないからだ。
彼女が言うには、二つ目に話した夢のパーティ会場に入るためには、貴族になるしかないという。
だから、僕は貴族にならない方が良いという事であった。
エリスは自分の見た夢が現実にならない事を祈って、まるで懇願する様に言う。
そんな彼女は、とても優しい子で事が分かる。
つい先ほどまでは見ず知らずであった僕に、こんなにも真剣に相手を思って考えを伝えてきているのだ。
なかなか出来ることでは無い。
普通なら、信じて貰えないかもしれないと、話す事を躊躇する事だろう。
「大丈夫。エリスの話は信じるよ。でも、もう少し考えてみないとね」
「うん……」
やはり、反対に僕が貴族にならなかった場合の未来は、分からない。
彼女の言う夜のパーティ会場とやらに、僕が存在しない時の夢は見ていないからだ。
彼女の瞳は、澄んでいて、それはきっと真実を物語っている。
そして、できる事ならばエリスの言う事は受け入れてあげたい。
だが、彼女の見た未来は、僕が貴族にならないとしても、現実には訪れるのではないだろか?
こういった事柄は、原因があって初めて発生する。
パーティ会場の争い事も、広場の黒煙も、女神の予言も、本当に僕が貴族となる事が発端となるのであろうか。
今日だって、ミーアがあんなにも僕を追い掛けて来なければ、彼女の夢の一つである僕と彼女の出会いは叶わなかったかもしれないのだ。
故に、彼女の言葉は信じつつも、僕は現在の流れから逆らう考えを持てずにいた。
「ぁ……」
しかしそこまで考察をして、巡らせていた思考は中断させられる。
少女の視線の先に、こちらへと勢いよく向かってくる者の姿があったからだ。