聖職者
司祭服の男はこちらへ歩み寄ると、眼鏡越しに切れ長な目を細め、口元には笑みを浮かべた。
その微笑みは聖職者然とした優しげなもので、初対面への態度としてはこれほど安心させるものは無いだろう。
一見、司祭にしてはずいぶんと若い印象を受けたが、その身なりは整然としており、物腰は洗練さえ感じさせる。
思いのほか高位の役職だったりするのかもしれない。
「私はイシュという者だよ。君の名前を伺っても良いかな?」
男はそう言って右手を差し出した。
僕はそんなイシュと名乗る司祭を前にして、僅かな間に考えを巡らせた。
なぜ聖教の司祭なんかに絡まれているのか、今日は厄日なのか、と……。
こちらとしては魔族を無差別に敵視している聖教とは、関わり合いたくないのだ。
内心でそうは思いながらも、なんとか表面上を取り繕い、こちらも笑顔で握手に応じた。
「初めまして、ユウ・アオイといいます」
「ユウ・アオイ? 死神を倒したという、救国の英雄かな?」
イシュは僅かに驚きの表情を浮かべた。
その反応から偶然に話し掛けて来ただけなのだと推測する。
しかし、彼に真実を話す訳にもいかず、僕は苦笑いを返した。
「そんな英雄だなんて、大袈裟ですよ」
「ははは、大袈裟などでは無いよ。私は丁度、君の噂話を聞いたばかりでね」
彼は、そう言ってまた和やかに笑った。その表情に僕の警戒心も若干は和らいだ。
聖教とはあまり仲良くするつもりは無いと思ったが、別に邪険にする必要も無いか。
そう思い直し、僕は彼に噂について尋ねてみる事にする。
「噂って、どの様な噂なのでしょうか。あまり大層な話が広がると、こちらも困ってしまうのですが」
すると、イシュは嬉しそうに喋り始めた。
「今度の死神は、あの黒鍵の傭兵団が取り逃がしたという話じゃないか。その後に冒険者ギルドが討伐に乗り出したが、これも失敗に終わった。死神を探して見付かったのは、下等魔族のコロニー群だったからね」
僕は彼に同意して、話の続きを促した。
彼は、今回の件について詳しかった。それも司祭という立場故なのか。
そんな彼の話を聞く事で、色々な背景が分かってくる。
この国は冒険者ギルドに対して、死神の討伐依頼を出していたそうだ。
こういった事は武力を持っている組織であれば間々あるらしく、本来であればただそれだけで事が済むはずであった。
報酬や経験値目当ての荒くれ者達が、自然と討伐に参加するからだ。
しかしーー
「ギルドは見つからない死神の討伐を打ち切り、ゴブリンやオークの殲滅を優先することにした。一部の冒険者達に強制依頼まで出してね」
それは不確定な脅威よりも、明確な脅威を優先したという事なのだろう。
「それを聞いた貴族達は大騒ぎだったよ。実際、王家は騎士団を総動員して城の守りを固め、多くの貴族が王城に避難していた」
あれは可笑しかったと、イシュは笑った。
なんでも教会に懺悔しに来る人々や、教会への寄付も増えたのだとか。
それも今日になってからは、パッタリと無くなったらしい。現金な話である。
しかし、王城や一部の貴族達ではそんな騒ぎになっていたのか。
町中には兵士や冒険者達は多く見られたが、ごく一般の住民達にはそれほど不安は広がっていなかった様に見えた。
おそらく死神が罪深い者を優先して狙う事と関係があるのだろうが、それはつまり恐れる人が何か罪の意識が有るという事なのだろうか……。
「怯える貴族達の間では、色々と噂が流れていてね。今度の死神は何かが違う。もしかすると何らかの目的を持っているのではないかってね。その目的は一体何なのか……。女神の眠りから間もなく三百年の歳月が経つ事もあって、自然とこんな噂が流れたのさ、『死神の目的は王都に眠る封印ではないか?』ってね。自体が解決されたのは、そんな噂を信じた国王が王令を出してすぐのことだった」
イシュは眼鏡の奥の目を細め、こちらの顔をまじまじと見る。
「しかも、かつてはドラゴンや天使と同列と言われた死神を個人で倒し、君は民の為にした事だと言って多額の報酬を辞退したそうじゃないか。これが英雄と呼ばずして、なんと呼ぶのかな?」
そう言って、司祭のイシュはニコリと微笑んだ。
流石にここまで真正面から褒められると気恥ずかしくなって来るが、所詮はそれは偽りの栄光だ。
あくまでも平然を装い、とりあえず適当にはぐらかしておく事にする。
「えぇと、色々と偶然が重なっただけで、たまたまですよ」
「当の本人に自覚が無いとは、これもまた面白いね」
あまり死神の事を聞かれるのも困るので話題を変える事にする。
どうやって倒したとか聞かれると困るのだ。
「それよりも、司祭様はどの様な御用でこちらまで来られたのですか? 司祭様がお読みになる様な本には、少し興味を引かれますが」
本当は、あまり興味など無いが……。
「司祭様だなんて止してくれよ。まぁ見ての通り、聖教の司祭をやってるけどね。今日はただの散歩だよ。私はこうした図書館の雰囲気が好きなんだ。本は人知の結晶だからね。この静かな空間に香る、歴史を感じさせる匂いも実に良い」
彼はそう言って、やや大げさな仕草で息を大きく吸い込んだ。
しかし、特に用事は無いのか。
もし何か用があるなら、それを理由に退散したいところではあったが、対応に少し困る。
こちらも本の読み聞かせなどと悠長に過ごしていたため、忙しいとは言い出し辛い。
と、そんな事を考えていると、遠くの方がなにやら騒がしい。
「ーーさまっ! こちらにイシュさまはいませんかっ!」
広い館内に声が反響して判り難いが、方角は入口の方だろうか。
それにしても、声が随分と幼い気がする。
「ふぅ、楽しいひと時というのは、どうしてこうもすぐに終わってしまうのだろうね」
イシュは声のする方角を向いて、息を吐くように言い、そして唐突に異なる話題を振った。
「ところで、君は女神のアレをどう思うかな?」
「アレとは……?」
「予言だよ。君も女神の予言を信じて、冒険者をしているんじゃないのかい? 最近は、誰も彼もがレベル上げに躍起だからね」
僕が分からずに疑問の表情を浮かべていると、イシュは僕の耳元に顔を近付けて呟いた。
『女神の眠りから三百年の後、聖女の施した封印は紐解かれ、魔界の門が再び開かれる』
僕は急に何を言い出すのかと、戸惑う。
しかも、男に耳元で囁かれても何も嬉しくは無い。
それに魔界の門が再び開かれる?
どういう事だ? また歴史にあった様な大戦が起こると言うのだろうか。
「いたっ! いましたっ! イシュさまっ! もうっ! 式の途中に抜け出してもらってはこまりますっ!」
と、その場の空気を断ち切るように、小さなシスターのような格好をした少女が息を切らしながら現れた。
「分かっているよ。ほんの少し散歩をしたら、すぐに戻るつもりだったんだ」
「もうっ! ダメですっ! 今日は大事な洗礼式なのですからっ! 今朝はキチンと最初から最後まで一緒に居て頂けると約束しましたっ! それを主賓の衣装替えの隙に、ちょっとお手洗いなんて言ってトイレの窓から教会を抜け出すなんてっ! もう私が怒られるんですからねっ!」
「うん、うん、そうだね。ごめんよ、ミシェル」
イシュは呼びに来たシスターの方を向くと、ぽんぽんと彼女の頭の上に手を置いて頭を撫でた。
「もうっ、子供扱いしないでくださいっ」
小さなシスターは、拗ねたように頬を膨らせる。
「ははは、そうだね。君は立派なシスターだ」
そう言うと、イシュはこちらを向き直り、優雅に礼をした。
「残念だが、時間切れのようだ。また君達に会えるのを楽しみにしているよ」
ミシェルと呼ばれた小さなシスターも、少し遅れてぺこりと一礼する。
そして、二人で去って行く。
「さぁ、ミシェル、戻ろうか。早く戻らないと、恐い修道長に怒られてしまうからね」
「もう、分かっているならやめてください」
「ははは、そうだね」
そんな無邪気な会話を残しながら。
静かな貴族街の石畳の道、夕焼けに照らされながら帰路に着いた。
「フレイヤ、今夜の晩ご飯はメイルディアーのラグーですよ。焼きたてのパンも買って頂きましたし、今晩はご主人様とフレイヤが契約したお祝いです。良かったですね」
「……?」
「ふふっ……。ラグーというのは、とろみを付けた煮込み料理のことで——」
そんな和やかな会話をしている横を、僕はボンヤリと考え事をしながら歩く。
今日、偶然会った司祭の事では無く、図書館で調べた奴隷のことについて……。
『奴隷の解放とそれに関する一切の研究を禁じる』
世界法の条文の一つには、確かにそう書かれていた。
一方で、人を奴隷の身分に落とすことは禁止されておらず、現在でも刑の一種とされている。
要するに、完全に一方通行なのだ。
公の理由は、大昔の奴隷達が人に反旗を翻したからだと言われている。
かつて、魔界の神は大陸の全ての人々に黒い腕輪を与え、黒い腕輪を持つ者は支配の魔法というもので魔界の軍勢に操られた。
慈悲深い女神達は、人々の持つ腕輪に色を与え、支配の魔法に対抗する力ーー身分を授けたという。
故に、奴隷とは魔界との大戦の最中に魔族側に着いた裏切り者であり、女神の救済から零れ落ちた者でもある。
それが始まりなのだ。持つ者と持たざる者が、神により明確に区別された。
そうして黒い腕輪を持つ者は、同じ世界の人々からも弾圧される事になった。
奴隷は信用できない。制約次第では、どの様なことでも逆らうことが出来ないから。
女神が見放した奴隷は、人ですらないと。
いつしか奴隷は社会から隔離され、後に主従の契約というものが発見されてからは、契約を結んだ者のみが制約という枷をはめられて利用され続けている。
女神とか、魔界の神とは、一体何なのだろうか。
そして、司祭の男が言っていた女神の予言……。
「はぁ」
「ご主人様?」
「あ、うん。なに?」
「なんだか難しそうな顔をしていたので。どうなされたのですか? フレイヤも心配してますよ」
そう言われて初めて、フレイヤに服の袖を掴まれている事に気が付いた。
こちらを見上げる彼女の白い肌と髪が夕焼けに照らされて、仄かに色付いている。
僕はフレイヤの頭をそっと撫でると、フランに向き直って口を開いた。
「ううん、少しボーッしてただけだよ。なんでもないよ」
「そうですか。でも、あまり眉間に皺を寄せるのは良くありませんよ? 表情は、それに似合う出来事を引き寄せるとも言いますし……。ご主人様には、いつもの優しそうな笑顔の方が似合うと思います」
フランはそう言って、はにかんだ笑みを浮かべた。
恥ずかしいなら言わなければ良いのにと思う。
しかし、それに釣られて僕も自然と笑みがこぼれた。
「あはは、そんなにいつも笑ってたかな?」
「そうですよ。フレイヤに話し掛けるときは特にそうです。私にする時よりも何だか嬉しそうです」
「それはフランの考えすぎだよ」
「では、たまには私の事も撫でてくれて良いんですよ……?」
「え、えっと、それは……」
興味本位で調べたそれは、僕の考えを酷くかき乱したが……。
「そうですか……やはりフレイヤだけ……。ご主人様は、私の事が嫌いなのですね」
「えっと、だからそういう事ではなくて……」
「では、どういう事なのですか……?」
「えっと……それは……」
こうして、最後には彼女達に慰められてしまった。