峠
昨日までの発作は、まだほんの序の口だったのかもしれない……。
「はぁ、はぁ」
僕は彼女を抱き締めたまま荒い息をしている。
「フランっ……死ぬなっ」
青ざめた顔をした彼女は、もう微かにしか息をしていないように思えた。
もう僕の魔力も尽きているのかもしれない……。
身体の感覚が、もうほとんど分からないのだ。
それでも僕は、フランへの魔力を込めるイメージをやめない。
朦朧とした意識の中、必死に自分を繋ぎ止める。
彼女に魔力を注ぐために……。
寒い……息が苦しい……頭が痛い……。
それ以外の事は、もう何も分からない。
****
夕日が食堂の店内を照らす中、私は仕事をしながら先ほどの彼のことを想っていた。
これから来るお客さん達に備えて、店内に明かりを灯して行く。
私はその作業をしながらも、彼のことを想うと、頬が綻んでしまうのだった。
「ふふ……」
「何をニヤニヤしてるんだい」
私は最後の魔光石に明かりを灯すと、その声に向かって言い放った。
「お、お母さん。ニヤニヤじゃなくて、ニコニコと言ってよ!」
「全く……どっちだって一緒だよ。ほら、意中の貴族様がお出掛けだよ。あんた部屋のシーツを替えて来な」
「はぁ、もう……」
と私は、不機嫌な振りをして宿の方へと向かう。
お母さんは、ああして私をからかうのだ。
私は宿のカウンターで、お父さんから部屋の鍵を受け取る。
替えのシーツを持って、彼の部屋に向かった。
鍵を開けて部屋に入る。
部屋の中は、僅かに夕日が照らすだけ。
急がないと、そろそろお店が混み始める。
私がベッド向かうと、彼女は一人でご飯を食べていた。
「あら……いたのね。ごめんなさい、シーツだけ替えさせて」
「は、はい……」
線の細い、とても綺麗な女の人。
その長い髪は金糸の様にキラキラと、夕日に照らされて輝いていた。
そして、大きくて美しい真紅の瞳。
これじゃあ敵わないなぁ……。
流石は貴族か。
きっと高い奴隷なのだろう。
「私はここの娘のティアよ。あなた名前は?」
私はシーツを替えながら、彼女に声を掛けた。
「……フランと申します」
フラン――そう名乗った彼女は、どこかとても怯えている様だった。
肩を縮こまらせて、左腕を抱えている。
ユウと同じ様に、どこか怪我でもしているのだろか?
医者を探していたし……。
「あなたその左手、大丈夫?」
私が彼女を心配して近寄ると、
「来ないでっ!」
うわぁ、びっくりした……。
「ご、ごめんなさいね。怪我とかしてないか心配になって……」
「……申し訳ありません。平気です」
本当に平気なのだろうか?
心無しか、必死に呼吸を抑えている様にも見えた。
「貴女まさか主人に変な事されてないでしょうね?」
「ご主人様は、変な事なんて絶対にしませんっ!」
またまたびっくり……。
「そ、そうよね。彼、優しいものね」
と私の言葉にコクリと頷く彼女。
となると、彼女は私に怯えているのか……。
私は素早くベッドを仕上げると、そそくさと部屋を退散する事にした。
「ご飯食べ終わったら下にお盆を返しに来てね」
彼女が頷く様子を見て、私は部屋を後にした。
やっぱり彼は優しいんだ……。
奴隷にも優しいなんて、どれだけお人好しなのだろう。
****
彼女が部屋を出て行った。
ドクリ――と、心臓が高鳴っていた。
早く鍵を閉めないと……。
ドクリ――
胸が苦しい……。痛みが怖い……。
シーツを替えに来た彼女は、最後に部屋の鍵を閉めて行ってはくれなかった。
そして、彼女が部屋に入る直前に、呪い付きの発作が訪れていた。
寒い……。身体の震えが始まっていた。
「はぁ、はぁ」
私は必死に部屋の扉まで足を進める。
壁に手を当てながら、足を引きずる様に……。
「はぁ、はぁ」
やっとの思いでたどり着く。
鍵の閉まる音に、私は再び安堵する。
ベッドまで歩けるだろうか……。
頭が割れる様に痛い。
一歩、また一歩と私は足を進めるも、どうやらこれ以上は無理そうだ……。
私は半ば倒れこむようにして、床に腰を下ろした。
もう寝てしまおう……。
もう……苦しいのは嫌だ……。
そして、私は意識を手放した。
****
町並みを闇がすっかりと包み込んだ頃に、僕はようやく宿に戻ってきた。
やはり、広場から向こう側は明るいようだ。
比べて、こちらの町並みは薄暗い。
唯一、うさぎ亭の店内は別のようであった。
僕は軽やかな足取りで宿に入る。
「ユウっ」
と、僕は宿の娘のティアに呼び止められた。
「ユウの借りている部屋のシーツを替えに入ったのだけど……怖がらせちゃったみたい。ごめんなさいね」
と、ティアは僕に謝る。
「大丈夫、伝えておくよ」
「え? ありがとう。でも、どこ行ってたの? ギルド?」
と、ティアに外出の理由を尋ねられた。
女物のパンツを買いに行ったなんて言えないよな……。
「ううん、買い物だよ。彼女の服と靴を」
「そう、それだけの為に急いで買い物なんて優しいのね」
奴隷……。
その響きは、あまり好きになれない。
彼女だって好きで奴隷になった訳ではないのだから……。
「その……彼女のことは、あまり奴隷として扱わないでもらえないかな?」
「えっ、えぇ。お客さんだものね。大丈夫よ」
と、ティアは分かったような、分からないような反応だった。
僕はティアと別れると部屋に戻った。
****
「はぁ、はぁ」
まだかっ――
まだ治まらないのかっ。
暗い部屋の中、僕だけの荒い息が部屋に響いている。
僕が買い物から帰ると、フランが扉の前に倒れていた。
そして、今回の発作は、いままでの比ではない……。
彼女に触れると、体が勝手に膝を付く程だった。
そこからは僕と彼女と呪い付きの……戦いが始まった。
僕は必死の思いで彼女をベッドまで運んだ。
そして彼女を抱き締めて魔力を注ぐ。
その凄まじい魔力の吸い取られ方に、何度も意識を持っていかれそうになる。
薄れ行く意識の中、何とか自分の意思を保ち続ける。
しかし、完全に焼け石に水だ……。
魔力を彼女に込めるまでも無く、僕の魔力は根こそぎ吸い取られていた。
どうやら魔力は、彼女の頭部……おそらく眼に吸い取られている。
その証拠に僕の魔力は、上半身に近づくに連れて激しく吸収されている。
発作時の彼女の眼は赤かった。
彼女の頭に触れると意識が飛びそうになった。
もうどうなっているんだ……。
「はぁ、はぁ」
もうどれだけ時間が経っただろう……。
寒い……。
彼女が少しずつ、冷たくなっている様な気がした。
「フランっ……死ぬなっ」
僕は自分の意識を繋ぎとめる為に、必死に叫ぶ。
その声は掠れてしまい、もう殆ど出ていない。
彼女は死んでしまうのか……?
こんな簡単に人が死ぬのかっ……!
初めて身近に訪れる人の死の予感に、僕は恐怖していた。
怖い……。
僕も死ぬのか?
いや、彼女から身体を離せば……僕は助かるだろう……。
それでも、僕なんか死んだって良い……。
僕はただ彼女に生きていて欲しかった。
僕は、この世界の人間ではない。
たとえ僕が死んだって、悲しむ人なんて誰もいない。
僕の家族も、友人も……みんなこの世界には……いない。
でも、彼女は違う――
僕と違って彼女はこの世界の人間だ。
たとえ奴隷になろうとも、生きた方が良いに決まっている。
いや、生きて欲しかった。
彼女が死んだら、何よりも僕が悲しい。
きっと彼女が死ねば、僕は自分の無力感に苛まれるだろう。
要するに、ただのエゴだった……。
僕が死んだって彼女さえ生きてくれれば良い――
僕は彼女を抱き締め続けた。