フラン
ようやく彼女が泣き止んだ。涙の量からして、相当溜まっていたのだろう……。
落ち着きを取り戻した、少女に僕は話しかける。
「僕はユウ。君の名前は?」
「はっ、はい。フラン……フランと申します」
フラン――そう彼女が名乗った名前は、良い響きだと思った。
「そう、良い名前だね」
「あ、ありがとうございます……」
「……」
「…………」
会話が続かない……。
こんなときに気の利いた事でも言えればよいのだが、生憎と僕にはそんな能力はない。
苦し紛れに話題を変える。
「ご飯は、もう良いの?」
「あっ、はいっ……」
僕は食器を片付けるために、彼女の背中から手を離す。
魔法の光が収まり、部屋が薄暗くなる。
「っ……」
「ごめん、苦しいかな?」
小さな肩を縮こめた彼女にそう問いかけると、すぐに首を振り気丈な答えが返えってきた。
「い、いえ……平気です」
「そう、じゃあ僕は食器を片付けてくるね」
そう言ってから、食器の乗ったお盆を持って部屋から出た。
これからどうしよう……。
今更気が付いたが、僕は彼女を勝手に連れて来てしまったのだ。
医者に診せようにも、そこまでのお金はなく。
完全にただの誘拐である。
食器を返したら事情を話して、また村まで送ろうか……。
僕は食器を返すと、部屋へと戻る。
相変わらず宿屋の娘のティアは、目線を合わせてくれなかった。
僕が何かしただろうか……?
ガチャリーーと、部屋のドアを開けて中へ入ると、ベッドの上にややうずくまるように寝転がっていた彼女が体を起こしてこちらを向く。
そして、彼女はとんでもないことを口にした。
「あの……貴方が私のご主人様なのですか?」
「え?」
彼女の言葉に理解が追いつかずに、無意識に変な声を上げてしまう。
「あっ、いえ……」
重い沈黙が二人の間を支配する。
うん、何かの間違いだよ……。
と、と、とにかく事情を話して彼女を落ち着かせないと……。
僕がそんな事を考えていると、彼女はベッドから立ち上がり、床へ下りる。
そして、その場にペタンと座り込むと頭を下げる。
「あのっ! 私をご主人様の物にして下さい!」
待て、何を言っているんだ。
この娘は――
「何でもっ! 何でもしますっ! お願いします!」
僅かな間の後に、彼女がこちらの様子を伺うようにして顔を上げて上目遣いに見つめて来る。
その視線が気恥ずかしくて、目を合わせたり逸らしたりを繰り返す……。
「……」
「…………」
再び沈黙が二人の間を支配し始めた頃になると、止まりかけた思考が回転し始めた。
何でも……? 何でもって、あれか? あの、何でもなのだろうか?
ちょっと待てほしい。どういうことなんだ?
彼女が一体何を考えているかは分からないが、まずは事情を確かめなければいけない。
僕は努め落ち着いた振りをして、彼女に向き直った。
彼女の綺麗な赤い瞳が僕を見つめる。
彼女は……とても美しい。
彼女を照らすのがロウソクだけなのがとても残念だが、その明かりに照らされて黄金色の髪がキラキラと輝いているのが見える。
しかも、格好がアレなのだ……。その、ピラピラだ……。
薄い布切れを胸元と腰に巻いた様な感じ。
布切れは背中と腰の横を紐で結ばれているものの、その紐がどうにも頼りない……。
彼女の胸は特別大きくも無いが、小さくも無い……。
いや丁度良い感じではないだろうか?
それに形も……。
「……」
「あの? ご主人様?」
ほら……いまにも胸元が見え……。
いや、待て……。
男子たるもの女子の前では紳士でいなければいけない。
僕は何を考えているんだ。
うん、紳士、紳士……。
「……」
「ご主人様?」
彼女が首を傾げてこちらを見つめる。
いやっ――可愛いよ? 可愛いけどもっ――!
まるで思考が加速したかの様に、次から次へとふしだらな考えが頭を過る。
その妄想を、だめだめだめだめっ――! と暴走した頭から必死に追い出す。
そして、一呼吸置く――
「ふぅ……」
「あ、あの……」
大丈夫だ。僕は冷静だ……。
そう、僕は賢者だ。
賢者モード、賢者モードと、自分に意味不明なことを言い聞かせる。
落ち着きを取り戻した、僕は彼女に理由を尋ねた。
「その……どうして君は僕の物になりたいの?」
「……フランです。ご主人様」
「あっ、ごめんよ。フラン……」
僕は慌てて言い直す。
そうではなくて……。
「いえ……」
彼女は、僕から視線を逸らした。
そして、またしばらくの沈黙が二人の間を支配する。
いまきっと2人の間には、天使が通っている。
危うく幻視しそうなくらいにピヨピヨと頭の中で変な妄想を繰り広げていると、彼女がひどく言いづらそうに口を開いた。
危ういものに触れるときのような、声を絞り出すようにして。
「……私は解放奴隷です。まだ……誰の物でもありません」
解放奴隷か……。
まだ誰の物でもないのなら自由で良いじゃないか、と思うものの、そうはいかないのだろうか?
彼女が話を続ける。
「……今なら……私は貴方の物になる事ができます。私を……私をご主人様の物にして下さいっ!」
「うっ……!?」
ズキューンッ! とハートを射抜く天使の矢よろしく、上目遣いで見つめる彼女。
僕の理性は、ギブアップ寸前だった。
しかも、ご丁寧に目尻に若干の涙を浮かべている。ク、クリティカルすぎる……。
頬が紅潮していて……息遣いも少しだけ荒く、その……とてもエロいのだ……。
くっ、だからダメだ……。
誘拐した挙句に手を出したらそれこそ犯罪者じゃないか。いや、誘拐だけで犯罪か……。
「はぁ、はぁ」
いやいやいや、こんなに必死に懇願している彼女のお願いを無視するのか?
こんなにも息を絶え絶えに、必死になってお願いして……。ん……?
「はぁ、はぁ」
僕は馬鹿か、何を考えているんだ。
彼女は病人なのだ。
そして、今も苦しんでいるのだ。
「ごめんね」
「えっ……」
僕はそっと彼女の手を取ると、魔力を注いだ。
「あ、あの……やっぱり平気なのですか?」
「ん?」
「私は呪い付きです……。発作の最中に触れれば、あなたを不幸にしてしまうかもしれません……」
なるほど……。
この世界では呪い付きの症状がよく分かっていないのではないだろうか……。
いまのところは、ただ魔力を吸い取られるだけだ。
確かに身体はだるいし、魔力を消費することで多少は気分も滅入るけど、僕にはそんなに危険なものには見えなかった。
僕は彼女を立ち上がらせて、ベッドに座らせた。
「大丈夫だよ。おそらく魔力を吸っているだけ。吸われる量も落ち着いて来ているし、そのうち治るかもしれないね」
なんて楽観的に言ってみる。
「やはり、本当に平気なのですね……」
「うん」
すると彼女が再びポロポロと涙を流し始めた。
「呪い付きが治るという話は聞いた事がありませんっ……。でも……でも、私やっぱり死にたくないっ! 呪い付きになった人はみんな死んでしまうんですっ。治療法も分かっていません……。でも、あなたに触れているとまるで治ったみたいに体が軽くなるんですっ。お願いします、私をあなたの物にして下さい!」
泣きながら懇願する彼女に、僕の考えは決まってしまっていた。
涙を見せる女性を、放っておけるはずがないのだ。
「分かった。分かったから落ち着いて。きっと、きっと……大丈夫だから」
僕がそう言って彼女をなだめると、しばらくして落ち着きを取り戻した彼女が口を開いた。
「呪い付きは、触れる人の魔力を奪います……。普通の人であれば、しばらく触れているだけで死んでしまいます。発症するのは若い子供が多く、大抵の場合に犠牲になるのはその家族です。どんなに手を尽くしても死んでしまう病気。それが呪い付きだと言われています」
なるほど、村の村長が諦めろと言っていたのもこれが理由なのか。
呪い付きは治せない病気として認知されている。
しかも、触れる人も犠牲になるのか。
僕はなぜ平気なんだ……。
「それと私が読んだ本では呪い付きは何らかの能力に目覚めるとなる病気だそうです。触れる人の魔力を奪うのと、発作の度に能力が暴走するそうです。私の場合はおそらく魔物の召喚……。でも召喚した魔物との契約は切ってしまったので危険は無いはずです。召喚したのも最初だけでしたし」
「魔物って、あの死神みたいな?」
「はい。あれを召喚した時に、叔母の娘を傷付けてしまったので売られたのだと思います。もしかしたら殺してしまったのかもしれません。直後に意識が飛んでしまって……。それに、呪い付きですからどうせ死にますし……」
召喚の能力か……なんか格好良いな……。
なんて他人事に考えてしまうが、発症した方は堪ったものではないだろう。
でも、危険が無いなら問題ない。
「死神はご主人様が倒して下さったのですか? 死神は高位の魔物なので、お強いのですね」
「ううん、あの死神は僕の魔法を……光を浴びせたら逃げちゃって……。僕も危なかったから良かったよ」
「そうですか……」
僕の言葉に彼女は少しだけ落胆した様だった。
なにか不味かっただろうか……?
「あの死神は村の近くで契約を切ってしまったので、ご主人様に襲い掛かったのだと思います。それに村に被害が出ていなければ良いのですが……」
自分が召喚して放したから、気にしているのか……。
今度見付けたら、倒せないだろうか……。
僕の魔法は、一応効いていたみたいだけど……。
「あの……それで私をご主人様の物にして頂きたいのですが……」
「えっ……う、うん」
いや、どう言う事だ……。
咄嗟に頷いてしまったが、まるで内容が分からないのだ。
あれか? あれなのか? と再びピンク色の妄想を繰り広げそうになるが、なんとか踏み止まる。
「そのご主人様の物に、と言うのは具体的に何をすれば……?」
「私と主従の契約を結んで頂きたいのです」
「その……主従の契約とは……?」
「えっと、奴隷商に行けば魔法で契約をしてくれるはずです」
うん、先走らなくて良かった……。
契約ね、契約。
魔法で契約するのか。
しかし、契約なんかしなくても僕が魔力を注げば良いだけじゃないのだろうか?
「やっぱり、契約ってしなくちゃいけないのかな? その呪い付きと関係があるの?」
「えっと、呪い付きとは関係がありませんが、私は解放奴隷なので……」
むむ……? 解放されているなら、再び人の物になる必要は無いのではないだろうか?
「解放されているなら、わざわざ人の物にならなくて良いんじゃないの? 僕の奴隷にならなくても、魔力はあげられるよ」
「その……解放奴隷は、誰の物でもない代わりに、誰の庇護も受ける事ができません……」
要するに彼女の話では、解放奴隷は誰のものでもないので、誰に何をされても文句は言えない。
僕の隣を歩いていて、例え道端で襲われようとも誰も文句は言えないのだ。
僕も、彼女も。
「えっと……なるほど……」
「お願いします。何でも、何でも致しますからっ」
その何でもというのは、かなり魅力的なのだが……。
僕にはその勇気がない。
ようするにヘタレなのだ……。
「分かった。でも、契約はするけど……僕は、君を奴隷として扱うつもりはない。僕の前では、君は普通の女の子でいて欲しい」
「はいっ……」
その言葉を聞くと、再び彼女は一筋の涙を流した。
そして微笑みながら彼女は言った。
「フランです。ご主人様っ」