(6)王の使者
老執事が出て行き、少し経ってやって来たのは、サーディクとそう年の変わらない青年だった。焦げ茶色の瞳が長椅子に座っているマシェリラを捉え、驚いたように少し見開かれる。だがすぐにその瞳は剣呑なものとなり、彼はサーディクを鋭く睨みつけた。
「貴様っ、アテーフェがいるというのに、よくもっ……」
「ま、待て。落ち着けキファーフ!」
「許さん!!」
カチャリと音がして、使者の青年――キファーフは、腰に帯びた剣をすらりと鞘から抜き放った。その切っ先を、サーディクの喉許に向ける。
「わわわ、ご、誤解だキファーフ。王妃様だ、王妃様だって。マシェリラ様だよ!!」
「は? 王妃だと? 嘘をつくならもっとマシな嘘をつけ。あの引きこもりな根暗女が、どうしてここに居るんだよ? あの死に損ないが、ここに居るわけないだろうが!!」
「キファーフ!! お前、今自分が何を言ったか、解っているのか!!」
サーディクの顔色が見る見るうちに青くなる。だが興奮しているキファーフは、それに少しも気がつかない。ダン――と、大きく一歩前に出て床を打ち鳴らすと、剣を持っていない方の手でマシェリラを指差した。
彼の口は止まる事を知らないかのように、その場に居る者達にとって、酷く耳障りな言葉を吐き出す。
そしてそれは、サーディクを激昂させるのに充分であった。
「見苦しい言い訳は止めろ、サーディク! その女はこの辺りにやってくる貴族を相手に商売をする、股の緩い薄汚い娼婦だろうが!!」
「キファーフお前、いい加減にしろ!!」
どこをどう見たら、マシェリラがそう見えるのかが不思議である。今彼女が着ているのは、貴族の娘の普段着よりも、少し良い生地を使っているドレスだ。髪は結い上げず、背にたらりと垂らしているが、誰が見ても今のマシェリラは、貴族の中でも家格がかなり上の娘にしか見えない。
確かにこの辺りには、その手の商売をする店が幾つかあり、“高級娼婦”と呼ばれる者達が何人かいた。だが、一度だって離殿に呼んだ事はないし、利用だってした事はないし、会った事だってもちろんない。
王都でもそうなのだが、高級娼婦は美しいからなれるものではない。
教養の高さや気品、立ち居振る舞いの優雅さや、話術の巧さを兼ね備えている必要がある。
それ故、美しくなくてもなれたりするのだ。もちろん一番大切なのは、上客を繋ぎ止めておけるだけの閨での技術であるのだが……これには相性というものがあるので、ダメな時はダメなのである。
彼女達の一晩あたりの値段は、さすがに高級とつくだけあってかなり高いものである。だが、それを払うだけの価値はある――と、幼い頃、サーディクは祖父から教えられた。
「落ち着けキファーフ。そもそもなんでお前、この方を娼婦だなんて思ってるんだよ」
「しらばっくれるなよサーディク。アテーフェとの婚約が決まってから女遊びをしなくなったお前が、離殿に女を連れ込んでいるんだ、そうとしか考えれないだろうが!! アテーフェじゃ、お前の相手はまだ無理だからな。欲求を処理するには女を買うしかない。だが、王都でそれをやったら、たちまちこちらの耳に入る。だからこっちで――って事なんだろうが……おい女、いくらで売っているのか知らないが、ここはお前みたいな下賎な女が居て良い場所じゃない。用が済んだのならさっさと出て行け! お前みたいな商売女、居るだけで胸糞わ――」
最後まで言い切ることが、キファーフはできなかった。何故なら彼は、左頬の激痛と共に、強かに背中をテーブルに打ちつけ、それごと後ろへとふっ飛んだからだ。物凄い音がしたため、近くにいた使用人達が何事かと集まってきた。もちろんその中に、老執事とハナンも入っている。彼らは拳を震わせ、憤怒の形相のサーディクの姿に驚き何度も瞬きをした。
「キファーフ、出て行くのはお前だ! それ以上王妃様を侮辱する言葉を言ってみろ、お前を丸裸にして王宮前の広場で鞭打ちにし、簀巻きにして馬で王都内を引きずり回してやる!」
サーディクの怒気を孕んだその声に、キファーフは殴られた左頬を押さえながら「まさか……」と目を瞠った。まさか、本当に王妃なのか?――と。
「おい、サーディク」
「なんだ?」
「本当に……なのか?」
「ああ。さっきから言っているだろうが」
じっと、キファーフはマシェリラを見る。まともに彼女の顔を見たのは婚儀の時のみで、だから王妃の顔がどうであったかなど、うろ覚え程度でしか記憶していない。ただ、青い瞳が酷く印象深かった。
そう、青い……自領にあるエーラーンの、青く澄んだ美しい海を思わせるような瞳が………。
「っ!!」
キファーフはその場で片膝を床に付くと剣を床へ置き、その手を腰へと回し、もう一方の腕を胸の前で構えて騎士の礼をとった。
「王妃様っ、ご無礼の数々、まことに……まことに申し訳ございません!!」
彼の顔色は悪く、それはマシェリラのいる位置からでも良く分かる。侮辱されたのはこちらであるのだが、気の毒に思ってしまうほどだ。
鮮やかな赤茶色の髪が印象深いこの青年は、南殿大公の三男で、最年少で王宮軍十将の末席に座った逸材である。華やかな顔立ちは若い娘達を虜にするのに充分で、高位貴族でありながら許婚がいないため、一人娘を持つ遺族から是非我が家の婿にと熱望されているのだが、唯一の欠点が思い込みが少し激しいところだ――と、以前、耳にしたことがある。
確かに――と、マシェリラは一連の言動を見て納得した。
「気にしていません……本当の事ですから」
ゆるりと頭を振ったマシェリラに、キファーフの顔色はますます青くなった。サーディクは胸の前で両腕を組み険しい表情だ。老執事とハナンはもちろんのこと、騒ぎを聞いて集まった使用人達も、キファーフに対しあからさまに不快感をあらわにしている。
「あ、いえ……その、あの……」
本当の事――とは、彼が言った“引きこもりな根暗女”と“死に損ない”の事だ。言ってしまった言葉を、今更無かった事になどできない。どう弁解しようかぐるぐる考えていると、棘のある声音が頭の上から降ってきた。
「キファーフ。お前、用があって来たんだろう? 何だよ。さっさと言って、さっさと帰れ。そしてもう二度と来るな」
のろりと顔をあげると、眦を吊り上げたままのサーディクがおり、彼の背後からはオドロオドロシイ何かを感じずにはいられなかった。ぶるりと身震いをし、キファーフは唾を飲み込んだ。
「あ、や……国境の方がキナ臭くなってきたから、対策会議をするんで戻ってくるよう言ってこいと、陛下に言われたんだ」
国境とはおそらく、マシェリラの祖国スファール側ではなく、反対側にあるマーラルケリッシュ国の事だろう。昔から、幾度となく小競り合いが繰り返されてきた。ここ数年国内が安定せず、国境にまで手が回らなかったのか、戦を仕掛けてくる事はなかったのだが、どうやらそれも片付いたようだ。
「……私がいなくても大丈夫だろう」
戦略をたてるのは、それを専門としている軍師の仕事である。宰相は軍師ではない。一応、基本は頭に叩き込んではあるものの、それはあくまでも基本であり、会議で専門用語が出ても困らない程度でしかない。
「そうだろうけど……王命だ、戻れサーディク」
「嫌だね」
「サディー……」
頼むよ――と、キファーフはなんとも情けない顔だ。そんな幼馴染みを見て、サーディクは小さく溜息をつく。王命となれば否やはない。戻らなくてはならない。
だが、マシェリラに何かあったらと思うと、サーディクはここから動きたくなかった。
第一、自分がその会議に出なくてはいけない理由はない。出るのであれば、それは宰相であるスハイルの仕事だ。
「サーディク殿、お戻りください。わたくしならば大丈夫ですから」
「ですが……」
「王命に逆らう事は許されません」
「ですが、万が一の事があったら私は……」
警備は後宮のように万全ではない。しかも離殿で働く者達は、人数も少ない上年嵩の者が多く、直接マシェリラを刺客が狙ってきたら、それを跳ね返す術がないのだ。確かに王命は絶対であり、マシェリラの言っていることは正しい。王命は絶対である。
養生という名目でこちらにきて十日……今まで何もなかったのが嘘のようで、張っていた気が少し緩んでいた矢先の、それは思いもよらない帰還命令であった。
だが今のサーディクには、それに従うわけにはいかない。
「キファーフ、私は戻らないよ。陛下にはそうだなぁ……湖に落ちて風邪をひき、高熱を出してうなされているとでも伝えておいてくれ」
「サディ……お前なぁ……」
「いけませんサーディク殿。どうぞお戻りください」
「いいんです。私がいようがいまいが、決まるものは決まるのですから。それよりも、私がいない間に王妃様に何かあったら……それこそ大変です」
「サーディク殿……」
きゅうと眉根を寄せるマシェリラに、サーディクはやんわりと微笑む。
「会議よりも私は、マシェリラ様の方が大切なのです」
「……」
聞きようによっては、サーディクが王妃に恋慕している――と、とられてもおかしくはない言葉だ。キファーフの背中に嫌な汗が流れた。