(5)離殿での穏やかな日々
トゥワン湖の畔に建つ離殿は、王都の屋敷とは違って、高い塀に囲まれてはいなかった。
庭の植物も本来の姿をとどめており、王宮の人工的な美とは違った美しさがある。
東殿大公の離殿に来てから、既に九日が経っており、十日目の朝を迎えたマシェリラだった。
馬車とはいえ、体力の落ちていたマシェリラには、ここまでの道のりはかなりきつく、着いて早々寝込む事となったが、医師を呼ぶほどの大事には至らなかった。
「おはようございます王妃様。朝食をご一緒にと、サーディク様より言付かっておりますが、いかがなさいますか?」
「……はい。いただきます」
こくりと頷いたマシェリラは、上体を起こしてはいるが、目の焦点は定まっておらずボーっとしている。そんな主の様子にハナンは苦笑し、洗面のための湯をもらいに寝室から出ていった。
後宮では、常に気を張っている状態だったマシェリラだが、東殿大公の離殿でその必要は無い。
それ故なのだろう、元々の性格がここでは前面にでてきている。良い事だとハナンは思う。あの忌まわしい場所から連れ出してくれた東殿大公には、いくら感謝の気持ちを言葉に現しても足りないくらいで、しかも好きなだけ離殿に居て良いと言われたのには驚いた。
それはつまり、王宮に戻らなくても良い――という事なのだから。
ハナンにとってマシェリラは、今は仕える主ではあるものの、兄ナヒードの許婚という方が近い。それ故、幼い頃より面識があった。男兄弟ばかりの中の、ハナンは唯一の娘だったので、女の子のする遊びはみなマシェリラが教えてくれたようなものである。人形遊びをねだる自分に、嫌な顔一つせず付き合ってくれたし、本もハナンが満足するまで読んでくれた。ナヒードとの時間を邪魔しても、兄はとても不機嫌な顔をしていたが、マシェリラはにこにこと笑ってハナンの相手をしてくれた。
そんな優しいマシェリラが兄の妻となり、自分の姉になる事がハナンは本当に嬉しかった。
その日を……マシェリラを“王女様”ではなく“お義姉様”と呼べる日が来る事を……本当に、本当に、ハナンは楽しみにしていた。指折り数えて、その日を待っていた。
それなのに、それはタハミーナの出奔によって、無残にも打ち砕かれてしまったのだ。
粘りに粘って侍女となる事を許してもらい、ガジェンドラへと一緒に来てみれば、マシェリラは冷遇されるだけでなく、命までも狙われるようになった。
その事を兄に知らせるべく、何通も手紙をナヒードに書いたものの、いつまでたっても返事が来ない。
おかしいと思い、宮女長を問いただしても、のらりくらりとはぐらかされてしまい、漸くガジェンドラ側によって全て握り潰されていたと知った時には、怒りで体が震えたほどだ。
誰にも頼れない。
自分がマシェリラを守るしかない。
そう決意してからのハナンは、顔つきががらりと変わった。それに気がついたのは、主たるマシェリラだけなのだが……自分のせいでそうなってしまったかと思うと、ハナンの両親とナヒードに申し訳なく、早く国に帰そうと事あるごとに帰国を勧めた。
だが、ハナンは頑としてそれを受け入れてはくれなかった。嬉しい反面、もしもハナンにまで手が伸びたら――と思うと、マシェリラの胸は苦しくなる。異国で、しかも自分のせいで、ハナンが怪我をしたり命を落としたりしたら、悔やんでも悔やみきれない。
当の本人はその可能性を少しも考えてはいないようだが、けしてこれはありえない事ではないのだ。ありうる事なのだ。
「王妃様、お湯をいただいてきましたよ。顔を……」
湯をもらい戻ってきたハナンであったが、出て行った時とマシェリラは同じ状態――寝台の上でボーっとしている――だったのを見て、特大の溜息をつきがっくりと肩を落とす。テーブルの上にある洗面器の横にお湯専用の水差し置き、ハナンは寝台横へと行くと、マシェリラの顔の前で手をひらひらさせた。が、気がつく様子はない。これは駄目だと、もう一度大きな大きな溜息をついた。
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「今日は魚釣りに行きませんか?」
野菜のスープを飲んでいるマシェリラに、サーディクは穏やかな笑みを浮かべ、それを提案した。
「つり?」
「ええ、釣りです」
「あの、サーディク殿……」
それは何ですか?――と、首を傾げる彼女に、これは失礼とサーディクは苦笑した。考えてみれば姉しかいないうえ、祖国でも後宮からほとんど外に出た事のない彼女が、それを知っていないのは仕方のない事だ。これは自分が悪い――と、サーディクは釣りが何であるか説明を始めた。
「釣りというのはですね、木でできた棒の先に糸を付け、その糸の先に付けた先端が曲がった針に生餌を刺して、湖の中に垂らして魚を釣る事なんですよ」
「生餌?」
「ええ」
それはどういった物なのか?――と問うマシェリラに、サーディクは「今はちょっと……」と言葉を濁す。流石に食事中に虫の話しは良くないだろう。
「もう一個パンをどうです?」
「いえ。もう充分です」
「そうですか……」
「はい」
頷くマシェリラに、サーディクは不満顔だ。それもそのはず……彼女はまだ一個しか食べていないのだ。否、その一個ですら、彼女は食べ終わっていなかった。女性の拳くらいの大きさのパンを――だ。既に三個平らげているサーディクからしてみれば、それは食べてないも同じだ。
マシェリラは細い。
毒殺されかかり寝込んでいた間も、その後も、まともに食事がとれなかったせいで胃が食べ物をあまり受け入れないのは解る。だが、少しでも多く食べ、体力をつける必要があるとサーディクは思う。そうしなければ次は助からない可能性があるからだ。
「もう終わりですか?」
スプーンを置いたマシェリラに、サーディクは眉根を寄せる。
「すみません……もうお腹一杯です」
「そうですか」
ちらりと、マシェリラの皿を見る。乗せられた料理の半分以上残っているが、昨日よりも多少ではあるが食べてある。パンも今朝は食べた方だ。木苺のジャムが甘酸っぱく、美味しかったからかもしれない。明日も出すよう、料理長に言っておかなくてはと、サーディクは自身の皿の上の物を平らげた。
食事を終え侍女が食器などを下げている間、お茶の入ったカップを持ったサーディクは、マシェリラに長椅子の方へ場所を移そうと促す。素直にそれに従い、深い緑色の長椅子に腰掛けると、彼はカップをマシェリラに差し出した。受け取り、温かなそれを一口飲む。ミルクがたっぷり入っており、ほんのりとした甘さのある上品な味だった。
「不自由な事はありませんか? こちらは王都と違い、田舎ですから……」
「いいえ。何も……。お気遣い、ありがとうございます」
ふんわりと微笑むマシェリラに、サーディクの顔も和らぐ。輿入れする前に見せてくれたあの笑みが、環境が変わった事がきっかけとなり、三年ぶりに戻ってきたようで嬉しかった。もう一杯お茶はどうかと訊こうとした時、離殿の管理を任せている老執事が入ってきた。
「お寛ぎのところ、大変申し訳ございません。若様、王宮よりご使者が参られました」
「王宮から?」
誰だろうかと首を捻ったサーディクに、老執事は使者の名前を告げた。その瞬間、サーディクは物凄く嫌そうな顔したので、マシェリラは目を瞠る。彼のこんな顔を見たのは初めてだった。
「サーディク殿?」
「嘘だろぉ……なんでだよ」
わしゃわしゃと髪を掻き毟り、その場にしゃがみこむ。「やめてくれ~。何の嫌がらせだよ~」と、普段の姿からは考えられない言動だ。
「あ、あの……サーディク殿?」
彼の肩に手を伸ばし触れると、ピクンと跳ねるようにこちらを向いた。
「通しても、よろしいですか?」
「え? あ、ここに……ですか?」
「はい」
ここは彼の家の離殿だ。マシェリラは客にすぎない。だから断わるという選択肢は無いのだが、何故かサーディクは彼女の許可を求めた。
「もちろんです。どうぞ」
マシェリラの返事を聞くと、サーディクはよろよろと立ち上がり、老執事に向かって頷いた。老執事は恭しく頭を垂れると、ぴんと背筋を伸ばし、軽やかな足取りで部屋から出ていった。
「サーディク殿、その使者の方とはお知り合いなのですか?」
「ええ、まぁ……」
苦虫を噛み潰したような顔のサーディクに、マシェリラは眉根を寄せて首を傾げた。