(3)離殿への誘い
「大公殿が?」
「はい」
王妃の身分が低かったり、異国から嫁いできた場合、親代わりともいえる後見人が上位貴族である四殿大公の中から付く決まりとなっている。マシェリラの後見に付いたのは、宰相補佐官の父である東の大公――ハムダーン=エヴァンレだった。彼は四つある大公家の筆頭でもある。
元々、タハミーナが嫁いできたら、彼女の後見人となる事が決まっていたのは北殿大公であった。だが彼はタハミーナの醜聞を知り、怒ってそれを放棄した。南殿大公も西殿大公も己が家の利益を考え、マシェリラの後見人となる事に難色を示したので、それならば――と東殿大公のハムダーンが引き受けたのだ。
あきらかに王から冷遇されている王妃の、その後見人となっても得をしないのは解っている。
だがハムダーンは、だからこそ自分がマシェリラの後見人とならなくてはいけないのだ――と、反対する親族達を一喝したのだ。
サーディクも最初は、どうして父親が貧乏籤を自ら引いたのか、まったく理解できなかった。だが、彼女の後宮での様子を知るようになり、その考えは徐々に変わっていった。大公家の中で一番力があるからこそ、自分達が彼女を守らなくてはいけないのだ。
「トゥワン湖……ですか……」
「ええ。今の時期、あちらの方が王都よりも過ごし易いですから」
後見人とはいえ、交流が頻繁にあるわけではない。彼と顔を合わせるのは、年に数回ほどしかなく、それらは全て公式の行事の時だ。そのハムダーンが何を思ったのか、離殿に遊びに来ませんか?――と、マシェリラを誘ってきたのだ。嫁いできて三年……初めての事である。
彼の離殿はトゥワン湖という大きな湖の畔にあり、年間を通じて気温が低く、王都よりもかなり過ごし易いので、一度は訪れてみたいと密かに思っていた場所であった。そのため彼からの誘いは、マシェリラにとってとても魅力的で、彼女はそわそわと体を揺らした。そんな様子が小さな子供のようで微笑ましく、サーディクは頬が緩みそうになるのをどうにか堪える。
「でも、どうして……」
そんなこと?――と、マシェリラは首を捻る。ハムダーンの誘いを疑っているのはあきらかであり、サーディクは一瞬どうしようかと思ったものの、隠してもしかたがないので正直に白状する事にした。
「父は、王妃様のお体を心配しております。ここにいては、貴女は身も心も休まらないのではありませんか? お辛いのではありませんか?」
「サーディク殿……」
後宮内で起こった事は全て、サーディクからハムダーンへと報告されている。もちろん、それに対するラシードの対処がどうであったかも――だ。
だが、その事で、いちいち何かを言ってくるような父ではなく、その証拠に、今まで一度も父から何かを指示される事はなかった。
けれど今回に限っては、黙っていられなかったようだ。
命を落としていたかもしれないからか、はたまたサーディクがいつもより誇張して報告したからか、ハムダーンは今すぐマシェリラを後宮から離し、静かな場所で静養させる必要がある――と、速やかにそうするよう指示したのだ。
マシェリラはいまだ寝所から出る事ができない。医師がそれを許さないのだ。それほど今回の毒は危険だったのだが、マシェリラ自身はそれをよく解っていない。
「わたくし……大丈夫なのに……」
ふうっと深く息を吐き出し、胸元のリボンを指先でいじる。熱も下がり、体のだるさもない。時折、眩暈がするがそれも一瞬の事だ。
「王妃様の“大丈夫”は“大丈夫”じゃないです。一昨日倒れたのは、どこのどなたでしたっけ?」
「うっ……ごめんなさい」
眉間に皺を沢山刻み自分を睨むハナンに、マシェリラはバツの悪そうな顔をした。一昨日、気分転換にと、彼女の目を盗んで庭の散策に出たのだが、体力が落ちている事をすっかり失念しており、部屋に戻ってきた瞬間貧血を起こし倒れてしまった。運悪く、ちょうどそこにハナンがやってきて、それはもう凄まじい悲鳴をあげた。
「トゥワン湖といえば、王都の貴族達に人気の保養地でもありますわ。静養にはうってつけの場所じゃないですか。行きましょう、王妃様!」
「そ、そうね……。折角のお誘いですものね。あ、でも……」
陛下の許可をいただかなくては――そう呟いたマシェリラに、ハナンは「あっ……」と言ってひどく嫌そうな顔をした。妃達が後宮から出るには、王の許可が必要であった。それをもらわなくては、いくら王妃といえども出る事ができない。
「ハナン、宮女長に連絡をしてくれる?」
「はい」
一礼して部屋から出ると、ハナンは後宮を取り仕切る宮女長の部屋へ向かった。
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扉を叩くと「どうぞ」と声がし、ハナンは「失礼します」といって扉を開ける。先代の王の手付きであった宮女長ミシュアは、老いてもなお美しく、入ってきたハナンを優美な仕草で一瞥した。
「何か用ですか?」
「は、はい。実は王妃様の外出許可をいただきたいのです」
ピクン――とミシュアの眉が跳ねる。どういう事です?――と、ハナンに理由を問うた。そこでハムダーンからの手紙を彼女に見せると、ミシュアは目を少し細め「解りました」と頷いた。
「もしかすると、既に陛下の方へ大公様からお話がいっているやもしれません。きっと早々に許可が下りるでしょう」
「そうですか」
ホッとするハナンにミシュアは、王妃様の様子はどうかと訊ねた。宮女長という立場にある彼女は、マシェリラの食事に毒が盛られた事に対し、何らかの処罰を受けなくてはならない身である。だが、やはり今回も何のお咎めもなかった。ホッとしたものの、相変わらずな王に、マシェリラの事を思うと胸が痛む。いくら身代わりとはいえ、王の王妃への態度は酷過ぎた。
「はい。医師の話ですと、毒が抜け切るには、早くてもあともう三月はかかるそうです」
「三月も?」
「はい。どうやら今回の毒には、反復作用があるらしく……良くなったと思っても、突然また症状が出るそうで……」
ハナンの説明を聞き、その毒性の強さにミシュアは青褪める。大体の報告は受けてはいたが、まさかそんなにもしつこい毒だったとは知らされていなかった。今日明日中にも医師を呼び、詳しく報告をさせようと、彼女はギュッと手を硬く握った。
「トゥワン湖には、わたくしも何度か行った事があります。あそこはとても良い場所ですから、王妃様も心穏やかに過ごす事ができるでしょう」
「はい」
失礼致します――と、ハナンは頭を下げて、宮女長室から出て行った。急いでマシェリラの許へと戻る。彼女の頭の中は、あちらへ何を持っていけばいいのかでいっぱいだった。
ハナンが東翼の奥へと向かっているちょうどその頃、正宮内にある王の執務室では、後宮から戻ったサーディクより渡されたハムダーンの書状を、ラシードが読んでいるところだった。
「……東殿大公は何を考えている」
バサリと書状を放り投げると、ラシードは目の前で控えているサーディクを鋭く見据える。
「我が父は王妃様の後見人……それはつまり、父はこの国での王妃様の親――でございます。親が子の心配をするのは、当たり前の事かと……」
「……」
チラリと上目遣いにこちらを見るサーディクの目が、「お前が何もしないからだ」とラシードを責めている。灰色の瞳を細め、「いいだろう」と短く告げると、執務机の抽斗から許可証を取り出した。
「期間はどれくらいだ?」
「それは何とも……王妃様のお体とお心の回復次第かと……」
「ほう……」
僅かだが、ラシードの頬が引きつった。が、視線を落としているサーディクからは、それは見えなかった。許可証を書き終えると、複雑な紋様の王印を押し、それをサーディクへと放るように渡した。
「出立はいつだ」
「準備に三~四日はかかるかと思いますので……」
「そうか」
「はい」
それでは失礼いたします――と、サーディクは頭を垂れると執務室を出て、その足で再び後宮へと向かった。こちらでも手続きが必要だからだ。
磨き上げられた廊下を足早に歩きながら、離殿では何をしようかと考える。
この三年間、マシェリラは肩身の狭い思いをし、息を潜めるように後宮で過ごしてきた。楽しい事など、おそらく一つもなかっただろう。
あったのは悲しみや苦しみだけだ。
だからせめて、離殿にいる間は自由に……自由に好きな事をして過ごしてもらいたい。色々な事を、彼女に体験させてあげたい。
「後見人である父が王妃様の親ならば、その息子である私は兄なのだから」
やはり湖での舟遊びと魚釣りは外せないな――と、サーディクはにんまりと口端を上げた。離殿に着いたらさっそく舟と、釣り道具の点検をしなくてはいけない。
今の時期、湖に生息するコユアという名の魚が旬だ。味は淡白であるが、塩焼きにすると大層美味しい。それをマシェリラに食べさせてあげたかった。あまりの美味しさに、きっと瞳を大きく見開き驚くだろう。しかも自分で釣った魚ならば、美味しさも倍増だ。
「ああ、ラフルの果実を使った焼き菓子を作ってもらおう。熟したやつをそのまま食べるのも良いな。あれは捥ぐとすぐに熟れてしまうから、こちらでの入手は難しいもの」
ここに居ては食べられない物を、マシェリラに沢山食べてもらいたかった。食べて、早く元気になって欲しかった。