(2)無関心と怒り
報告を受け、ラシードは灰色の瞳を僅かに細めたものの、その表情は殆ど変わらなかった。
「いかがなさいますか?」
「捨て置け」
「は?」
「捨て置けと言ったのだ」
ギロリと睨まれ、宰相の補佐官である青年は顔を強張らせる。別に怖いからではない。ラシードの言葉があまりにも酷いからだ。
「陛下、それはどういう意味でございましょう?」
苛立ちをあらわにする補佐官に、ラシードは冷淡な笑みを浮かべた。
「アレが何も言ってこないのだ。こちらからする必要はない」
「ですがそれでは……」
「くどい」
「……」
申し訳ございません――と、補佐官サーディク=エヴァンレは深々と頭を垂れた。だがその両手は、悔しさにきつく握られている。
王妃の食事に毒物が混入されたのは、今日から六日ほど前の事だった。
マシェリラ本人が隠そうとしたにもかかわらず、結局は彼女の容態が悪化したため医師が呼ばれ、その医師より宰相に報告があがってしまい彼等が知る事となった。本来ならば宰相本人がここに報告に来るのだが、先日階段を踏み外し左足を痛めてしまい、現在歩くのが大変な状態である。そのため補佐官であるサーディクが報告をしにきたのだが……妻が殺されかかったというのに、平然としているラシードの態度に腹が立って仕方がない。
そもそも、これが初めてではない。
それなのに今まで一度として、ラシードは犯人を探し出そうとした事がないのだ。
――アレが何も言ってこないのだ。こちらからする必要はない
感情のない、冷ややかな声音に、言っても何もしなかったくせに――と、サーディクは喉まで出かかった。だが、その言葉をグッと飲み込む。何を言っても、ダメだと解っているからだ。
過去、王妃の侍女より何度か訴えはあった。だが、訴えたところで、ラシードが何かをしてくれる事も、王妃を見舞ってくれる事もなかった。そのせいで、後宮でのマシェリラの立場はますます弱くなっていった。そうなると側妃達は言いたい放題だ。そのうち側妃達の侍女や後宮の宮女までもが、王妃であるマシェリラを鼻で笑い蔑むようになった。
もちろんラシードの耳にも入っている。
何故なら彼に、マシェリラの事を言い笑う側妃がいるからであり、その際、控えている侍女達も、マシェリラを見下した発言をするからだ。
どうしてそれが許されるのか?
それを聞いたところで、ラシードがその者を処罰しないせいだ。それは側妃達の加虐心を増長させるには充分だった。
納得がいかないのは最初からだ。今に始まった事ではない。
いくら望んだ相手ではなかったといえども、マシェリラは一国の王女だ。ここまで軽んじられて良いはずがない。良くなどない。
「陛下」
おそれながら――と、続くはずだった言葉は、ラシードによって遮られた。彼は右手を前後に振り、サーディクに下がれと無言で命じた。王の命は絶対である。仕方なく彼は膝を折ると、「失礼いたしました」とラシードの前を辞した。
燃え盛る怒りを、その胸の打ちに抱いたまま。
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「ったく、何を考えているんだ。これで何度目だと思ってるんだよ!!」
低く小さな声でそう毒づき、ギリッと奥歯を噛み締めて、サーディクは今出てきたばかりの部屋の扉を睨みつけた。彼とラシードは、幼馴染みの間柄である。ラシードの母とサーディクの母は従姉妹という間柄で、二人とも同じ頃に嫁ぎ、そして同じ頃に子供を生んだ。その縁で最初は遊び相手として王宮にあがったサーディクだったが、読み書きを習う年になると学友へとその立場が変化した。
もちろん勉強だけをしていたわけではない。
ラシードが正式に王太子となる前も、なった後も、お忍びで城下へ何度も行った。
女遊びを覚えたのも、確かその頃だ。
バン――と、勢いよく宰相執務室の扉を開けると、穏やかな声が彼を出迎えてくれた。
「お帰りサーディク。ご苦労だった」
「宰相殿」
ただ今戻りました――と、サーディクは頭を垂れる。
「陛下のご様子は?」
その問いかけに、彼はゆるりと首を振った。それを見て老宰相スハイルは真っ白な顎鬚を撫で付けると、やれやれと呆れたように溜息をつく。王の王妃への無関心ぶりには、宮廷内一温厚と言われているスハイルでも、顔を歪めずにはいられなかった。幾度となくその態度を改めるよう諫言するものの、王はふっと鼻で笑うだけでスハイルの意見など右から左へと流してしまうのだ。
「陛下は王妃様をどうなされたいのでしょうか? このまま放っておけば、あの方は間違いなく命を落とされます」
サーディクの声は苦しげで、酷く重い。それもそのはず……あと半日遅ければ、マシェリラは助からなかったかもしれないのだ。それほど今回の毒は強かった。
「宰相殿、そんなに魅力的な女性だったのですか? その……王妃様の姉王女という方は?」
眉宇に皺を寄せ、首を傾け問いかける補佐官に、宰相は双眸を細め「そうさのぅ」と呟いて顎鬚を撫でる。
「お会いしたことはないが、タハミーナ王女はスファールの宝石と謳われるほどの美姫だそうだ」
「スファールの宝石……そうですか。王妃様の姉君であれば、そう呼ばれてもおかしくありませんね」
昨年サーディクは王の名代として、スファール王国第二王女レスミムの立太子式に外務大臣とともに出席をし、その際、僅かな時間ではあるが彼は王女と対面する事ができた。レスミムは国を背負う立場となったため、スファールの王族女性のしきたり――ヴェールを被り顔を隠す事をしていなかったので、サーディクは間近で彼女の顔を見ている。儀式が終わり安堵したのか、姿勢を崩して椅子に座っていたレスミムは、マシェリラとは異なる趣きの美姫であった。
幼い頃から帝王学を学んでいるからか、女性らしくない話し方をするものの、黒く大きな瞳が理知的でとても 印象的だった。だから解るのだ。容易に想像できるのだ。二人と同母姉であるタハミーナの、宝石と讃えられる美しさを。
「陛下はいつ、タハミーナ様のことを?」
「私も詳しくは知らぬが、王太子時代にスファールを訪問された際、かの王女を見たと聞いておる」
「王女を? ですがスファールの王族の女性は、夫や親兄弟以外には顔を見せない風習があると聞いています。それなのにどうやって?」
首を捻る己が後継者に、スハイルはふふんと鼻を鳴らした。
「そなたらの得意分野であろう? 女人に言い寄り、誰にも見つからないようコトに至るのは」
「は?」
一瞬、スハイルの言った意味が解らなかった。ポカンと大口を開け、サーディクはまじまじと上司を見る。が、暫くして漸くその意味を悟り、あわあわと口を開閉し「昔の事です!!」と、顔を真っ赤に染めて言い訳をする。それを見て、老宰相は愉快げに喉を鳴らした。どうやらラシードはスファール王宮の女官をたらしこみ、彼女と密会している時に偶然タハミーナ王女の顔を見たようだ。一国の、しかも大国といわれる国の後継者がする事ではない。
「陛下にとってタハミーナ王女以外、どうでも良いのだろう……」
故に王妃様が命を狙われようと、それは陛下にとって瑣末な事でしかないのだ――と、スハイルは嘆息する。
「そんな……」
サーディクの脳裏に、マシェリラの顔が浮かんだ。
いつも何かに怯えているような……そんな目をしている。
笑ったらとても可愛いだろうに、彼女はいつも泣きそうな顔をしているのだ。
それもこれも、全てラシードのせいだ。
ラシードがいけないのだ。
「ふざけるな」
グッと拳を握り、サーディクは口中で低く唸る。
彼はラシードが動かないのであれば、自分が動こうと思った。
その権利が、自分にはあるのだから。
「宰相殿」
「何かな?」
「用事を思い出しました。今日はもう帰ります」
「む?」
失礼いたします――と、サーディクは軽く頭を下げると、くるりと踵を返し足早に宰相室から出て行った。一人室内に残されたスハイルは、サーディクが出て行った扉を見ながら顎鬚を撫でる。
「無茶だけはなさるなよ……東の公子殿」
ふっと目もとを和らげそう呟くと、机の上の小鐘に手を伸ばし、チリンとそれを鳴らした。隣室から入ってきた侍童に、喉が渇いたからとお茶を持ってくるよう頼んだ。