(1)身代わり
王国建国時からガジェンドラ国王の後宮には、美しい女人が数多住んでいた。
一番女人の数が多かった王は、今から二百年ほど前のラーセス三世である。彼には二人の正妃と三十六人の側妃がいた。だが、その他にも彼が手をつけた宮女や女奴隷がおり、その数は五十人とも百人とも言われている。
王に気に入られ、何度も閨の相手をし、子を孕み側妃となった者も中にはいるのだが、殆どは一夜限りであった。望んで純潔を捧げた者もいれば、無理矢理散らされた者もいて、後者の中には北の小塔から身を投げた者が多くあった。それ故、入り口が封鎖され、ここには今でも入る事ができない。
現ガジェンドラ国王ラシードの正妃は一人だけだが、彼には側妃が二十数名いる。己が一族の繁栄のために――と、あがった貴族の姫君もいれば、己が国のために――と、あがった外国の王女もいる。王を慕っての事ではない。何かしら目的があって、皆、王の側妃となった。
子を作るのは王の仕事である――と、ラシードはそう考えており、そのため側妃の秘所に子種を注ぐ行為に対し、彼は何の感慨もなかった。単なる作業でしかなかった。それ故、王の“寵”を得ている側妃は、一人もいないと言っていいだろう。
愛などという感情は、そこにはひとかけらもないのだ。義務でしかなかった。
女達の住まう後宮は、二つの棟から成っている。
入り口である大門から入るとすぐに、蓮花が浮かぶ大きな噴水があり、そこから西翼と東翼とに別れていた。西翼には王の祖母や母や姉妹が、東翼には王妃や側妃達が住んでおり、王妃の間は東翼の中央にあって一番大きな面積を有している。だが現在、ここは半部に分けられ、それぞれ側妃に与えられていた。そして本来の主である王妃は東翼のもっとも奥にある、元は宮女達が使っていた部屋へと移されていた。王命で、である。
ラシード王は己が唯一の正妃であるマシェリラを、酷く厭っていた。
どうしてか? 答えは簡単である。彼女がガジェンドラ王妃になるはずではなかったからだ。ラシードが望んだのは彼女ではなく、マシェリラの姉――スファール王国第一王女タハミーナだった。だが、彼女には密かに想う相手がいた。誰もそれに気づいておらず、王女の恋は密かに育まれていった。
王女の恋が露見したのは、婚儀を三日後に控えた日の朝だった。
忽然と、彼女は姿を消したのだ。自身の護衛騎士と共に………。
部屋に残されていた両親へ宛てた詫び状には、どうか探さないでほしいと結んであった。
ガジェンドラは大国だ。力でも財力でも、スファールはこの国に適わない。父王はラシードに平謝りし、面子を潰されたラシードは激昂した。けれど彼は個人的な感情で、戦を仕掛けるほど愚かではなく、どうしてもスファールの王女と結婚する必要があり、タハミーナが出奔したからといって止めるわけにはいかなかった。彼女には妹が二人いる。そのどちらかを代わりに差し出すよう、ラシードはスファール王に言った。順番で言えば第二王女なのだが……彼女は婿を家臣の中から迎え、女王として国を治める事が幼い頃より決まっていたので、末っ子である第三王女マシェリラが姉にラシードに嫁ぐ事となった。
身代わり――である。
婚儀のその日まで、タハミーナが来るものだと思っていたガジェンドラの貴族達は、マシェリラである事を知るとたいそう驚いた。そして王の、王妃に対する冷淡過ぎるほどの態度に、彼が彼女を軽んじているのを覚る。初夜に妻の部屋を訪れなかったとなると尚更だ。その後も、である。結果、婚儀を挙げて一月もたたないうちに、後宮には次々と貴族の姫君があがった。
だが、部屋の数には限りがある。
三代前の王の時代に、後宮は火災により焼失してしまった。再建はしたものの、当時は財政難であったので、以前よりも規模は縮小されてしまった。そのためラシードの父も祖父も、西翼にも側妃を住まわせたのだが、ラシードはそうではなかった。彼は東翼の部屋数分だけしか、側妃を持たなかった。西翼に側妃を入れる事はしなかった。
だが、末席ではあるものの、隣国の王家の娘が後宮に入る事が決まり事態は変わった。
彼女の身分に相応しい部屋が無かったのだ。
そこで王命により、王妃を物置となっていた奥の部屋へと移し、王妃の部屋を二つに分けて、その一つをその姫君に与えた。
それは王が王妃を厭っている、確固たる証拠となり、マシェリラを貶めるのには充分だった。
「王妃様ぁ……」
げえげえと嘔吐する主の背を擦りながら、侍女のハナンは零れそうになる涙を懸命に堪えた。
「だ、大丈夫よ……ハナン……」
「すぐ医師を呼んでまいります」
立ち上がったハナンの腕を、マシェリラは素早く掴んだ。そして力なく首を左右に振る。それを見て、ハナンの唇が戦慄いた。
「もう大丈夫……大丈夫だから、余計な事はしなくていいわ」
「ですがっ……」
「ハナン」
お願い――と、ぎゅっとハナンの腕を掴む手に力を込めた。そしてもう一度、首を左右に緩く振る。悔しそうに唇を噛み締めるハナンに、マシェリラは悲しげに微笑むと、よろめきながらもゆっくりと立ち上がった。手巾で口もとを拭い、差し出されたグラスの中の水で口中をすすぐ。
今日が初めてではない。
何度も命を狙われている。
犯人は誰なのか……それは今でも判らない。
同一人物なのか、それとも別人なのか……調べようにも、マシェリラにはどうする事もできないのだ。
今この国で、この後宮で、彼女が頼れるのは侍女であるハナンただ一人なのだから。
「やはり陛下にお知らせした方が……」
「止めて!!」
大きな声に、ハナンの体がビクリと跳ねる。マシェリラはおっとりとした性格で、話し声も早さも優しく静かだ。その彼女が鋭く叫んだのだから、驚かない方がおかしい。
「ごめんなさい……驚かせてしまったわね。あのね、ハナン。陛下に言ったところで、あの方は信じてくださらないし、例え信じてくださっても、何もしてはくださらないわ。今迄だってそうだったでしょう? それに他の側妃に、陛下の気を惹きたいための狂言だと、口汚く罵られるでしょうし……」
「王妃様……」
隅へと追いやられたマシェリラの存在は、日に日に忘れ去られていった。
本来、彼女がしなくてはならない公式行事も、昨年第一王子を生んだ側妃の一人であるキセラが多く務めている。おそらくその頃からだろう、本格的にマシェリラの命が狙われるようになったのは。
彼女さえいなければ、王妃の地位につける姫は後宮に数多いる。たとえ子を成していなくとも、己が娘が王妃になれば、権力を握る事ができる――そう考えた親達が、邪魔者であるマシェリラを消そうと動いているのだろう……食事やお茶に強い毒が混ぜられたり、頭上から花瓶や物が落ちてきたり、馬車の車輪の螺子が緩められたりした事が何度もあった。それでも今日までどうにか切り抜け、マシェリラは生き延びてきた。
「種類が変わったみたいね。依頼相手を変えたのか……それとも使う毒薬を変えたのか……どちらかしら」
真っ青な顔で小さく笑って、マシェリラはハナンの肩を借りて長椅子に横になると、深く息を吐き出した。だらだらと、額から汗が流れるのが不快で、ドレスの袖口でそれを拭う。
「ハナン」
「はい」
「わたくしといては、貴女も危ないわ……。実家にお戻りなさい」
「い、嫌です」
「ハナン……」
「わた、わたくしは、兄から王妃様を守るよう言いつかりました。だから絶対にお傍を離れません!!」
「ハナン……」
スファールから連れてきた侍女は、もう、ハナン一人しかいない。皆、最初は冷遇されるマシェリラに同情してはいたものの、彼女への嫌がらせが始まると、巻き添えを食うのが嫌で次々と暇を願い出たから。
だがハナンは、兄ナヒードと約束をしていた。絶対にマシェリラの傍を離れるな――と、兄に強く言い含められている。だが、兄と約束したので残っているわけではない。主であるマシェリラが心配だから、ハナンは今もここに居るのだ。少しでも力になれたら――と。
ハナンは本来、傅く側ではなく、傅かれる側なのだ。彼女の実家は代々、宰相や副宰相を務めている。彼女の兄であるナヒードとマシェリラは、彼女の祖母である前スファール王妃の遺言により、マシェリラが成人したら結婚し夫婦となるはずだった。そんな遺言がなくても、家柄的に彼女の夫に一番近い場所にナヒードはいたので、時期がきたら自然とそうなっていたのだが、遺言のおかげで幼い頃に婚約が整ったのだ。
だが、その成人の儀を迎える十日前に、タハミーナが駆け落ちをした。
そして彼女の代わりに、マシェリラがラシードに嫁ぐことになってしまった。
花嫁を奪われたナヒードはどうなったのかというと、昨年財務大臣の末娘を妻に迎えた。政略結婚である。だが夫婦仲は良いそうで、奥方は現在第一子を妊娠中であった。
「わたくし、兄にこの事を知らせます。ええ。ええ。絶対に知らせます。そして兄に、王妃様を助けていただきます」
目に涙をいっぱい溜め、訴えるようにそう言ったハナンに、マシェリラは「そんな事をしてはいけないわ」とハナンを諌めた。
「ナヒード様の奥方は、あともう二月もすればお子が生まれるのでしょう? わたくし如きの事で、あの方を煩わせないでほしいの。お願いよハナン」
「でもっ」
「ハナン」
「……」
悔しそうに唇を噛むハナンに、マシェリラは弱々しく微笑むと、少し眠ると言って目を閉じた。すぐに寝息が聞こえてきて、ハナンは薄掛けを寝所から持ってくると、青白い顔色をしている彼女の体の上にそっとかけた。