第三話「お菊」
物影に一人の男がいた。
数分ほど前に厠から出てきた彼は、庭でカオルとキキョウが話し込んでいることに気づき、物影に立ち止まり、聞き耳を立てて会話を聞いていたようだ。二人は、全く気付いていない様子だった。
キキョウは、何かを言おうとして思いとどまったが、続けた。
「でも──いいえ、こんな事を君にいっても仕方がないです。気にしないで……」
カオルは一瞬気になったようだったが、ふと何かを思いついたように口を開いた。
「そういえば、夕飯の時から考えてたんだけど……、どうしてお菊様はあんなに幸せそうなの?」
その言葉が意外だったのか、キキョウは目を少し大きく開いた。
「幸せそう?」
「うん。いや、声が出ないのに……ちっとも悲しそうになんか見えなかったもの。キキョウさんがいるから?」
さらに目を開いたキキョウは、何かを考えたようにパチクリと瞬きをした。しかしすぐに、いえ、と目を閉じた。
「おそらくそれは……ご両親の存在ではないでしょうか。ずっと仕えておられる先代の使用人からお聞きした事があります。お菊様は声がでない。当然、生まれた時の産声もなかった……。最初は死んでいるのかと思ったそうです。しかしよく見ると、お菊様は必死に声を出そうと口を開けておられていたのです。そんなお菊様を見て……ご両親は決心なされたのです。何としてでも幸せにしよう、声が出ない分、幸せにしてあげよう──おそらくですが、そんな二人の存在こそが、彼女にとって幸せなのです」
カオルは信じられないといった様子で、彼の話を聞いていた。知らなかった、という風に呟いた。
「そんな……そんな親もいるんだ……」
物陰から歯を食いしばる音が小さく聞こえたが、二人には聞こえなかったようだ。その男はグッと拳を固めた。
「辛い事があったんですね」
キキョウの言葉に、カオルは悲しそうな表情で頷いた。それをじっと見つめていたキキョウは、思い出したように言った。
「そうだ、事情がどうあれ、一つお聞きしたいんですが、あなたに大事な人は?」
カオルが目を瞑ると、その表情に苦しさがあらわになった。キキョウが最後に一言付け足した。
「……そのほうが、きっと強くなれますよ」
「そうなのかな」
「ええ。きっとそうです。……では私はもう少し仕事があるので。おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
「何としてでも幸せにしよう。声が出ない分、幸せにしよう」
その五拾郎の言葉がずっとカオルの胸に響いていた。布団にもぐりこんでから、さっき聞いた事ばかり頭によみがえり、どうしても思い出してしまう。彼は布団を顔までかぶって下唇を噛んだ。
良いなぁ……うらやましいなぁ……。そう、思った。
だがその直後、襖が勢い良く開け放たれる音を聞いた。
開いた襖から、見知らぬ男の顔が見えた。
「やっと見つけたぞ……」
彼がそう言った──ところでカオルは気がついた。
「幻……!? 違う、あっちだ……」
完全に目が覚めた彼は、部屋を飛び出し、音の元へと向かった。屋敷の中も騒々しくなってきたらしい。異変に気づいた人たちが起きだしてきた。
廊下の角を曲がると、カオルは思わず呟いた。
「どういうことだ……?」
キキョウと木原だった。二人が対峙し、にらみ合っている。腰の刀に手をかけているキキョウは怒りに燃えていた。刀をキキョウに向けている木原の傍には、お菊が震えていた。
「お菊さま!?」
そうカオルが気づいた瞬間だった。キキョウが動いた。刀を鞘から払う。木原も瞬時に反応し、それを刀で受け止める。刀と刀の擦れる音が響く。キキョウがずっと抱えていた思いを爆発させたように怒鳴った。
「どういうことだ!!」
「ちぃ……」
次回予告:木原暴走!! 一体なぜ…!?




