第二話「筑波子キキョウ」
その食卓に居合わせた全員があんぐりと口を開けていた。口を必死に動かす音が居間中に響いていた。
「……すごいな」
物凄い食欲で次々と目の前のご飯を平らげていくカオルを見て、一人の男が呟いた。
「オレも腹が減って倒れていたが……ここまでは」
長い前髪を二つに分けている彼は、昨日この屋敷の近くで行き倒れていた木原という男性だった。キキョウが苦笑いを浮かべながらカオルに聞いた。
「カオルくんは、ずっと食べていなかったのですか?」
ご飯を頬張りながらカオルはうなずく。少し落ち着いたようだ。だがそれでも食べ足りないようで、まだ箸は動いている。それを見た木春五拾郎は声を上げて豪快に笑った。
「はっはっは。良い食べっぷりだぞ少年! まさに食べ盛りだな──ほら、お菊もお食べ」
そう言って、隣に座っていたお菊を促した。彼女はカオルを微笑を浮かべながら見つめていたが、五拾郎の方を向いてコクリと頷いた。それを横目で見ていたカオルは、キキョウに問いかけた。
「……なんでお菊さまはしゃべらないの?」
キキョウは、少し顔に陰を落としてお菊を見た。
「違うんです。お菊様は……声が出ないんです」
その言葉に、カオルの手も止まった。お菊に目を向ける。
「え……声が?」
「そう……。生まれた時からです」
「へぇ……」
キキョウは、目を細めてお菊を見つめていた。カオルは再び箸を持つ手を動かし始めた。
屋敷の土塀の上をよじ登っている人影があった。満月の夜である。真夜中を過ぎたくらいの時刻だったが、真ん丸い月の明かりで辺りはぼんやりと明るかった。ちょうど、最後の見回りをするために屋敷内を回っていたキキョウが通りがかり、その人影を見た。一瞬顔を強張らせ腰の刀に手を掛けたが、その正体が分かると息をゆっくり吐いて静かに口を開いた。
「こんな遅くに何なさっているんですか」
人影がビクっと震えた。つばを飲む音が聞こえてきた。
「!……キキョウさん。……あんたらに迷惑はかけられないよ」
カオルのその言葉を聞いて、キキョウは少し驚いたような顔をした。
「迷惑? 大丈夫ですよ。むしろ大歓迎なのに」
カオルは捕まっていた壁からサッと飛び降りた。砂利を踏む音が、寝静まった屋敷からは大きく聞こえた。カオルは暗い表情で言った。
「いや……、そういう事じゃない。実を言うと……僕は追われているんだ」
それを聞いても、キキョウは大して驚いた様子を見せなかった。
「一体どうして?」
「それは……」
言いよどんだ彼を見て、キキョウは思った。空腹で行き倒れてる人の事だ。どんな事情があるかも分からない。しかしこんな小さな少年が……一体何を? 少し気になったが、彼は何も言わずにカオルを諭した。
「まぁ、聞かないでおきましょう。さぁ、おやすみなさい」
「うん……」
そう頷いたものの、少し落ち着きのない彼を見たキキョウは数秒考えると、そうだ、とそばの石に座った。ひんやりと冷たい。ちょうどその時、厠から出てきた一人の男が、庭でカオルとキキョウが話していることに気づき、物影に隠れた。キキョウはそれには気づかず、続けた。
「その様子だと寝れないんでしょう。ちょうど私も目が冴えてきました。暇つぶしになるか分からないですが……私の話でもどうですか」
「キキョウさんの?」
「そう──」
キキョウは話し始めた。
彼には親がいなかった。いないというより、彼が五歳の時に病で倒れ、亡くなってしまったのだ。他に身寄りがいなかったため、それから彼は道端での生活を余儀なくされていた。唯一の生活の当ては、木春五拾郎のこの屋敷から出される残飯だった。それを毎日のように食べていては、ぎりぎりの生活を送っていた。
クスリと少し笑って、キキョウは続けた。
「そんな私を、お菊さまがある時こっそり屋敷の中に誘い込んでくださったのです。夜にこっそりとね。その後も、何度も私を屋敷に迎え入れてくれました。ええ、気づかれないように──あの時の私からすれば物凄く楽しかったんです。それで、私は毎日のようにここに忍び込んではお菊様と遊んでいました」
そしてある時、屋敷の主である五拾郎が、ここで使用人として生きないか、と彼に言った。五拾郎は知っていたのだ。二人が毎日密かに遊んでいた事を。
「嬉しかった……!」
キキョウはそこまで話し終えると、顔全体に微笑を浮かべていた。そして少し傾き始めた満月を仰いだ。少し、雲が被ってきた。
「初めてお菊様と遊んだのも、こんな満月の夜だったんです」
「へぇ……。だから思い出したんだね」
「えぇ。それに君が塀をよじ登っていたものだから、余計にね」
キキョウは、一呼吸置いてニッコリとカオルに笑いかけた。
「今思うと、本当にお菊様は私の命の恩人です」
次回予告:回想する思い出……!その時カオルは?




