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一話 まだ何も知らない

一話 まだ何も知らない


「人は、どうして笑うのだろう」。

楽しいから?嬉しいから?面白いから?

きっと、教科書に載せるならそんな答えになるのだと思う。

けれど、笑う理由が必ずしもそうとは限らない。 誰かを安心させるために笑う人もいる。

その場の空気を壊さないために笑う人もいる。

そして、何も聞かれたくないから笑う人もいる。

高校二年生の水瀬栞(みなせ しおり)は、よく笑う女の子だった。

勉強が特別得意なわけでも、運動がずば抜けてできるわけでもない。

どこにでもいる、ごく普通の女子高校生。


  ただ、笑うこと。それだけは昔から得意だった。

「ねえ、栞。聞いてる?」

目の前でひらひらと手を振られ、栞は顔を上げた。

「聞いてる。聞いてる。昨日のドラマの話でしょ?」

「違う! 来週の小テスト!」

「ああ、そっちね。大丈夫、私の人生に小テストなんて些細な問題だから」

「いや、前回赤点だった人が何言ってんの」

「過去に囚われない主義なの」

森川千夏(もりかわ ちなつ)が呆れたように笑った。

千夏は栞と同じクラスで、一年生の頃からの友人だった。

肩につくくらいの髪をいつも綺麗に整え、制服のリボンを少しだけ緩めている。表情が豊かで、嬉しいことも腹が立ったことも、隠そうとしない。

思ったことをすぐ口にする千夏と、思ったことほど口にしない栞。

性格は正反対だったが、不思議と気が合った。

「そういえばさ、今日の生物の授業、意味わかった?」

「どのへん?」

「最後のやつ。細胞がどうとか」

「あー、あれね」

栞は、わざとらしく深く考えるふりをしてから、真顔で答えた。

「全然かな」

「だと思った!」

二人の笑い声が、昼休みの教室に溶けていく。 窓際の席には午後の陽が差し込み、机の上に置かれた消しゴムの影を長く伸ばしていた。

栞はこういう時間が嫌いではなかった。むしろ、好きな方だと思う。

誰かと話している間は、余計なことを考えずに済む。

「ていうか、高瀬(たかせ)先生って何歳なんだろうね」 千夏が唐突に言った。

「え、何?千夏、先生狙ってんの⁉」

「違うって! なんか年齢不詳じゃない?」

「確かに。三十歳にも四十歳にも見える」

「四十歳はちょっと失礼すぎるでしょ」

「じゃあ三十五歳」

「刻んだね」

栞は笑いながら、窓の外へ視線を向けた。

高瀬悠一(たかせ ゆういち)。

今年から栞たちのクラスで生物を担当している教師だった。

背が高く、細身で、いつも白衣を着ている。黒縁の眼鏡の奥にある目は、どこか涼しげで、授業中も必要以上に声を張り上げることはない。

生徒に媚びることもなければ、無闇に叱ることもない。

淡々と授業を進め、時折、教科書には載っていない話をする。

栞にとっては、まだそれだけの存在だった。

「でもさ、今日の授業でちょっと気になったことがあって」

「栞が? 生物で?」

「その驚き方、失礼じゃない?」

「だって珍しいじゃん」

「私だって知的好奇心くらいありますけど」

「はいはい。それで?」 栞は少し考えた。

今日の授業で、高瀬が最後に口にした言葉。

『生き物は、環境に適応しながら生きています』

当たり前のことのように聞こえた。けれど、どうしても引っかかる部分があった。

適応できなかった生き物は、どうなるのだろう。

「……いや、やっぱ何でもない」

「何それ」

「ちょっと気になっただけ」

栞は笑って、机の上の教科書を閉じた。

千夏もそれ以上は聞かなかった。

栞がこうして話を途中でやめることは、珍しくないからだ。


*

 放課後の廊下は、昼間とは別の建物のようだった。

部活動へ向かう生徒たちの声が遠ざかるにつれて、校舎は少しずつ静かにひんやりと肌寒くなっていく。

栞は鞄を肩に掛け直し、理科室の並ぶ廊下を歩いていた。

別に、今日でなくてもよかった。

次の授業で聞けばいいし、そもそも質問するほどのことでもない。 そう思いながらも、足は生物準備室の前で止まった。

扉には、色褪せた年季を感じさせる白いプレートが掛かっている。

『生物準備室』

栞は二度、軽くノックした。

「はい。」

低く、落ち着いた声が返ってくる。

「失礼しまーす!」

扉を開けると、独特の薬品の匂いと、古い紙の匂いが混ざった空気が流れてきた。 壁際には図鑑や標本が並び、窓際の棚には名前のわからない植物が置かれている。

部屋の奥で書類を整理していた高瀬が顔を上げた。

白衣に眼鏡。

授業中と何ら変わらない姿だった。

「水瀬か。どうした?」

「先生に質問がありまして」

「珍しいな」

「失礼ですね。私だって勉強くらいしますよ」

「そうか。それは失礼した」

悪びれた様子もなく、高瀬は手元の書類を揃えていた。

栞は少しだけ頬を膨らませる。

「先生って、もうちょっと生徒を褒めた方がいいと思います」

「まだ何も質問されていないのだが」

「質問しに来たことを褒めてください」

「偉いな」

「棒読み!」

思わず声を上げると、高瀬の口元がほんの少し緩んだ。笑った?のだろうか。

その眼鏡からは、いまひとつその表情は読み取れない。

「それで、質問は?」

「あ、そうでした」

栞は近くの椅子に鞄を置きかけ、慌てて鞄を持ち直した。「今日の授業で、生物は環境に適応しながら生きるって言ってたじゃないですか」

「あぁ」

「適応できなかった生き物って、どうなるんですか?」 高瀬はペンを置いた。

「場合によるな。移動できるものは環境を変えることもあるし、世代を重ねる中で適応が進むこともある。ただ、適応できずに個体が死んだり、種が絶滅したりする場合もある」

「じゃあ、頑張っても無理なことってあるんですね」 何気なく口にした言葉だった。

けれど、高瀬はすぐには答えなかった。

栞はその沈黙に気づき、慌てて笑った。

「いや、なんか暗いですね! 生物ってもっと夢のある教科かと思ってました」

「夢はあると思うが」

「え、どこにあるんですか?」

「生き物は、必ずしも一つの環境で生き続ける必要はない」 高瀬は窓際の植物に目を向けた。

「環境を変えることで生きられるものもいる。だから、今いる場所に適応できないことと、生きられないことは同じじゃない」 栞は黙った。

別に、自分のことを話していたわけではない。高瀬も、きっと授業の延長として答えただけだろう。それなのに、その言葉が妙に耳に残った。

「……先生?」

「ん?」

「それ、生物の話ですよね?」

「生物の質問をしに来たんじゃないのか?」

「あぁ、そうでした」

栞は笑った。いつも通りに。少し大げさなくらいに。

「先生、真面目すぎません?」

「質問に答えただけだろう」

「もうちょっとこう、ロマンチックな、夢のある答えとかないんですか?」

「生物に何を求めてるんだ」

「夢と希望です」

「教科を間違えている気がするな」

「ひどい!」

準備室に栞の笑い声が響いた。

高瀬は呆れたように小さく息を吐き、再び書類へ視線を戻した。それを見て、栞もそろそろ帰ろうと思った。

「じゃあ先生、ありがとうございました」

「ああ。気をつけて帰れよ」

「はい。先生もちゃんと帰ってくださいね。ここに住んでそうなので」

「住んでない」

「本当ですか?」

「帰りなさい」

「はーい」

扉を閉める直前、栞はもう一度だけ振り返った。

高瀬はすでに書類に目を落としていた。

何かを言いかけたが言おうとして、やめた。

そのまま静かに扉を閉めた。


*

 廊下に出ると、窓の外はすっかり夕暮れに染まっていた。

栞は階段を下りながら、先ほどの会話を思い返していた。

『今いる場所に適応できないことと、生きられないことは同じじゃない』「変な先生」。

普通なら、もっと教科書らしい説明をして終わると思う。もっとも、あれも十分に生物の説明だったのかもしれない。栞は自分の考えに小さく笑った。

先生が自分のことを理解してくれた、なんて大げさなことは思わなかった。

そもそも、何も話していないのだから。ただ、質問に対する答えが、思っていたものと少し違った。

それだけだった。

校門を出ると、冷たい風が頬をかすめた。

スマートフォンには千夏からのメッセージが届いている。

『今日の小テストの範囲送って!』 栞は歩きながら返信した。『私に聞く勇気を褒めたい』 すぐに返事が来る。

『いいから送って笑』

栞は声を出して笑った。

そして、ふと思った。

明日も、あの先生に質問してみようか。

いや、さすがに二回は迷惑だろうか。それに、聞きたいことなんて特にない。

栞はスマートフォンを鞄にしまい、夕暮れの道を歩き出した。


*

  生物準備室では、高瀬がようやく書類を片づけ終えていた。

窓の外は薄暗くなり始めている。

帰り支度をしようと立ち上がったとき、先ほどの生徒の質問を思い出した。

『じゃあ、頑張っても無理なことってあるんですね』 少し妙な聞き方だった。

授業の内容を確認したかっただけなら、あんな言葉にはならなかったかもしれない。

もっとも、高校生の何気ない一言に、いちいち意味を探すのもおかしな話だ。

高瀬は机の上のペンを筆箱にしまった。

よく喋る生徒だった。

冗談ばかり言って、こちらの返事にもいちいち大げさに反応する。

それでも、質問をしている間だけは、妙に真剣な顔をしていた。

高瀬は窓際の植物に水をやり、部屋の電気を消した。

廊下へ出る前に、もう一度だけ室内を振り返る。

先ほどまで水瀬栞が立っていた場所には、もう誰もいない。

当然のことだった。

高瀬は扉に鍵をかけた。

明日になれば、またいつもの授業が始まる。

それだけのことだ。

彼にとって、その日は何の変哲もない一日のはずだった。

少なくとも、そのときはまだ。



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