「花冠は聖女が編むもの、あなたには無理でしょう?」と嗤われた私、実は花精霊に愛された唯一の花冠使いなのですが~婚約破棄された悪役令嬢、春の儀式で王国を救うことになりました~
「フローディア、貴様との婚約を破棄する」
春の儀式の前夜。大聖堂の花園に、王太子レオンハルトの声が高らかに響いた。
月明かりに照らされた白い薔薇のアーチの下で、彼は勝ち誇ったように私を見下ろしている。
「真の聖女はミレーユだ。花冠は聖女が編むもの――お前のような土いじり令嬢に、女神の祝福が宿るものか」
彼の隣で、蜂蜜色の髪をふわりと巻いた男爵令嬢ミレーユが、口元に手を当てて嗤う。
「あら、可哀想。花冠のひとつも編めない人が公爵令嬢だなんて」
花冠のひとつも、編めない人。
私は静かに睫毛を伏せた。
(――そう。ではどうぞ、ご自分で編んでみてくださいませ)
心の中でだけ、そう返す。
もちろん、誰にも届かない。届ける気もない。
足元の花壇では、夜露に濡れたアネモネが、そっと私のほうへ首を傾けていた。まるで「行かないで」とでも言うように。
私は指先で、そっとその花びらに触れる。しおれかけていた花が、ふ、と息を吹き返して背を伸ばした。
「……何をこそこそしている」
レオンハルト様が苛立った声を上げる。彼にはきっと、私がただ花壇をいじる惨めな女に見えているのだろう。
それでいい。
私は裾を摘まみ、完璧な淑女の礼をした。
「かしこまりましたわ、殿下。婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」
「な……」
泣いて縋るとでも思っていたのか。レオンハルト様の顔に、初めて戸惑いが差した。
「では、明日の儀式の役目も降ろさせていただきます。花冠は――どうぞ、真の聖女様がお編みくださいませ」
ミレーユの潤んだ瞳が、勝利の色に輝く。
「まあ、聞き分けのいいこと。せいぜい公爵領で花いじりでもしていてくださいな」
「ええ。そういたしますわ」
私は微笑んだ。
この夜、私は知っていた。
――明日、あの人は、花冠を編めない。
なぜなら花は、傲慢な者の手では咲かないから。
そっと耳元で、鈴を転がすような、あどけない声が囁いた。
『明日、あの子は編めないよ』
私は答えない。ただ、風に揺れる花たちに、そっと別れの微笑みを返した。
◆
馬車に荷を積み込みながら、私は前世のことを思い出していた。
現代日本。花農家の娘だった私。
朝は暗いうちから出荷の準備、日中は炎天下の畑、夜は伝票の山。休みなんて盆も正月もなかった。
「あの子は花いじりが好きだから」
そう言われて、いつの間にか全部を背負わされて。断ることを覚えないまま、ある日、私は温室でぱたりと倒れた。
――そして、目が覚めたら、この世界の赤ん坊になっていた。
アッシェンフェルト公爵家。何不自由ない令嬢。
なのに私は、また同じことをしていた。
「地味な令嬢」と嗤われても、儀式の下働きを押し付けられても、王太子の無関心に耐えても。
期待に応えなきゃ。我慢しなきゃ。波風を立てちゃいけない。
そうやって、前世も今世も、自分をすり減らしてきた。
「お嬢様」
侍女のセラフィナが、そっと膝掛けを差し出してくれる。
「よくぞご決断なさいました。……わたくし、ずっと歯痒うございました」
「セラフィナ」
「お嬢様の花は、他の誰の花とも違います。それを、あの方々は一度も見ようとなさらなかった」
実直な彼女の瞳が、珍しく潤んでいる。
私は窓の外を見た。公爵領へ続く、月夜の街道。
ふと、心の奥で何かがほどけた。
「――もう、やめますわ」
「お嬢様?」
「期待に応えるために我慢するのは、もう、やめますの。私は私の花畑で、好きに生きます」
口に出したら、驚くほど胸が軽くなった。
前世で言えなかった言葉。「もう無理です」「休ませてください」「私だって好きに生きたい」。
その全部を、今、ようやく取り戻した気がした。
「ええ。ええ、それがよろしゅうございます」
セラフィナが深く頷く。
『いいの? 行っちゃって』
耳元で、あの小さな声がした。花精霊――と、いつからか呼ぶようになった、私にだけ聞こえる声。
私は微笑んで、心の中で答える。
(いいのよ。私はもう、誰かのために咲くのはやめたの)
『ふふ。でもね、花はきっと、あなたを呼ぶよ』
その言葉の意味を、私はまだ知らなかった。
馬車は、静かに夜道を進んでいった。
◆
翌朝。春の儀式当日。
大聖堂の中央、女神像の前で、ミレーユは自信満々に微笑んでいた。
祭壇には、儀式のために摘まれた色とりどりの花々。
花冠を編み、女神へ捧げる。それだけで、一年の豊穣と、魔物を退ける光の結界が国を包む――はずだった。
「では、聖女ミレーユよ。花冠を」
大司教の声に、彼女はうやうやしく花を手に取った。
見物する貴族たち。玉座で満足げに頷くレオンハルト。
ミレーユの白い指が、茎をより合わせる。
――その瞬間だった。
ぱき。
乾いた音を立てて、茎が折れた。
「え……?」
彼女が別の花を掴む。だが、指が触れるそばから、花はみるみる色を失っていく。
瑞々しかった花びらが、茶色く縮れ、ぱらぱらと祭壇に散る。
「い、いや……なんで……!」
手の中で、次々と花が枯れていく。まるで彼女の触れたものすべてを、花が拒むように。
「どうした、ミレーユ! 早く編め!」
レオンハルトが玉座から身を乗り出す。
「編めない……編めないのっ! 花が、勝手に、枯れて……!」
聖堂がざわめきに満ちる。
そして、その時――
地の底から響くような、不吉な地鳴りがした。
聖堂の窓の外、遠く国境の森の方角。
黒い靄が、空へと立ち昇り始めていた。
「け、結界が……張られていない!」
誰かが叫んだ。
祝福は降りなかった。花冠は編まれなかった。ゆえに、魔物を防ぐ光の壁は――ない。
「なぜだ!」
レオンハルトが青ざめて立ち上がる。
「聖女なら編めるはずだろう!? ミレーユ、お前は聖女なのだろう!?」
「わ、私は聖女なのに……! こんなの、こんなのおかしいわ……!」
ミレーユは枯れ花の山に膝をつき、ただ泣き叫ぶだけだった。
花は、嘘をつかない。
傲慢な者を、偽りの者を、花精霊は決して愛さない。
そして――誰も気づいていなかった。
この国で、たった一人、本当に花に愛された者を、昨夜、自分たちの手で追い出したことに。
◆
王都の異変は、街道にまで及んでいた。
私を乗せた馬車は、避難する人々でごった返す道の途中で、ぴたりと足止めされていた。
「お嬢様、王都で何か……」
セラフィナが不安げに窓の外を見る。遠くの空に、黒い靄。
その時だった。
地響きと共に、頭上に巨大な影が差した。
翼を広げた、青灰色の竜。
それが街道脇の草原に降り立ち、背から一人の騎士が飛び降りる。
銀灰の短髪。鋭い氷青の瞳。鍛え抜かれた長身に、竜騎士団の紋章。
『氷の団長』『冷酷無比』と恐れられる――竜騎士団長、アルヴィス・ドラクヴェイン。
彼は、私の馬車の前に立つと。
――片膝を、ついた。
「え……」
セラフィナが息を呑む。国最強と名高い武人が、公爵令嬢とはいえ、街道で跪くなど。
「花冠使い殿」
低く、静かな声だった。
「あなたにしか、この国は救えません」
「……アルヴィス団長。私は、もう儀式の役目を降りました。花冠を編むのは、聖女様のお役目ですわ」
「聖女は花冠を編めなかった」
氷青の瞳が、まっすぐに私を捉える。
「結界は張られなかった。魔物が森から溢れ出している。王都は、もう保ちません」
私は静かに彼を見返した。
「なぜ、私に? 私はただの、土いじりが好きな令嬢ですわ」
すると。
無表情だったはずの彼の頬が、わずかに――赤らんだ。
「三年前。あなたが、王都西の枯れた花園を、一晩で蘇らせたのを、俺は見た」
「!」
「誰も信じないだろうから、言わなかった。だが、俺は見たんだ。あなたが花に囁くと、花が応える。枯れた蔓が、あなたの指先で息を吹き返す」
彼は懐から、そっと何かを取り出した。
――押し花のしおりだった。色褪せた、けれど大切に挟まれた一輪の花。
「これは……その、あの花園の花だ。あなたが蘇らせた」
三年間、この人は、それを持っていたのか。
「あなたこそ、真に花精霊に愛された、ただ一人の花冠使いだ。俺には……わかる」
静かで、不器用で、けれどまっすぐな言葉。
私は初めて、この世界で「見てもらえた」気がした。
遠くの空で、黒い靄が渦を巻いている。逃げ惑う人々の悲鳴。
私は――前世でも今世でも、ずっと我慢して生きてきた私は。
膝掛けをそっと外し、馬車を降りた。
「わかりましたわ」
「花冠使い殿……!」
「ただし、勘違いなさらないで。私は王太子のためでも、あの聖女のためでもなく――」
私は、道端でしおれていた一輪の花に触れた。花は、ぱっと顔を上げて私を見る。
「この子たちが、泣いているから。行きますの」
アルヴィスの氷青の瞳が、わずかに揺れた。
◆
大聖堂に、私は戻った。
扉が開いた瞬間、貴族たちの視線が一斉に突き刺さる。追い出したはずの、地味な令嬢。
「フローディア……!? なぜ貴様がここに」
レオンハルトが青ざめた顔で叫ぶ。彼の足元では、ミレーユが枯れ花にまみれて震えている。
私は何も答えず、まっすぐに祭壇へ歩いた。
枯れ果てた花々。しおれた茎。折れた蕾。
私は、そっと両手をかざした。
「――おはよう。ごめんね、遅くなって」
心からの言葉だった。前世から変わらない、花への挨拶。
すると。
枯れていた花々が、一斉に、私のほうへ顔を向けた。
茶色くしおれた花びらに、みるみる色が戻る。折れた茎がしゃんと伸び、閉じた蕾がほころんでいく。
聖堂中から、どよめきが上がった。
『やっと来たね』
耳元で、あの小さな声が嬉しそうに笑う。
私は指先を躍らせた。
花を選び、より合わせ、編んでいく。前世で数えきれないほど繰り返した、手の記憶。園芸の勘。――いいえ。
これこそが、花精霊の加護だったのだと、今なら少しだけわかる。
たった数分。
女神像すら見惚れるような、完璧な花冠が、私の手の中に生まれた。
「……ばかな」レオンハルトが呆然と呟く。「なぜ、お前が……お前は、花いじりしか能のない――」
私は振り返り、静かに微笑んだ。
「花冠は、花に愛された者が編むもの」
一歩、彼に近づく。
「聖女だから編めるのではありませんの。花に愛されているから、編めるのですわ」
「……」
「――ご存じなかったのですね?」
レオンハルトは、言葉を失った。
私は花冠を掲げ、女神像へと捧げた。
次の瞬間。
祭壇から、まばゆい光が溢れ出した。
光は聖堂を満たし、天へと昇り、王都を包み、国境の森まで――王国全土を、暖かな春の結界が覆っていく。
黒い靄が、悲鳴のように霧散した。溢れ出た魔物が退けられていく。
窓の外、枯れかけていた街路樹が、一斉に花をつけた。
春が、戻ってきた。
聖堂の誰もが、光に包まれて立ち尽くしていた。
そして、その光の中心で。
私はただ、静かに、花たちに微笑みかけていた。
◆
春の儀式の破綻、その顛末は、瞬く間に王国中に知れ渡った。
自称聖女ミレーユ・ロズヴァルト。
『花精霊の加護がある』という彼女の主張は、真っ赤な偽りだったと露見した。花が、彼女を拒んだという動かぬ事実の前に、言い逃れは不可能だった。
ロズヴァルト男爵家は、加護の偽証と王太子誑かしの罪で爵位を剥奪。ミレーユは領地の外れへと追いやられた。
「わ、私は聖女なのに……!」
最後まで、彼女はそう繰り返していたという。
侍女のセラフィナが、後日、しれっと言った。
「聖女様が花冠を『編めなかった』そうですね。まあ、不思議なこともあるものですわ」
実に、いい笑顔だった。
◇
そして、王太子レオンハルト。
真の聖女を、女神の加護持ちを、衆前で追放した愚か者。
王国を魔物の危機に晒した責を問われ、彼は廃嫡寸前まで転落した。
そんなある日。
公爵領に賜った、私の広大な花畑に、彼はやってきた。
かつての華やかな装いはなく、憔悴しきった顔で。
「フローディア……頼む。もう一度、俺と婚約してくれ」
膝をつき、震える声で。
「あの時は、どうかしていたんだ。お前の価値に気づかなかった、俺が愚かだった……! お前がいなければ、俺はもう……!」
私は、剪定ばさみを片手に、花壇の手入れを続けていた。
手を止めもせず、彼を見もせず。
「殿下」
「頼む、フローディア。花冠を……お前にしか編めないんだ。俺のために、もう一度――」
私は、ようやく顔を上げた。
そして、この上なく上品に、微笑んだ。
「あなたに編んで差し上げる花冠は――」
風が、花畑を渡っていく。無数の花が、私のほうへ、そっと顔を傾けた。
「一輪も、ございませんわ」
レオンハルトの顔が、凍りついた。
「花は、正直ですの。傲慢な方の手では、決して咲きません。……ご自分の胸に、お尋ねになってはいかが?」
「そ、そんな……」
「どうぞ、お引き取りを。私の花たちが、嫌がっておりますわ」
足元のアネモネが、ぷいと彼に背を向けるように揺れた。
私はもう、彼を見なかった。
去っていく足音を背に、私はまた、花たちへと向き直る。
『すっきりした?』
小さな声が、くすくすと笑う。
(ええ。とっても)
前世から抱えていた、言えなかった言葉。
「あなたのために咲くのは、もうやめました」――今、ようやく、心から言えた気がした。
◇ 数か月後
私は、国家の『花冠使い』として正式に迎えられた。
とはいえ、大げさな地位も、華やかな社交も、私には興味がない。
望んだのは、ただひとつ。念願の、広大な花畑。
公爵領の陽当たりのよい丘に、私だけの花園が広がっている。前世でも今世でも、ずっと夢見ていた場所。
誰かのためでなく、自分のために花を育てる。
それだけで、こんなにも満たされるものなのだと、今の私は知っている。
「……フローディア殿」
聞き慣れた、低い声。
振り返ると、竜騎士団長アルヴィスが、花園の入り口に立っていた。
相変わらずの無表情。けれど、その手には――小さな紙包み。
「団長。今日もいらしたのですか」
「あ、ああ」
彼は、ぎこちなく歩み寄ると、紙包みを差し出した。
「これは……その、贈り物だ」
開けてみると、花の種だった。見慣れない、きっと遠い土地の。
この人は、もう何日も、こうして毎日そっと種を差し入れに来る。
『氷の団長』『冷酷無比』と恐れられる、王国最強の竜騎士が。
花畑の前でだけ、少年みたいに頬を赤らめて。
「南方遠征の折に、市で見つけた。……珍しい品種だと、聞いた」
「まあ。ありがとうございます」
「気に、入ったか」
私は種を手のひらに乗せ、そっと囁きかけた。
(この子たち、どんな花を咲かせるのかしら?)
手の中の種が、かすかに震えた気がした。まるで、期待に応えるように。
ふと顔を上げると、アルヴィスがじっと私を見ていた。
花に囁く私を、まるで世界で一番の宝物でも見るような目で。
三年前、枯れた花園で私を見つけた時から、ずっと。この人だけは、私を「見て」いてくれた。
私は――生まれて初めてかもしれない。
誰かに向かって、心から笑った。
「団長。よろしければ、一緒に植えませんか。この子たちを」
アルヴィスの氷青の瞳が、大きく見開かれ――そして、不器用に、けれど確かに、和らいだ。
「あ、ああ。……ぜひ」
二人で、土に膝をつく。武人の大きな手と、私の指先が、そっと種を土に埋める。
春の風が、花畑を渡っていった。
◇
その日の午後。
花畑の真ん中で、私はうとうとと微睡んでいた。
穏やかで、あたたかで、これ以上ないほど幸せな時間。
そのとき、耳元で、あの鈴を転がすような声がした。
『ねえ』
(なあに?)
『隣国にも、“泣いてる花”がいるよ』
私は、うっすらと目を開けた。
遠い空の向こう。まだ見ぬ、どこかの土地。
そこで、誰かに愛されずに、しおれている花がある。
私を、呼んでいる。
『行ってあげる?』
私は、そっと微笑んだ。
(そうね。……少し、様子を見てからね)
隣では、アルヴィスが植えたばかりの種の芽吹きを、じっと見守っている。
新しい季節が、始まろうとしていた。
花に愛された令嬢の、まだ誰も知らない、次の物語が――。




