『お前に敵などいない』と言われた悪役令嬢、祖国を捨て未開の地を拓く。
悪役令嬢×内政モノ。ざまぁは中盤からですが、そこまで過激ではないです。
「エルヴィーラ・ラウゼン。お前との婚約を、この場で破棄する」
王太子レオンハルトの声が、大広間の天井に冷たく響いた。貴族達の視線が刺さる。ここは私を裁くためだけに用意された場だった。
殿下の隣には、白いドレスを着た男爵令嬢のマリアベル。震える指先を口にあてて、今にも泣き出しそうな顔で私を見ていた。まるで私が、彼女の細い喉に刃でも突きつけていると言わんばかりの顔だった。
「お前はマリアベルを虐げ、茶会で孤立させ、侍女たちにまで冷たく当たらせた。王太子妃となるべき者が、そのように狭量であってはならない」
「狭量……ですか」
「弁明はあるか?」
「まあ、はい」
殿下は顔をしかめた。聞くつもりなどないくせに、聞く姿勢だけは取らなければならない。王族というものは、本当に面倒な生き物だ。
「私はマリアベル様が王族主催の茶会で招待状にない友人を連れ込もうとしたため、お止めしました。殿下の私室へ夜半に通うことを控えるよう忠告し、王家の紋章入りの便箋を私信に使うなと注意しました」
貴族たちの視線が揺れた。マリアベルは頬から血の気が引き、殿下も眉間に深い皺が寄る。それでも尚、二人を咎めるものは誰もいなかった。
「それを虐げと呼ぶなら、王城の規律もずいぶん可愛くなったものですね」
「そういうところだ、エルヴィーラ」
疲れた声だった。怒りでも、嫌悪でもない。他人を理解した気になっているもの特有の、傲慢な憐れみの顔だった。
「お前はいつも正しさで人を切る。少しの過ちも許さず、誰かが近づけば疑い、笑えば裏を探す。まるで世界のすべてがお前の敵であるかのように」
私は返事をしなかった。返事をする事に、もう少し疲れていた。
「お前に敵などいない」
殿下の言葉に大広間が静まり返った。
先ほどの婚約破棄よりも、その一言のほうが私の胸には深く入ってきた。
「お前は勝手に敵を作り、戦い、人を遠ざけているだけだ。誰もそんな事は望んでいない。私もマリアベルも、この国も」
「……では、もう私は不要なのですね」
「ああ」
殿下ははっきりと言った。マリアベル様が小さく息を呑む。そこまでは言わせるつもりがなかった、という顔だった。
「もう誰とも戦わなくていい。お前は少し、休むべきだ」
優しく、実に王族らしい処刑の言葉。
「承知いたしました」
十年かけて叩き込まれた王太子妃の礼をする。最後に使う場所としては、なかなか悪くなかった。
その夜、私は王都の屋敷に戻り、父に婚約破棄を報告した。父はしばらく黙っていた。怒鳴るでもなく、嘆くでもなく、ただ老いた獅子のように椅子の背へ身を沈めていた。
「で、お前はどうする?」
「ラウゼン家に残れば、王家への反抗の旗になります。修道院へ入れば、殿下への未練と噂されます。どちらも面倒ですわ」
「ならば」
「東へ参ります」
父の目が細くなった。王国の東端には、地図の余白のような土地がある。森と湿地と獣道に覆われ、三度の開拓団が失敗し、今では捨て地と呼ばれている場所だった。
「あそこは領地ではない。墓場だ」
「では、墓を畑に変えて参ります」
「お前は王都で悪女と呼ばれた。東へ行けば、もっとひどい名で呼ばれるぞ」
「呼ばれるだけなら慣れております」
父は諦めたように少しだけ笑ったが、もう反対はしなかった。
私は翌朝から支度を始め、三日後には王都を発った。
連れていったのは、私についてくると言って聞かなかった侍女が三人。王都で職を失った書記が二人。怪我で騎士団を辞めた男が一人。それから、金で買えるだけの種、道具、家畜、塩、薬、布、帳簿だった。
王都から連れてきた者だけで、東の土地は開けない。だから私は、行き場を失った貧民を雇った。借金の形に売られ、名前すら帳簿の端にしか残っていなかった奴隷も買い取った。
彼らに斧と鍬を持たせ、寝床と食事と、働いた分だけ残る銅貨を与えた。
もちろん、美談ではない。
最初の月に、倉庫から麦を盗んだ男がいた。私は広場に全員を集め、その男に盗んだ麦袋と同じ重さの石を背負わせ、水路の端から端まで三往復させた。
倒れた男は泥の上にうつ伏せになり、許してくれと泣いた。私は許した。ただし、翌日から労役に戻ることも命じた。
二月目には、配給を横流しして酒に変えた女がいた。幼い子を抱いて泣きながら許しを乞うたが、私は配給係から外し、三十日間、最も泥の深い湿地の水抜きを命じた。
子には別に粥を与えたが、病で亡くなった。薬も設備も、何もかもが足りなかった。
三月目には、奴隷だった娘に乱暴しようとした男が出た。私はその男を広場に引き出し、見せしめとして利き手の指を二本切り落とし、この土地から追放した。
その日から、私は悪女と呼ばれるようになった。
王都で囁かれた悪女とは違う。絹の扇の陰で笑われる声ではない。飢えと貧しさで濁った者の腹の底から聞こえる、呪詛だった。
悪女。魔女。王都を追われて、貧民と奴隷を支配する女。
私は罰を緩めなかった。この土地には、優しさだけで守れるものなど一つもない。冬を越す麦を盗めば、誰かが春を見る前に死ぬ。
水路の石を抜けば、村ごと泥に沈む。女の尊厳を踏みにじれば、ようやく人の顔に戻りかけた者たちが、また獣の目に戻る。
だから私は、泣いて許しを乞う者にも罰を与えた。身分も性別も関係ない。罪人は等しく裁いた。彼らは私を恐れ、背を向ければ唾を吐いた。
恐れられても畑は増えた。嫌われても水路は伸びた。憎まれても、冬を越せる人数は増えた。
一年目の冬は、二十三人が死んだ。凍えた者、熱を出した者、森で迷った者、傷口から腐った者。私は全員の名前を帳簿に残し、名のある者も、そうでない者も全てに墓を建てた。
春になって雪が溶けると、墓標の木が傾いていた。私はそれを直すよう命じたが、誰も進んで動かなかった。
だから私が最初に土を掘った。
裾が泥に沈み、手袋の縫い目に水が染みた。泥濘に足を取られると、後ろで誰かが笑った。
その日、誰も私に礼は言わなかった。
私も、誰にも礼を言わなかった。
二年目の春、逃げ出した者が十四人出た。そのうち六人は森で戻ってきた。道が分からなかったのだ。
私は彼らを罰しなかった。ただ、逃げた日数分の食費を、翌月から少しずつ差し引いた。
「戻っただけで許されるのですか」
書記の一人が不満げに言った。彼は王都では真面目すぎて商会を追われた男だ。真面目すぎる者は、時に愚か者より扱いにくい。
「逃げることは罪ではありません。食べた分を返さないことが罪です」
「それではまた逃げます」
「その時はまた帳簿に書きます」
書記は呆れたような顔をした。私は帳簿の余白に、戻った六人の名を書いた。逃げた者。戻った者。翌日働いた者。
人間は一行で済ませるには面倒な生き物だ。
二年目の夏には、盗んだ麦袋を背負わされた男が、水路の脇に小さな石積みを作った。雨で土が流れないようにするためだった。
私は不思議に思って男に尋ねた。
「誰の指示ですか?」
「誰の指示でもありません」
「では、なぜ?」
「やり直す為です」
男はそう言って、私と目を合わせずに石を積んだ。私はそれ以上聞かなかった。翌月、彼の労働記録に一行だけ加えた。
水路補修、自発。
二年目の秋には、配給を横流しした女が、泥の深い湿地で一番長く働くようになった。最初は罰だった。けれど、三十日が過ぎても彼女はそこに残った。
「罰は終わりましたよ」
「知っています」
「それでは、なぜ?」
「ここの水を抜ければ、もっとここは豊かになります」
そう言って、女は鍬を泥に突き刺した。
私はその子に粥を与えた日のことを覚えていた。女のほうも、きっと覚えていたのだろう。
背を向けた女に、私は深く礼をした。
三年目の春、最初の小作契約を結んだ。
相手は、南部の鉱山から売られてきた奴隷だった。初めて会った時、彼は名乗る代わりに首輪に刻まれた番号を指差した。
彼は一度も配給を盗まなかった。喧嘩もせず、割り当てられた湿地の端を誰よりも丁寧に耕した。休みの時でさえ、新しく入ってきた奴隷に薪の割り方を教えていた。
男は二年で自分を買い上げ、自由になった。
私は、彼に湿地の端の畑を任せたい、と申し出た。収穫の三割を領に納めれば、残りは彼と、彼の妻のものにしてよいと告げた。
書記に一字ずつ契約書を読み上げさせると、暫く考え込むように黙っていた男が静かに口を開いた。
「これは、首輪の代わりですか」
「違います」
「では、破ればどうなります」
「畑を取り上げます」
「……奴隷に戻すのではなく?」
「貴方は既に自由身分です。この土地にいる限り、貴方を縛るものはもう何もありません」
男はそれを聞いて、炭で汚れた親指を紙へ押しつけた。
その夜、彼の妻が小屋の裏で泣いたと聞いた。
そこから少しずつ、同じ契約を結ぶ者が増えた。奴隷だった者が畑を持ち、浮浪者だった者が鶏を飼い、配給を盗んだ女が倉庫番の補佐になった。
私は誰も簡単には信じなかった。彼らも私を簡単には信じなかった。
だから私は、全てを契約として記録し、帳簿をつけた。
働いた日数。納めた量。破った規則。守った約束。罰を受けた日。罰のあと、戻ってきた日。
帳簿の上で、彼らは少しずつ奴隷ではなくなった。親に売られた者や、故郷を追われて流れ着いた者も、誰かの所有物でもなくなっていった。
三年目の冬、私は自分で、初めて子供たちに文字を教える小屋を作った。
教師には、王都で商会を追われた書記を据えた。最初の授業で、彼は子供たちに帳簿の付け方を教えようとした。子供が三人泣いた。
「なぜ最初から帳簿なのですか」
「生きるために必要です」
「まず自分の名前からでよろしいでしょう」
「名前は帳簿に必要です」
「では、名前から」
彼は不服そうだったが、翌日から木の板に一人ずつ名前を書かせた。元奴隷の子供が、自分の名を三度も書き直していた。
ひどく歪んだ文字だったが、その子は板を抱えて小屋を出て、母親に見せに走った。母親は読み方も分からないまま、その板を両手で受け取り、しばらく動かなかったという。
四年目の夏、市場ができた。
市場と言っても、木の板を並べただけの台に、豆、薬草、卵、乾いた魚、粗末な布、修繕した鍋などが置かれているだけだった。
けれど、人々は銅貨を握ってそこへ来た。
最初に値段をごまかした者は、三日間、広場で相場表を読み上げる罰を受けた。
「領主様、今日の豆は量をごまかしておりませんよ」
配給を横流しした女が、皺の増えた目元でそう言った。台の上には、乾いた豆が小さな山になっていた。
「当然です」
「ええ。当然ですとも」
「相場より少し高いようですが」
「領主様は本当に細かい」
「あなたほどではありません」
私は手に取って豆の品質を確認した。なるほど、強気に出るわけだ。虫も少なくて、張りがある。
「では、これをここに書いてある帳簿の通り、毎月孤児院に届けてください。代金は私宛にして屋敷の方に回してください」
その頃から、人々は私を悪女と呼ぶ声を少し控えるようになった。
代わりに、領主様と呼ぶ者が出た。鉄の女と呼ぶ者もいた。どちらにせよ、私に聞こえる場所で言う者は減った。
五年が経つ頃、東の開拓地はまだ豊かとは言えなかった。
雨が降れば道は泥になり、冬になれば薪を巡って喧嘩が起きる。祭りの日の肉も、全員が腹いっぱい食べられるほどではない。王都の人間が見れば、きっと貧しい土地だと眉をひそめるだろう。
それでも、街を歩けば人々が顔を上げるようになった。
鍛冶場の前では、元奴隷の少年が火花を見て笑っていた。市場では、かつて配給を横流しした女が、自分で育てた豆を量り売りしていた。
水路のそばでは、子供たちが裸足で走り、母親たちが怒鳴りながら洗濯物を干していた。
私を見るだけで笑いかける者はそう多くない。今でも背筋を伸ばし、少し緊張した顔をする。私が笑いかけても、たぶん彼らは困るだろう。
けれど、道を譲る時、彼らの目には怯えだけではないものがあった。
明日は今日より少しましになるかもしれない。
来年は、もう一枚畑を増やせるかもしれない。
子供には首輪ではなく鍬を持たせられるかもしれない。
彼らの顔には、そういうささやかな希望があった。
その顔を見た時、私はようやく思った。ああ、私はこの者たちを従えてきたのではない。この者たちと共に、ここまで来たのだと。
◇ ◇ ◇
その年の秋、王都から使者が来た。
封蝋には、王家の紋章があった。書状には、丁寧な言葉で支援要請が書かれていた。西部の不作、薬草と保存食の不足、東方開拓地の生産量が予想を上回っていること。
そして、王家直轄の保護地として認定する代わりに、物資供給への協力を求めること。
最後に、レオンハルト王太子の署名があった。
「どうなさいますか」
会計を任せているイレーネが尋ねた。彼女は王都では毒舌すぎて、解雇された侍女だった。今では、私より領内の銅貨の流れに詳しい女だ。
「通常価格の二倍で売ります」
「慈悲がありませんね」
「保存食は通常価格。薬草は二倍です」
「少しだけありました」
私は書状を折り畳んだ。断る理由はないが、従う理由もない。
数日後、王家の使者が正式に訪れた。見覚えのある美しい金髪の男性。
レオンハルト殿下だった。
以前より痩せていた。華やかな顔立ちは変わらないが、目の下に疲れがある。以前の彼にあった眩しいほどの自信が、どこか削げ落ちていた。
昔なら、その姿に胸が痛んだだろう。
今はただ、苦労しているのだなと思った。
「久しぶりだな、エルヴィーラ」
「ご無沙汰しております、殿下」
「ここまでの土地にしたのか」
「皆が働きましたので」
殿下は広場を見渡した。泥のついた子供たちが走り、元奴隷の男が荷車を押し、市場の女たちが値段のことで言い合っている。
王都の大広間とは比べものにならないほど騒がしく、乱雑だが、その顔には活力があった。
「マリアベル様はお元気ですか」
私が尋ねると、殿下の横顔がわずかに強張った。
「……彼女は、離宮にいる」
「……そうですか」
「王太子妃教育に耐えられなかった。……いや、違うな。私が、耐えられるように何一つ整えられなかったのだ」
殿下は市場のほうを見たまま言った。そこでは子供が卵を一つ落として、母親に叱られていた。
「君が止めていたものを私は意地悪だと、狭量だと笑った。招待状にない者を茶会へ入れることも、私室へ夜半に人を通すことも、王家の紋章を私信に使うことも、私は些細なことだと思っていた」
彼の声は静かだった。王族の余裕ではない。自分の喉元に刃を当てている者の静けさだった。
「些細なことではなかった」
私はただ、黙って聞いていた。
「私が許した小さな緩みは、すべて王城の緩みになった。マリアベルの友人は王城へ入り込み、商人は便宜を求め、貴族は派閥を作り、父上には叱責された。古くからの重臣も、私を見限り始めている」
「そうでしたか」
「マリアベルは泣いていた。どうして皆が急に冷たくなったのかと。なぜ、エルヴィーラ様の時は許されていたのに、自分は許されないのかと」
そう言って初めて、殿下が私の方に向き直った。
「……許されていたのではなかったのだな。君が、許されないところまで届く前に止めていた」
風が吹き、広場の土埃が少し舞った。相変わらず、表では子供の遊ぶ声が小さく聞こえている。
「私は、君を悪女にした。君が冷たいから王城が保っていたのではなく、王城を保つために君が冷たくならざるを得なかったのだと、ようやく分かった」
遅すぎる言葉だった。
けれど、遅いからといって嘘になるわけでもない。人は時々、取り返しのつかない場所まで歩いた後で、ようやく地図を読めるようになる。
「殿下」
「分かっている。今さら、許しを請う資格などない」
殿下は自嘲気味に唇を歪めた。笑っているのではない事が、痛いほど伝わった。
「だが、言わせてほしい。私が愚かだった。君が何を守るために、何と戦っていたのかを一つも見ていなかった。すまなかった」
使者たちが息を呑んだ。王太子が泥のついた広場で膝をついて、かつて婚約を破棄した令嬢に謝罪をしている。
「頭を上げてください」
殿下の肩が小さく震えた。
私は広場の奥を見た。倉庫では、王都へ送る保存食の量を測る者たちが働いていた。誰もこちらをじっと見てはいない。けれど、誰もが耳だけはこちらへ向けていた。
「私は殿下が失ったものを慰めることはできません。マリアベル様の失敗を無かった事にすることも出来ません。王都の混乱もどうすることも出来ません」
「ただ私は以前の殿下より、今の方が良いと思いますわ」
その顔は、以前のように誇り高く、自信に満ち溢れたものではなかった。ただ、自分が捨てたものの価値を知り、受け入れようとしている顔だった。
それで十分だった。
「私はあの夜、確かに全てを失いました。殿下の言葉を借りるなら、マリアベル様にも、王都にも、全てと戦って、負けたのかも知れません」
私は泥の道へ目を向けた。
「ただ、ここに来て皆と暮らすうちに思ったのです。飢えも貧しさも、病も、天候も。乗り越えれば終わるものではなく、付き合い続けるものです。恐らくは、人も同じかと」
殿下は黙って聞いていた。
「この畑を見てください。あの子供達の顔を見てください。何もない土地からでもここまで育ったのです。きっと、殿下もやり直せます」
私は少しだけ笑った。王太子妃教育で習った微笑みではない、土と汗に塗れた女の顔で。
「その一歩をここから始めましょう」
交渉は三日かかった。
王家はこの土地を正式な自治開拓領として認め、私を初代領主とした。私たちは保存食と薬草を王国に供給する契約を結んだ。
薬草は結局、一・五倍の価格で落ち着いた。
イレーネは不満そうだったが、私は十分だと思った。王家から取りすぎれば、次に泣くのは西部の民だ。彼らは私の敵ではない。
交渉の最後、殿下は私に一枚の書類を差し出した。
「これは?」
「王太子妃候補時代の君の記録だ。君が王城で行った改善案、注意書き、処分記録、茶会の規律、侍女の配置案。すべて、君が残したものだ」
「焼いてくださって結構です」
「焼けなかった。何度も焼こうと思った。君の字を見るたびに、自分の愚かさを突きつけられる。私は君を遠ざけた後も、君の残したものに縋っていた」
その後、何かを言いかけて、やめた。
私も書類を受け取らなかった。
殿下が帰る日、村の入口に人が集まった。
見送りではない。王都の馬車が珍しかっただけだ。子供たちは車輪の飾りを見て騒ぎ、大人たちは荷の数を数え、商人は次に売れそうなものを考えている顔をしていた。
殿下は馬車に乗る前、私を振り返った。
「エルヴィーラ」
「はい」
「君は、私を恨んでいるか?」
「昔は、少し」
「今は?」
私が少し黙っていると、殿下は続けた。
「きっと、私はこれからも何度も思い出す。あの夜の君の礼を。君が何も言い返さずに去ったことを。私があの夜、どれほど愚かな事をしたのかを」
彼はこれから王城に戻り、自分が壊したものを、自分の手で一つずつ直さなければならない。それはきっと、私がここで歩んで来た道と同じくらい、険しい道だろう。
「殿下、またいつでもこちらにいらしてください」
そう告げると、殿下は少し目を赤くしながら、小さく頷いた。
そうして、砂埃を上げた馬車が森の道へ消えていき、やがて静かになった。
見えなくなるまで馬車を見送る私の隣に、ガルドが立った。元騎士だった彼は、今では水路と治安を任されている。考える前に斧を握る癖は、まだ完全には直っていない。
「追い返さなくてよかったんですか」
「なぜ?」
「お嬢様を追い出した張本人でしょう」
殿下と会った数日、私は少しだけあの夜の事を思い出していた。
婚約破棄を告げられたあの時、お前に敵などいない、と殿下は私にそう言った。
「……いいえ」
私は首を横に振った。
「私に敵などいませんわ。誰にも、敵などいないのです」
目を丸くするガルドに微笑んで、泥のついた裾を摘まみ上げる。そうして屋敷に戻ろうとした矢先、誰かの声がした。
「領主様ー! 水路の西側でまた揉めています!」
「理由は!」
「豚です!」
「またですか!」
苦笑しながらため息をつく。殿下の馬車はもう大分遠く、王都の大広間も、白い柱も、絹の扇も、今はもう、過ぎた日のように記憶の片隅で小さくなっている。
この場所は決して華やかではない。豊かでもない。だが活気と、明日への希望がある。
これからも色々な問題に見舞われながら、私はこの地で皆と生きていく。
「すぐ行くから、少し待っていなさい!」
そう叫んでから、泥濘んだ土を蹴った。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
知っている人はタイトルでニヤリとしたと思いますが、元ネタは「ヴィンランド・サガ」です。
テンプレざまぁではなく、登場人物の皆が苦難の中で幸せになれる話を書きたいと思った時に、上記の作品の台詞がピッタリだと思って引用させていただきました。
よろしければ、感想、評価いただけると大変嬉しく思います。




