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命の恩人

作者: 浅水那月
掲載日:2026/02/16

「おい、早まるな!」


深夜の歩道橋。欄干に手をかけた僕の腕を、誰かが強く掴んだ。

振り返ると、くたびれたスーツを着た中年の男が、必死の形相で立っていた。


「死ぬなんて馬鹿げてる。生きていれば、必ずいいことがある」


ありふれた言葉だった。でも、男の目には奇妙なほどの熱量があった。

僕は力なく首を振る。


「放してください。もう、疲れたんです」


「ダメだ! 俺は見過ごせない。

とにかく、何か温かいものでも食おう。話はそれからだ」


男の強引さに気圧され、僕はしぶしぶ欄干から手を離した。



男に連れられて入ったのは、24時間営業のファミレスだった。

男は僕にハンバーグセットを奢り、

ドリンクバーのコーヒーを何度も注いでくれた。


「借金か? 失恋か? 仕事の失敗か?」


男は親身になって話を聞いてくれた。

僕はポツリポツリと、身の上話をした。

会社でのパワハラ、膨らむ借金、恋人の裏切り……。

男は時折涙ぐみながら、深く頷いてくれた。


「辛かったな。でも、お前は悪くない。社会が悪いんだ」


男の言葉は優しかった。

まるで慈父のように、僕の心の傷を一つ一つ丁寧に癒やしていった。

数時間が経ち、店の外が白み始めた頃、

僕の心の底から、重苦しい何かがあっけなく消え失せていた。


「……ありがとうございます。話を聞いてもらえて、少し楽になりました」


「そうか、よかった」


男は満面の笑みを浮かべた。仏のように穏やかな顔だった。


「いい場所があるんだ。そこで朝日を見よう。新しい人生の門出だ」


男の提案に、僕は素直に従い、店を出た。



男の車に乗せられ、連れて行かれたのは、人気のない埠頭の倉庫裏だった。

早朝の冷たい海風が吹き抜ける。波の音だけが響く、静寂の世界。


「どうだ、いい眺めだろう?」


男は車の外に出て、大きく伸びをした。


「ええ、本当に……心が洗われるようです」


僕は海を見つめて答えた。

「あなたは僕の命の恩人です。……もう一度やり直してみます」



その瞬間だった。

背後で、カチャリと冷たい音がした。


「やり直す? 無理だよ」


振り返ると、男の表情がスッと抜け落ちていた。

仏のような微笑みが消え、底知れぬ無機質な何かが顔に張り付いている。

右手には、鈍く光る飛び出しナイフが握られている。


「え?」


「お前のようなクズは、何度やり直しても同じ失敗をする。

借金は消えないし、性格も変わらない。生きていても苦しみが続くだけだ」


男は冷酷に続ける。


「俺の趣味を知っているか? 絶望した人間を救うことじゃない。

『希望を持った人間』を絶望させてから殺すことだ」


「……え?」


「ただ死にたがっている奴を殺しても面白くないんだよ。

一度高みに引き上げて、生きる喜びに震えている瞬間に突き落とす。

その落差が生む絶望こそが、最高のスパイスになる」


男は舌なめずりをした。「さあ、絶望しろ。『助かったと思ったのに』と嘆け。

恩人が殺人鬼だった恐怖に顔を歪ませろ」



逃げ場のない埠頭。男がナイフを構え、じりじりと距離を詰めてくる。

しかし、僕は動かなかった。悲鳴も上げなかった。

ただ、静かに海風を受けたまま、男を見返した。



「……おい、どうした? 怖くないのか?」


男の足が止まる。


「いえ、安心したんです」


「安心?」


「ええ。あなたが『そういう奴』でよかった」


僕は懐から警察手帳を取り出し、男に見せた。

「神奈川県警だ。連続自殺教唆および殺人容疑で逮捕する」


男の目が点になった。「は……?」


「この半年、自殺志願者が失踪する事件が多発していた。

彼らの最後の通信記録には奇妙な共通点があった。

失踪の直前、『親切な人に励まされて、生きる希望が湧いた』

という趣旨のメッセージを友人や家族に送信していたんだ」


「そして現場付近の防犯カメラには、毎回お前の車が映っていた。

ただ、決定的な証拠がなかった。だから現行犯で押さえる必要があったんだ」


僕は冷ややかに続ける。


「お前の手口はプロファイリング通りだ。

『絶望していない人間』には興味を示さない。

だから俺は、お前にとって最高の獲物になるように、

徹底的に『死にたがり』の演技をしたんだよ」


男の顔から血の気が引いていく。ナイフを持つ手が震え始めた。


「ま、待て。俺はただ……騙したのか!」


男が逆上し、ナイフを振り上げて突っ込んでくる。

その瞬間、倉庫の陰から数人の捜査員が飛び出し、一斉に男を取り押さえた。


「ぐああっ!」


男は地面にねじ伏せられ、冷たいコンクリートに顔を押し付けられる。



「『生きていればいいことがある』って言ったよな? ああ、その通りだ。

お前を逮捕できたことが、今の俺にとって最高のいいことだからな」


男が絶望に顔を歪ませながら手錠をかけられる。


「ああ、いい表情だ」


僕は男を見下ろして呟いた。

「お前が被害者にさせたかったのは、そういう顔だったんだろう?」



連行されていく背中を見送る。

「希望から絶望への落差」。

彼が愛したその最高のスパイスは、

自分自身で味わうには少し刺激が強すぎたようだ。

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