命の恩人
「おい、早まるな!」
深夜の歩道橋。欄干に手をかけた僕の腕を、誰かが強く掴んだ。
振り返ると、くたびれたスーツを着た中年の男が、必死の形相で立っていた。
「死ぬなんて馬鹿げてる。生きていれば、必ずいいことがある」
ありふれた言葉だった。でも、男の目には奇妙なほどの熱量があった。
僕は力なく首を振る。
「放してください。もう、疲れたんです」
「ダメだ! 俺は見過ごせない。
とにかく、何か温かいものでも食おう。話はそれからだ」
男の強引さに気圧され、僕はしぶしぶ欄干から手を離した。
男に連れられて入ったのは、24時間営業のファミレスだった。
男は僕にハンバーグセットを奢り、
ドリンクバーのコーヒーを何度も注いでくれた。
「借金か? 失恋か? 仕事の失敗か?」
男は親身になって話を聞いてくれた。
僕はポツリポツリと、身の上話をした。
会社でのパワハラ、膨らむ借金、恋人の裏切り……。
男は時折涙ぐみながら、深く頷いてくれた。
「辛かったな。でも、お前は悪くない。社会が悪いんだ」
男の言葉は優しかった。
まるで慈父のように、僕の心の傷を一つ一つ丁寧に癒やしていった。
数時間が経ち、店の外が白み始めた頃、
僕の心の底から、重苦しい何かがあっけなく消え失せていた。
「……ありがとうございます。話を聞いてもらえて、少し楽になりました」
「そうか、よかった」
男は満面の笑みを浮かべた。仏のように穏やかな顔だった。
「いい場所があるんだ。そこで朝日を見よう。新しい人生の門出だ」
男の提案に、僕は素直に従い、店を出た。
男の車に乗せられ、連れて行かれたのは、人気のない埠頭の倉庫裏だった。
早朝の冷たい海風が吹き抜ける。波の音だけが響く、静寂の世界。
「どうだ、いい眺めだろう?」
男は車の外に出て、大きく伸びをした。
「ええ、本当に……心が洗われるようです」
僕は海を見つめて答えた。
「あなたは僕の命の恩人です。……もう一度やり直してみます」
その瞬間だった。
背後で、カチャリと冷たい音がした。
「やり直す? 無理だよ」
振り返ると、男の表情がスッと抜け落ちていた。
仏のような微笑みが消え、底知れぬ無機質な何かが顔に張り付いている。
右手には、鈍く光る飛び出しナイフが握られている。
「え?」
「お前のようなクズは、何度やり直しても同じ失敗をする。
借金は消えないし、性格も変わらない。生きていても苦しみが続くだけだ」
男は冷酷に続ける。
「俺の趣味を知っているか? 絶望した人間を救うことじゃない。
『希望を持った人間』を絶望させてから殺すことだ」
「……え?」
「ただ死にたがっている奴を殺しても面白くないんだよ。
一度高みに引き上げて、生きる喜びに震えている瞬間に突き落とす。
その落差が生む絶望こそが、最高のスパイスになる」
男は舌なめずりをした。「さあ、絶望しろ。『助かったと思ったのに』と嘆け。
恩人が殺人鬼だった恐怖に顔を歪ませろ」
逃げ場のない埠頭。男がナイフを構え、じりじりと距離を詰めてくる。
しかし、僕は動かなかった。悲鳴も上げなかった。
ただ、静かに海風を受けたまま、男を見返した。
「……おい、どうした? 怖くないのか?」
男の足が止まる。
「いえ、安心したんです」
「安心?」
「ええ。あなたが『そういう奴』でよかった」
僕は懐から警察手帳を取り出し、男に見せた。
「神奈川県警だ。連続自殺教唆および殺人容疑で逮捕する」
男の目が点になった。「は……?」
「この半年、自殺志願者が失踪する事件が多発していた。
彼らの最後の通信記録には奇妙な共通点があった。
失踪の直前、『親切な人に励まされて、生きる希望が湧いた』
という趣旨のメッセージを友人や家族に送信していたんだ」
「そして現場付近の防犯カメラには、毎回お前の車が映っていた。
ただ、決定的な証拠がなかった。だから現行犯で押さえる必要があったんだ」
僕は冷ややかに続ける。
「お前の手口はプロファイリング通りだ。
『絶望していない人間』には興味を示さない。
だから俺は、お前にとって最高の獲物になるように、
徹底的に『死にたがり』の演技をしたんだよ」
男の顔から血の気が引いていく。ナイフを持つ手が震え始めた。
「ま、待て。俺はただ……騙したのか!」
男が逆上し、ナイフを振り上げて突っ込んでくる。
その瞬間、倉庫の陰から数人の捜査員が飛び出し、一斉に男を取り押さえた。
「ぐああっ!」
男は地面にねじ伏せられ、冷たいコンクリートに顔を押し付けられる。
「『生きていればいいことがある』って言ったよな? ああ、その通りだ。
お前を逮捕できたことが、今の俺にとって最高のいいことだからな」
男が絶望に顔を歪ませながら手錠をかけられる。
「ああ、いい表情だ」
僕は男を見下ろして呟いた。
「お前が被害者にさせたかったのは、そういう顔だったんだろう?」
連行されていく背中を見送る。
「希望から絶望への落差」。
彼が愛したその最高のスパイスは、
自分自身で味わうには少し刺激が強すぎたようだ。




