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この小さな花があの海に届きますように  作者: 富田 来蔵 / Kizō Tomita


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1/13

プロローグ 白嫁菜(しろよめな)の丘

本作はフィクションです



「この小さな花があの海に届きますように」



空はすっきり晴れて、白く焼けた岩場の向こうで海がきらきらしていた。


「いっくぞー!」


声と同時に、村上仁が飛び出す。


「うおおおっ!」


ばっしゃーん! 派手な水柱が上がり、仁が水面から手を振った。


「冷てぇ! でも最高だぞ!」


岩の上で、俺と響は下を見下ろす。


「……ほんとに大丈夫か、ここけっこう高くないか」


響は平気そうな顔……は強がりで、水までの距離を慎重に測っている。


「平気さ、響」


俺は一歩、前に出る。


「水に入るとさ――」


少し間を置いて言う。


「俺、魚になるんだ」


「は?何いってるの」


「見本な」


そう言って岩の先端に立つと、迷いなく体が前に動く。

光が弾け、冷たい水が全身を包む。考える間もなく泳ぎ出した。


(これだ)


しばらく水の中を楽しみ、仁の近くに浮かび上がる。


「やっぱすっげえなお前、潜水で一気にここまで来た!」


俺は笑って声をかける。


「いいから仁、足から入れって、それ以上頭悪くなったらどうする」


「うっせえよ、余計なお世話だよーだ」


岩の上には響がまだ立っている。少しだけ体を前に乗り出して――


「……魚ってさ」


一瞬考えてから言う。


「かっこつけちゃって……」


「私だって、できるもん」


返す間もなく、響は息を吸って岩を蹴った。


「きゃあああ!」


どっぱぁん!

水面に顔を出した響は、一瞬きょとんとして――


「冷たっ!」

それから目を輝かせる。


「……なんだこれ」

「だろ?」

「……ちょっと、楽しいかも」


仁が腹を抱えて笑う。


「お前ら、ほんと似てんな!」

「ちげーし!」「ちがう!」


二人同時に叫び、そのまま笑った。


「――それじゃ岬までレースだ! 泳ぐぞー!」


俺――谷口航が声を張ると、仁が手を振る。


「ちょっと待て。全員同じスタートは不公平だろ」


「は?」


「航はここから。俺と響は途中の岩場からな」


仁は沖の潮の流れが変わるあたりを指す。


「てめ、ハンデつけすぎだろー!」


「航はどうせすぐ追いつくんだよ。

こんくらいで文句言うな」


響が笑いながら口を挟む。


「でもさ、去年結果あれだったっけ」


それはそれは、かなりいやな記憶が……


「途中でさ、航の海パン掴んじゃってさ

そのままもぎ取ったよね」


「あれ、偶然とか言ってたよね」


「狙ってやったにきまってるだろうが!」


「てめ、わざとだったのかよ!」


「まあまあ。今年はちゃんとスタート分けるし。平和だろ」


「次やったら……沈めてやる」


俺は納得いかないまま、水に体を沈める。

もう、泳ぐしかない。


「ゴールはあの丘だ」


「あー、いつものとこね」



「位置について、よーい……」


仁が沖へ向かって泳ぎ出し、響もその横をすいっと進む。


「……どん!」


あいつら先に……フライングじゃん。

まあ、いっか。


水に入ると体が軽くなる。呼吸も腕も、考える前に整う。

仁と響はまだ遠いが、そんなもん関係ない、ここは完全に俺の海だ。


泳いでいる間だけ、世界がすべて加速する。

音も重さも全部置いていける。


やがて前方に岬の影が見え始めた。

灯台の陰に二つの影が、どんどん大きくなる。


水を深くつかみ、一息、強く――


そして、二人の間に割って入る、


「おらおらおらーーー!」


一気に前へ出る。


崩れかけた灯台をかすめ、勢いそのまま砂浜へ上陸、


「よし、今日は絶対ビリじゃねぇ」


だが、背後から声が飛んでくる。


「はいざんねん、先行くねー」


「先いくーぞー!」


「うお、なんてこった……ギリギリやられた!」


坂の途中の竹藪を抜けたとき、鼻先をくすぐる柔らかい香りがした。


視界の先には、白いつぼみが一面にふくらんでいる。

まるで地面が白い息をしているみたいだ。


最後の力で砂浜を蹴り、丘へ駆け上がると――


足元の気配に気づく。

もう仁は立っていた。少し離れたところで、先についた響が見当たらない。


「どこに行った?」


背後から“たこ”が容赦なく半袖のラッシュガードに突っ込まれる。


「うわああ!? ちょ、なに入れた!!」


「はいわたる今到着ー」

響の声は軽い。


「途中でいた。つかみやすかった」


「てめ、つかみやすいとかじゃねぇ!」


背中でもぞもぞ動く感触に、俺は情けない声を上げる。


「こんなもん、つかまえてくるなー!!」


仁が腹を抱えて笑う。


「航、泳ぎメチャメチャ早いけど、足おっそ、結局ビリ、やーい」


「お前ら、二人とも足がはやいんだよ、ずりーわ」


「えー、航って陸に上がると足遅いんだもん、そのタコみたい」


響は首をかしげ、ニコニコして言う。


「ゴールは丘だろ?」


ぐうの音も出ない。


「勝因矢のごとしっつうんだ」

仁がどや顔で答える


「おめ、『こういんやのごとし』だ、バーカ」


「うっせよ、どうだっていいだろ、そんなもん」


仁が航を追いかける、それを響が笑って見ている

そんな時間がとてもゆっくり流れる


白いつぼみが風に揺れ、三人分の影が重なる。

笑い声が丘に広がる。


風に揺れる白いつぼみを見ながら、俺はぽつりと言った。


「そういや、このつぼみ……今年、ちょっと早くないか?」


「確かにな」


仁が屈んで、つんつん触る。


「咲くと、あたり一面、真っ白なじゅうたんになるよな」


響は目を細める。


「うん。朝早く来ると、霧に光が当たって……雪みたいなんだよな」

そっと蕾を避けながら言う。


「白嫁菜って言うんだって。おばあちゃんが教えてくれた」


「野菊だろ、これ?」


「野菊は、いろんな花の集まり、白嫁菜はその中のひとつ」


説明するときだけ、響の声はちょっとだけ丁寧になる。


仁が感心してうなずく。

「へぇ、詳しいな、そういえば俺も聞いたような」


響は照れたように肩をすくめた。

「おばあちゃんが好きなんだ、この花。だから……ぼく……私も覚えた」


風が吹き、蕾がいっせいに揺れる。

響はそれを見つめながら静かに言う。


「“響”ってね……おばあちゃんの名前、響乃から一字もらったんだ」

「へぇ、そうだったのか」


胸の奥がちょっとざわついた

たぶん、俺――知らずに響を……


昔、俺が言った言葉、でも知らなかったんだ。


「ひびきって、かっけぇ名前。きみ男の子?」


響は笑っていた。気にしてないと思っていた。

でも――ふっと話を切った。俺の顔色から、全部悟ったみたいに。


「そういうの、ぼく、すごいと思うんだよ。だから……


仁がぱしっと俺の頭を叩く。


「な、なんだよ!」

「やっぱいい感じじゃねーか。付き合っちまえ!」


「ちげーし!」

「なんでだよ!」


仁はゲラゲラ笑う。


「てか航、“メダル取って有名人なる!”って昔言ってたの、

俺覚えてるからな。海でカニ追いかけながら」


「やめろ!! 忘れろ!!」

響まで笑う。

「“俺は水泳王者だ!”って、胸張ってたよね」

「やめろぉぉぉ!!」


笑い声が丘に溶けていく。

白嫁菜の蕾が、また風に揺れた。


「……なあ。今年も、全部咲くかな」

響がぽつりと聞く。


「咲くだろ。毎年咲くし」

俺が言うと、仁もうなずいた。


「満開になったら、また来ようぜ。……三人で」


それは、あまりにも当たり前だと思っていた約束だった。

海の音。潮の匂い。日差しの温度。全部、変わらないままだと思っていた。


響が笑って手を振る。


「よし、帰ろ! 航の鼻、へし折ったし」

「おい響! 魚介類はもうやめろよ!?

このたこ食わないなら、海戻しとくからな」


三人は、いつもの道を、いつものように駆け出す。


このときの俺たちは、まだ知らなくていい。

白い花の名前に込められた願いも、失うものも、手にするものも。


ただ、風の中で揺れる蕾は、

この物語の始まりを静かに語り始めた。

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