守りたいセカイ
すみません検索ワードからギャグ外します。
その時まで、将の日常は極めて穏やかで平和なものだった。休日の朝、窓から差し込む光は穏やかで、台所からは純が作る朝食の香りが漂ってくる。将はダイニングテーブルの椅子を引いた。その瞬間、何の前触れもなく、将の視界全体が黒く塗りつぶされた。それは一瞬の暗転ではなく、空間そのものが引き裂かれるような、悍ましい幾何学的な異常事態だった。二次元の壁にできるのなら「罅」と表現できたかもしれないが、目の前の三次元の空間を黒い、樹木の枝のように異様に太い線が四方八方に伸びていく様は、将の貧弱な語彙ではそうとしか言いようがなかった。
物理法則の無視を訴えるような、耳鳴りに似た高周波音が響く中、その亀裂の奥から声が漏れた。「(出れた、ガイアの呪縛から解放された)」。女性の声だ。しかし、そこに母性や優しさのかけらもない。むしろ、生命を否定するような歪んだ、鋭い調子だった。将は声を聞いただけで直感した。この女は生まれてこの方、誰かを愛した経験など一度もない、と。
「(エキドナさまの下へ行かねば)」
その禍々しい意志が空間をさらに押し広げる。亀裂の奥から、無数の黒い突起――八つの、濁った光を反射する複眼が、粘着質な音と共にせり出してきた。そして、空間の悲鳴と共に姿を現したのは、全長三メートルを優に超える異形の存在。全身が剛毛に覆われた巨大な蜘蛛。本来あるべき腹部の代わりに、人間の女性の皺だらけの首が、無理やり接合されたように繋がっていた。その左眼は、不気味に潰れ、どろりとした黒い液体を絶え間なく流し続けている。
「な、なにこれ……冗談でしょ、将、逃げようよ!」純が手に持っていた買物袋を床に落とし、震える声で叫んだ。純の身体は恐怖に硬直し、地面に縫い付けられたようになっている。
「純、動くな!」将は反射的に怒鳴った。脳裏で警鐘がけたたましく鳴り響く。逃げても無駄だ。目の前の存在は、純を獲物として見定めたのだ。
「殺そう、晩餐じゃ」。蜘蛛の口から、女性の首が不気味に共鳴したような声が発せられた。獲物を定めるように、カシャリ、と音を立てて純に向かって一本の前脚が鋭く振り下ろされた。純の細い身体を、その凶悪な爪が引き裂くのは一瞬だ。思考するより早く、将は純と蜘蛛の間に己の身体を滑り込ませた。強烈な衝撃が走った。熱い何かが、将の鳩尾を正確に貫いた。
肺から空気がすべて絞り出される。内臓が灼けるような、耐え難い激痛が全身を駆け巡った。貫かれた傷口から流れ出る体温と血の感触。視界がぼやけ、色彩が薄れていく。まるでスローモーションのように、純の驚愕に染まった顔が見えた。(死ぬのか……)。しかし、その絶望の底で、将は奇妙な安堵を覚えた。誰か大切な人を庇って、その代償として死を選ぶのなら……「ま、悪くないか」。肉体から魂が遊離していく、無限に思える死への時間。
やがて、意識の終着点に辿り着く。そこは、痛みのない、霧のような空間だった。霧の向こうで、ひとりの女性が将を待っていた。優しさと厳しさを併せ持つ、不思議な瞳の女性だ。「久しぶりです、将。一〇年振りですね」。将は朦朧とした頭でその女性を見つめた。記憶の断片が繋がる。「誰だ、あんたは? いや、知っている。オヤジと共に、世界を守るために戦っていた、あの神々のカケラ――シャード」。シャードは静かに頷いた。「一臣の息子であるあなたが一臣のように、自分の意志で誰かの為に戦うのなら、私はその力となり、あなたとともに歩みましょう」。彼女は青い光を放つ小さな宝玉を差し出した。「願わくば、この力が、巨大な運命をねじ曲げるのではなく、あなたの目の前にある、細やかな願いしか叶えられないことを忘れず」。将は激痛に苛まれる現実の身体と、目の前のシャードの言葉を、ゆっくりと噛み砕いた。「細やかでも何でも、おれは戦う。一〇年前、父にそう告げた時の答えと、今も同じだ」。純の恐怖に満ちた顔が脳裏に焼き付いている。「子どもでも、守りたいセカイがあるんだ。おれは奈落から地球を守り抜く!」。将の胸中に、迷いはなかった。静かながら、揺るぎない、強い決意だった。「なら、その決意を手に、私を携えて戦場に戻りなさい」。シャードの言葉に呼応するように、結晶体が将の手に吸い込まれ、全身に力が満ちていく。将は深く、力強く頷いた。「おう!」




