明と一臣
「将――、将……」
霧の向こう側から、低く、しかし腹の底に響くような懐かしい声が届いた。
その場に立ち尽くす宮内純には、その声の主の記憶がない。だが、隣に立つ剣菱将の魂は、その響きを鮮明に覚えていた。忘れようはずもなかった。
「オヤ……ジ……」
震える声で将が呟く。そこに立っていたのは、剣菱一臣。将の父であり、かつて彼を庇ってその命を散らしたはずの男だった。死者は帰らない。それがこの世界の理のはずだ。
「フン、デカくなりやがって」
一臣は、かつてと変わらぬ不敵な笑みを浮かべた。その姿は実体というにはあまりに幻惑的で、霧に溶け出しそうなほどに儚い。
「……ガイアの力をもってしても、その場で絶命した者でなければ、完全に生き返らせることは叶わん。それがこの世界の、そして力の限度だ。今の俺は、いわば奈落の底に漂う残滓に過ぎんよ」
一臣は自らの掌を見つめ、自嘲気味に言葉を継いだ。
「硬いことを言うな。この場に現れた俺は、俺を構成していたマナを『アルシャードの明』が取り込んだことによる、ただの残響だ。かつて救世主と呼ばれた男の、最後のお節介――遺言のようなものだと思っておけ」
将は、溢れそうになる涙を堪え、強がりのように口角を上げた。
「なんだよ……。今さら出てきて、十年分のお年玉でもくれるってのか?」
「ああ。もっと良いものをやる」
一臣がゆっくりと霧の中から歩み出る。その瞬間、周囲の空気が一変した。
一臣の背後には、一切の煩悩を焼き尽くす「迦楼羅炎」が激しく立ち昇り、右手には仏敵を打ち砕く「三鈷剣」、左手には迷える衆生を捕らえ正道へと引き戻す「羂索」を握り締めている。
その姿は、まさしく憤怒の形相をもって慈悲を成す、不動明王そのものであった。不動明王は、右手の剣で知恵を妨げる「三毒」を断ち切り、左手の縄で悪心を縛り、背後の炎で、心の曇りである煩悩を焼き尽くすとされている。
「これからおまえの中の、その煮え切らねえ懊悩を焼き尽くしてやる。歯いしばって耐えろよ。……神威あれ、不動明王の炎よ!」
一臣が三鈷剣を中空に振りかざし、鮮やかに「九字」を切る。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
格子状の光が刻まれた刹那、一臣は腹の底から獅子吼した。
「……ナウマクサマンタバサラタンカン!」
その瞬間、猛烈な黄金の炎が爆ぜ、将の全身を包み込んだ。
それは外部からの熱ではない。将の毛穴一つ一つから、魂の奥底へと直接染み込んでくる、根源的な熱量だった。
不動明王の真言は、大いなる慈悲の叫び。迷いを焼き払い、不動の心を得るための儀式だ。将の意識の中で、過去の後悔、未来への不安、自分自身の無力感といった「懊悩」が、黄金の炎に焼かれて霧散していく。
「――が、あああああああッ!!」
熱い。魂が融解するような熱さの中で、将はただ一つ、消えない想いを掴み取った。煩悩が焼かれ、最後に残った純粋な結晶。
「懊悩でも、迷いでも……なんでもいい! だったら、俺は全部を背負って進む! だから……守りたい純がいるんだ!!」
その咆哮に呼応するように、将を包んでいた黄金の炎が、さらに巨大な火柱となって天を突いた。一臣の残した遺言は、確かに息子の魂に火を灯した。霧は晴れ、そこにはかつてない決意を瞳に宿した将の姿があった。




