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春の暖かい日差しが降り注ぐ中、心くすぐられる花の香りに包まれて、アリスは心地良い馬車の揺れからゆっくりと目を覚ました。そっと馬車の外の景色を見ると、きちん手入れされた花々と品よく整えられた木々が太陽の光に反射してキラキラと光っている。馬車の中に目を戻すと、アリスの目の前には微笑みを浮かべたアンナが姿勢よく座っていた。
「よく眠れましたか? お嬢様。」
「ええ。昨日は準備で寝るのが遅くなったから、少し眠ってしまったみたい。アンブローズ公爵のお屋敷はもうすぐかしら?」
「はい。既に公爵家の敷地内ですので、そろそろお屋敷に着くかと思います。」
「そう、いよいよね。」
アリスはゆっくり深呼吸をして、昨晩見たアンブローズ公爵の写真を思い出した。写真の中の彼は端正な顔立ちとスラリとした体格で、漆黒の髪とアメジストのような瞳を持ち、悪戯っぽく微笑んでいるのが印象的だった。まるで子供の心を持ったまま成長したようだ。
今回のパーティーの目的は、パーティーの参加者の中からアンブローズ公爵を見つけ出すことだ。だが今まで見向きもしなかった結婚相手を探すパーティーを開くくらいだから、一筋縄ではいかないだろう。
すると馬車が音を立てて、ゆっくりと止まった。どうやら目的地に着いたらしい。アリスは御者の手を借りて優雅に馬車を下りた。
「アンブローズ公爵邸にようこそ。私はこの屋敷の執事を務めております、ピサロと申します。」
大きな屋敷の前で出迎えたのは、黒い執事服を着た壮年の男だった。栗色の髪と瞳を持ち、柔らかな表情を浮かべて外部から来た客を温かく迎えている。だが格式高い屋敷に相応しく、隙のない仕草や時折見せる鋭い目つきから、既に仕事が始まっているのだとアリスは感じた。
アリスは相手の警戒心を緩めるために、微笑みを浮かべながら答えた。
「こんにちは。私はピチェット子爵家の一人娘、アリス=ピチェットと申します。公爵様のパーティーに参加するため参りました。」
「ピチェット子爵家ですか…。聞いたことはございませんが。」
「南部の田舎にある子爵家ですから、名前を聞いたことがないのも無理はありません。幼い頃に父母を亡くし、母方の祖母の元で育ってまいりました。そのため社交界には縁遠い生活を送っていたのです。ですが公爵様のパーティーが開かれるということを聞き、はるばるここまで参ったのです。」
「なるほど。そういうことでしたか。ですが…。」
「それではこちらをお見せすればよろしいかしら。」
訝し気な表情を浮かべる執事に対して、アリスは懐から皇室の紋章が入った勲章を取り出した。王室の紋章を見ると、内心驚いたのか執事は微かに目を見張った。
「こちらは祖父が隣国フレンツ王国との戦争で戦果を挙げた時に、皇室から授かった勲章になります。この時の戦功を契機に、ピチェット子爵家は男爵から子爵へとなりました。もしこれでもお疑いになるのでしたら、貴族名鑑で私のことを調べて頂いても構いません。」
「いえ、こちらこそ大変失礼致しました。ご無礼を働きましたこと、改めてお詫び申し上げます。パーティー会場までご案内させて頂きます。」
執事は礼儀正しくお辞儀をすると、丁重にアリスをパーティー会場まで案内する。アリスは後ろに控えていたアンナに目配せすると、アンナは微笑みを浮かべた。
ピチェット子爵家というのは、アリスが幾つか持っている偽装用の身分である。実在する子爵家であるが、本来の一人娘は既に幼い頃に病死しており、お金に困った子爵家から可哀想な一人娘という身分を買い取ったのだった。既に子爵家にいた者はみな亡くなっており、アリス=ピチェットという身分はアリスにとって都合が良かった。
執事に促されてパーティー会場の入り口に着くと、そこには既に大勢の人がいた。アリスのようにアンブローズ公爵との結婚を望んでいる年若い淑女のほか、パーティーに招待された貴族夫婦が数多くいた。アリスはざっと会場内を見渡すが、写真で確認したアンブローズ公爵の姿は見当たらない。同じようにパーティーの参加者たちも、アンブローズ公爵がいつ姿を現すのかと、期待や好奇心に満ちた目で周囲を探っていた。
その時だった。他の参加者に気がそれていたアリスは、前から歩いてきた人物に気づかずぶつかってしまい、後ろによろけてしまった。幸いなことに、ぶつかった相手がアリスの手を掴んだことで、床に倒れ込むことはなかった。
「やあ、お嬢さん。またお会いしましたな。」
声につられて顔を上げると、アリスの手を掴んだのは好々爺とした笑みをたたえた老人だった。腰が曲がっているためか、片手には杖をついており、杖には竜の紋様が刻印されていた。年齢を感じさせる皺が顔にあるものの、深い緑色の瞳は優しさを帯び、彼が着ている物も上品な装いだった。
「ありがとうございます。貴方は…?」
「おや、儂のことを覚えておらんのか? お嬢さんと会ったのは、」
「こんなところにいたんですか、伯爵様。」
そう言ってアリスと老人の間に割って入ったのは、年若い青年だった。淡い茶色の緩やか巻き毛とオレンジ色の瞳を持った青年は、老人を探していたのか少し息を切らせていた。
「申し訳ございません、レディ。この方はブリタニア帝国でも名前が知れたラスター伯爵様なのですが、年のせいか近頃記憶も曖昧になっておりまして…。」
「記憶が曖昧とはなんじゃ、イーサン! お前こそ無礼ではないか!」
「イタッ、イタタタッ、や、やめてください! 伯爵様。」
ラスター伯爵は手に持った杖で青年の足をバシバシ叩くと、イーサンと呼ばれた青年は痛かったのか涙目を浮かべた。
「ふん。これくらいで弱音を吐くとは情けない。もう一度鍛えなおしてやる。」
「それは勘弁してください、伯爵様…。」
青年に対して厳しい目を向けていた老人は、アリスに向き直ると困ったように眉を下げた。
「お嬢さんもすまなかったな。」
「いえ、私も不注意でしたので、どうぞお気になさらないでください。」
「そうか。そう言ってくれると助かるよ。どうかパーティーを最後まで楽しんでいってくれ。」
そう言って老人は青年を引き連れて去っていった。アリスが老人の後ろ姿を見ると、老人は僅かに右足を引き摺って歩いていた。彼は足を怪我しているのだろうかと、アリスが考えた時だった。パーティー会場の中央から、執事の声が響き渡った。
「パーティーにお集まり頂きました皆様。本日はアンブローズ公爵家のパーティーにご参加いただき、誠にありがとうございます。本来であれば、この屋敷の主人であるアンブローズ公爵様自らご挨拶とさせて頂くところですが、本日のパーティーの目的は皆様ご存知の通り、公爵様の伴侶となる方を選ぶため、アンブローズ公爵様を見つけ出すことになります。そしていま、既に公爵様はパーティーに参加しております。」
執事の言葉とともに、パーティー会場はざわついた。なぜならアンブローズ公爵と思われる人物を誰も見つけられていなかったからだ。
「皆様が驚かれるのも無理はございません。ですがこれも私の主人が仕掛けたものにございます。私の主人は皆様にこのパーティーを心ゆくまで楽しんでいってほしいと願っております。そのため今回屋敷内にはアンブローズ公爵様がこれまで収集された貴重な品々が並べられておりますので、どうぞごゆっくりとご鑑賞ください。そしてアンブローズ公爵様を見つけ出した方には、こちらの品をお贈りさせて頂きます。」
そう言って執事が懐から取り出したのは、小さな箱だった。執事がゆっくりとその箱を開けると、中には金色に輝く指輪があり、シャンデリアの光に反射してキラリと輝いた。
「こちらは持ち主の願いを一つだけ叶えるという、魔法の指輪でございます。アンブローズ公爵様は、こちらの指輪をご自身の伴侶となる方に是非差し上げたいと申しております。」
魔法の指輪、という言葉に会場は更にざわついた。魔法は過去の神話やおとぎ話に登場するものであり、産業革命で革新的な発展を遂げた今のブリタニア帝国ではいささか信憑性に欠けたが、一部の人の間ではまことしやかに魔法の存在が信じられていた。
「魔法と聞いて、ここにいる皆様の中で信じられない方もいらっしゃるでしょう。ですがこの指輪が本物であるということは、我がアンブローズ公爵家の名誉にかけて保証いたします。ですが、信じるかどうかは皆様次第でございますが。」
そう言って執事は会場内にいる人々を見回す。好奇心で目を輝かせる者、不審そうに眉を顰める者、本物かどうか見極めようと考え込む者。様々な表情を浮かべる観客を見渡して、執事は微笑みを浮かべた。
「パーティーは始まったばかりですが、大変残念なことに本日のパーティーは日没までとなります。そしてこちらの指輪はパーティーにご参加の皆様もじっくりとご鑑賞頂けますように、他の貴重な品々とともにこちらに陳列しております。どうぞこの指輪を手にする幸運なレディが現れますように。それでは皆様、どうぞ心行くまでパーティーを楽しんでくださいませ。」
執事は挨拶の言葉が言い終わると、優雅に一礼した。そして箱から指輪を取り出し、近くにあった小さな展示台に置かれた台座の上のビロードにそっと載せ、上から透明な硝子ケースを被せる。遠目からでも、指輪はシャンデリアの光に照らされて、光り輝いていた。