プロローグ
首都の喧騒から少し離れた、緑濃き丘の中腹に佇む大邸宅。その広間の一室、天井に輝くシャンデリアが燦然と光を放ち、床に敷かれた絨毯には一流の織職人が手掛けた緻密な文様が息づいていた。その空間に、不釣り合いな熱を孕んだ声が響く。
重々しい皮張りの椅子に沈み込むように座った太った男が、対面の女性に向かって怒鳴り声をあげていた。額には汗がにじみ、肥えた顔には赤みが差している。身につけた衣装は贅沢の極みを尽くし、金糸で縫い取られた刺繍が腹の膨らみに引き攣れている。太い指に嵌められた数々の指輪は下品なほどにギラつき、シャンデリアの光を受けて乱反射していた。
その対面、優雅にソファに身を預ける女性は場の緊張などどこ吹く風とばかりに、紅茶のカップを細い指で持ち上げていた。軽装ながらも仕立ての良いドレスは品格を漂わせ、足を組み替える仕草には貴族としての洗練が滲んでいた。喉を潤す動作さえも、まるで舞台の一幕のように美しかった。
「これは詐欺だッ! こんな法外な値段、払えるはずがないッ!!」
男の怒気に満ちた声は、まるで空間の空気すら歪めるようだった。しかし相手の女性は目も伏せず、ただ一口、紅茶を含んでからゆっくりとカップをソーサーに戻した。陶器の触れ合う微かな音が怒声よりも余程、威圧的に響く。
「私は貴方がかの有名な名医、シエラ・ロスハートだと信じて、私の病気の治療を頼んだのだ! それなのに、治療の対価がこんな法外な価格なんて聞いていないぞ!!」
まくし立てる男の声は次第に掠れ、息遣いが荒くなる。贅肉が揺れ、呼吸のたびに胸元の飾りボタンが軋むように震えていた。
女性は微笑を浮かべ、懐から一枚の羊皮紙を取り出す。広げる手の動きは優雅で、しかしその指先には迷いの欠片もない。
「詐欺だなんて、そんなご冗談を。私は契約通り、貴方の病を癒し、その対価として貴方の財産を頂く……それだけですわ。」
紙を突き出すと、その一角にくっきりと、男の筆跡が浮かんでいた。
「そ、そんな契約書は無効だッ!!」
「まあ……無効? 困りましたわね。けれど、ここに貴方のサインがあります。健康は、財産に勝る贈り物。貴方は既に、それを受け取っている。ならば、報酬を支払うのは当然でしょう?」
「くッ……!」
唇を噛み締め、男は肩を震わせた。屈辱に身をよじらせながら、彼は椅子の肘掛けに指を食い込ませる。だが次の瞬間、怒りが臨界を超える。
「おいっ、お前たち! この女を殺してしまえ!」
背後で控えていた二人の護衛が即座に動く。厚い胸板を揺らして進み出る彼らは、甲冑をまとわずとも剣の柄に手をかけたその気迫だけで、常人なら後ずさりするだろう。剣の刃は光を呑み、まるで獣の牙のように鈍く冷たく光っていた。
だが―。
「アンナ。」
彼女の背後で黙って立っていた侍女が、主の声に応え、静かに一歩前に出る。
「はい、お嬢様。」
「こいつらを片付けなさい。」
「かしこまりました。」
その言葉が終わるや否や、侍女―アンナは疾風のように動いた。長いスカートの裾がわずかに翻ると同時に、護衛の懐に飛び込み、鋭く握った拳が鳩尾を撃ち抜く。鈍い音とともに男が呻き声をあげて膝をつく間もなく、もう一人の剣が上段から斬り下ろされる。
しかしその刃が落ちるより早く、アンナの体が半身を捻る。返す掌底が鋭く顎を穿ち、硬い音と共に男の体が弾け飛ぶように崩れ落ちた。
息をのむ間もない一連の動作に、太った男は目を剥いて固まっていた。信じがたい光景が、わずか数秒のうちに完結する。
部屋は静寂に包まれる。血の匂いもなく、床に崩れた護衛たちの寝息だけが残る。
「清掃が完了しました。お嬢様。」
「ご苦労さま、アンナ。」
女性は契約書を再び懐に収めると、まるで茶会の続きを促すかのように、にこやかに微笑んだ。
「さて。話の続きをいたしましょうか?」
「ヒィッ……!」
もう逃げ場がないと悟った男は、椅子に縋るようにして震えながら、自分の財産の在り処を白状するしかなかった。
屋敷の地下へと続く階段を、二人の女が静かに降りてゆく。手にした真鍮のランプが、長く湿った石の壁を淡く照らし、その炎は揺らめきながら陰影を刻んでいた。空気は冷たく重く、微かに鉄と苔の匂いが混じる。
「多少の抵抗はあったけど、予定通り、あの男の財産も手に入ったし……今回も、順調に終わりそうね」
先を歩く女は、涼やかな声でそう呟いた。足取りは軽やかで、何一つ恐れを感じさせない。
「はい、お嬢様。お怪我もなく、何よりでございます」
その背に付き従う侍女が、控えめに答える。音のしない靴音が、階段の石に柔らかく吸い込まれていった。
「ええ。そしてあとは……ここの人たちの解放だけね」
彼女たちは、怯むことなく闇を裂き、深淵へと歩を進めていく。やがて階段の終わりが見え、冷え切った地下の空間が現れた。
それは巨大な地下牢だった。低く重い天井には小さな明り取りの窓が一つ。そこから射し込む陽の光は薄く、囚われた闇に針のように差し込んでいた。黒々とした鉄格子がランプの光を鈍く反射し、不気味に浮かび上がる。
「子供たちの行方不明が、人身売買だったなんて……領民たちは、夢にも思わないでしょうね」
女はそう呟くと、腰から下げた鍵束の中から一つを選び取り、牢にかかる古びた錠前に差し込んだ。カチリ――と乾いた音が闇を裂く。鉄の扉が軋みながら開いた瞬間、小さな体がいくつも、奥の影から怯えたように身を寄せて現れた。
「さあ、あなたたちはもう自由よ」
優しく呼びかける声に、子供たちは目を瞬かせながら、戸惑いを見せる。
「うぅ……お姉ちゃんは、誰……?」
一人の子供が、か細い声で問いかけた。その問いに、女は目を細め、ふっと唇の端を持ち上げる。
「そうね。私は――詐欺師よ」
まるで謎を含ませた魔術師のように、彼女は笑った。