鯛めしの伝言 〜時を超えて繋がる心の故郷〜
東京の喧騒に疲れ果てていた。
私、佐藤美咲——28歳のフリーランスフォトグラファー。雑誌の写真特集や企業の広告写真を撮ることで何とか生計を立てていたけれど、最近はシャッターを切る手が重かった。
「この仕事、向いてないのかな」
そんな疑問が頭をよぎる日々。締め切りに追われる毎日で、カメラを持つことすら億劫になっていた。
写真を撮ることが好きで、大学を出てすぐにアシスタントになった私。両親の反対を押し切り、安定した就職先を蹴って飛び込んだ世界だったのに。
高層ビルの谷間で、人々は足早に行き交い、私はその波に揉まれて少しずつ自分を見失っていた。
「何か、違う」
そう思っていた矢先、祖母が他界した。最期に会えなかった罪悪感と共に、幼い頃に連れて行ってもらった瀬戸内海の記憶が蘇ってきた。
「あそこに行けば、何か見つかるかもしれない」
思い立ったが吉日。カメラバッグだけを持って、私は東京を後にした。
船が島に近づくにつれ、心が静まっていくのを感じた。どこまでも広がる青い海と空の境界線がぼやけて、まるで世界が溶け合っているようだった。
島に降り立った瞬間、潮の香りと共に懐かしさが押し寄せてきた。思い出せないはずの記憶なのに、体が覚えていた。
「やっぱり来てよかった」
潮風が髪をなでる。カメラを構えれば、いつもよりも自然とシャッターを切る手が動いた。
段々畑が緑のパッチワークのように広がり、白壁の家々が点在する風景。路地を歩けば、どこからともなく猫が現れ、私についてくる。
「こんにちは」と声をかけると、尻尾を立てて逃げていった。その仕草にくすりと笑う自分がいた。東京では笑うことさえ忘れていたのに。
夢中でファインダー越しの世界に没頭していると、いつの間にか太陽が頭上を通り過ぎていた。ぐぅっと腹が鳴る。
「お嬢さん、お昼はまだかね?」
振り向くと、畑仕事の手を休めた老婦人が微笑んでいた。シワの刻まれた顔が優しい。
「良かったら、港の『みなと食堂』に行ってみなさい。今の時期なら、鯛めしが絶品よ」
礼を言って、教えられた方角へ歩き出す。石畳の坂道を下ると、港が見えてきた。そこには、時代に取り残されたような古びた木造の建物があった。
「みなと食堂」——木製の看板が潮風に揺られている。
少し緊張しながら引き戸に手をかけると、かすかに軋む音と共に、中から元気な声が飛び出してきた。
「いらっしゃい!待っとったよ!」
太陽のような笑顔の女将さんが迎えてくれた。まるで、私の到着を本当に待っていたかのような温かさに、胸の奥がじんわりとした。
「あら、カメラマンさん?島の写真でも撮りに来たん?」
的確な観察眼に少し驚きながら、私は頷いた。身体も心も空っぽになりかけていた私が、この島で何を見つけるのか——その答えは、これから目の前に広がる瀬戸内の恵みと、人々の優しさの中にあるのかもしれなかった。
そこには、忘れていた何かが、私を待っていた。
店内は、漁師らしき男性や地元の人々で賑わっていた。
「せっかく来たんだから、うちの鯛めし食べていきなさい。今朝獲れたばかりの真鯛を使ってるよ」
女将さんの誘いに、美咲は素直に頷いた。ふと見上げると壁には、手書きのメニューと共に、色あせた写真が飾られていた。
「あら、気になる?あれはね、30年前にここに来た写真家が撮ってくれたものよ」
女将さんの説明に、美咲は驚いた。写真には若かりし日の女将と、今は亡き美咲の祖母が写っていたのだ。
「もしかして……和子さんのお孫さん?」
思いがけない繋がりに、美咲の目に涙が浮かんだ。祖母が話していた「人生を変えた島の食堂」が、ここだったのか。
しばらくして運ばれてきた土鍋。蓋を開けると、鯛の芳醇な香りが立ち上った。
「召し上がれ、熱いうちにね」
ふっくらと炊き上げられた鯛めしは、見た目以上の味わいだった。上品な脂の甘さと、出汁の旨味が口いっぱいに広がる。
「これぞ本物の鯛めし……」
箸を止められなくなった美咲に、女将はニッコリ笑った。
「和子さんも、そう言っていたよ。あの頃は今よりずっと若かったけど、あなたと同じ表情してたわ」
隣の席の漁師が、ふと口を開いた。
「写真は、記憶を残すものじゃろう。でも味の記憶は、体が覚えるもんじゃ」
美咲は、その言葉に深く頷いた。カメラでは切り取れない記憶があるのだ。
食後のお茶を飲みながら、美咲は祖母の話を聞かせてもらった。同じ28歳の時、行き詰まりを感じていた祖母がこの島に辿り着き、この食堂で何かを見つけたという。
「明日は、早起きして朝市に行きませんか?鯛を仕入れる所を見せてあげるよ」
予定もなく島に来た美咲は、女将の誘いに心躍らせた。
宿に戻る道すがら、美咲は今日撮った写真を見返した。東京では見つけられなかった、自分の"目"が写真に宿っていた。
海の上を滑る夕陽が、明日への期待を膨らませる。美咲の魂は、この島で少しずつ彩りを取り戻し始めていた。
翌朝、美咲は約束通り早起きして港の朝市へ向かった。
まだ東の空が薄紅色に染まる頃、港は既に活気に満ちていた。大小の漁船が次々と帰港し、威勢の良い掛け声とともに新鮮な海の幸が水揚げされていく。
「美咲ちゃん、こっちこっち!」
女将の春子さんが手を振っていた。彼女は漁師たちと親しげに談笑しながら、目利きで魚を選んでいた。
「この島の朝市は、子どもの頃からずっと変わらないのよ。季節によって獲れる魚は違えど、人々の繋がりだけは昔のままさ」
美咲はシャッターを切りながら、その言葉に深い意味を感じた。東京では失われてしまった、人と人との温かな絆がここにはあった。
「あら、健さん。今日も良い鯛ね!」
春子さんが声をかけたのは、昨日も食堂にいた無口な老漁師だった。
「ああ。今朝は良い潮目じゃった。これを持っていきなされ」
彷彿と輝く真鯛を、老漁師は美咲に手渡した。突然のことに戸惑う美咲に、健さんは静かに語りかけた。
「和子さんの孫なら、これを持って行きなさい。島の写真を撮るんじゃろ?」
美咲は思わず涙ぐんだ。祖母の名前が、この島では鍵のように扉を開いていく。
朝市の後、春子さんに案内されて島を巡った。灯台、小さな神社、そして祖母が愛したという入り江。
「和子さんはね、ここで島の絵を描いとったのよ」
美咲は初めて知った祖母の一面に、胸が熱くなった。写真と絵画。表現手段は違えど、同じ景色に魅せられた二人の女性。
夕方、食堂に戻ると春子さんは美咲を厨房に招き入れた。
「今日は鯛めしの作り方を教えるわ。和子さんも覚えて帰ったんだから」
出汁を取り、鯛を捌き、米を研ぐ。一つ一つの工程に、春子さんの人生が刻まれていた。
「料理は思い出を作るもの。誰かのために作るから、特別な味になるんよ」
その夜の鯛めしは、美咲が春子さんと一緒に作ったものだった。一口食べると、不思議と祖母の温もりが蘇ってきた。
「美咲ちゃん、明日は島を一周する漁船に乗せてもらえるよう手配したわ。きっと素晴らしい写真が撮れるはず」
三日目の朝を迎える美咲の心には、もう迷いはなかった。この島で、彼女は少しずつ自分を取り戻していた。
島を一周する漁船の上で、美咲は息を呑んだ。
「こんな景色、今まで見たことがない」
朝靄に包まれた島々が、まるで水墨画のように浮かび上がる。波間に朝日が踊り、漁船の航跡が銀色に輝いていた。
「いい写真が撮れそうかね?」
舵を取る健さんが、静かに微笑んだ。
「はい。でも、写真だけじゃ伝えきれないものがあります」
美咲の言葉に、健さんは満足そうに頷いた。
「和子さんも同じことを言うたよ。だから彼女は絵も描くようになった。一つの表現だけじゃ、心の全てを表せないとね」
島の東側に差し掛かると、健さんはエンジンを落とした。
「ここが、和子さんが最後に来た時に、私と二人きりで釣りをした場所じゃ」
突然の告白鯛めしの伝言 〜時を超えて繋がる心の故郷〜に、美咲は息を飲んだ。
「実は、私と和子さんは…特別な仲だった。でも彼女には東京での生活があった。島に残ることはできんかった」
健さんの瞳に、50年の時を超えた想いが宿っていた。
「亡くなる前に、和子さんから手紙が来とった。『孫の美咲が、きっといつか島に行く。その時は、島の本当の姿を見せてやってほしい』とね」
美咲は震える手でカメラを構えた。健さんの横顔、彼が見つめる海、そして二人を包む朝の光—祖母が愛した全てを写し取りたかった。
「健さん、祖母は…幸せだったんですか?」
その日の夕暮れ、みなと食堂で春子さんが土鍋の蓋を開けると、いつもと違う鯛めしが姿を現した。
「これは…」
「和子さんのレシピよ。彼女が考案した特別な鯛めし。健さんへの想いを込めて作ったものだけど、一度も彼に振る舞うことはなかった」
美咲は口に含んだ瞬間、祖母の想いが溢れ出すのを感じた。鯛の旨味に、かすかな柚子の香り。そして隠し味のような、ほろ苦さ。
「これが、祖母の『忘れられない味』」
美咲は健さんと春子さんに促され、祖母の遺した手紙を読み上げた。
「私の人生は、この島で見つけた『本当の幸せ』と、東京で選んだ『現実の道』との間で揺れ動いていました。でも今なら分かります。どちらも私の一部だったのだと」
一週間の滞在を終え、美咲は東京へ戻る船に乗った。だが、以前の彼女ではなくなっていた。
カメラバッグには、島で撮った写真と祖母の絵、そして春子さんから託された鯛めしのレシピが入っていた。
東京に戻った美咲は、フォトグラファーとしての活動を続けながら、月に一度だけ「瀬戸内の記憶」と名付けた小さな食堂を開いた。そこでは祖母のレシピで作った鯛めしを振る舞い、島の写真展を開催している。
彼女のブログ『フォトグラファー美咲の瀬戸内だより』は、都会の喧騒に疲れた人々の心の拠り所となっていった。
美咲は今、季節ごとに島を訪れる。健さんと春子さんは彼女を家族のように迎え、かつて祖母が感じた島の温かさを分け与えてくれる。
「私にとっての『幸福』は、この島と東京、どちらか一方を選ぶことではなかった」
静かな港で夕陽を見つめながら、美咲はシャッターを押す。
ファインダーの向こうには、祖母が遺してくれた「心の故郷」が、いつまでも変わらぬ姿で佇んでいた。
# あとがき:『鯛めしの伝言 〜時を超えて繋がる心の故郷〜』
みなさん、こんにちは!「美味探訪記」管理人の星空モチです。今回の小説はいかがでしたか?
実は、この物語のきっかけは私自身の瀬戸内海への旅行でした。東京の慌ただしさから逃れて訪れた小さな島で、私も「みなと食堂」のモデルとなったような小さな食堂に出会ったんです。あの鯛めしの味は、今でも舌の記憶に残っています。美咲の感動は、そのまま私の感動でもあるんですよ!
物語の主人公を写真家にしたのは、食と同じく「切り取る技術」が必要な職業だからです。私たちフードブロガーも、料理の一瞬の輝きを切り取って伝えようとしますよね。でも、本当の味は写真だけでは伝わらない...そんなもどかしさを美咲に投影してみました。
物語に登場する「祖母の遺した味」というテーマは、私の祖母から教わった郷土料理への思いが込められています。祖母は既に他界していますが、彼女の作ってくれた田舎汁の味は、どんな高級レストランの料理よりも私の心に残っています。みなさんにも、そんな「忘れられない味」があるのではないでしょうか?
執筆中、一番苦労したのは島の情景描写です。何度も資料を見返し、実際の島の写真を眺めながら書きました。そして健さんと和子さんの切ない恋物語は、島で聞いた実話をヒントにしています。(詳細は秘密です。)
この物語を通じて伝えたかったのは、「食べ物には記憶が宿る」ということ。誰かと共に食べた料理、特別な場所で味わった一品は、単なる「おいしい」を超えて心に刻まれます。私たちが「おふくろの味」に涙するのも、そのためかもしれませんね。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。皆さんの「心の故郷」となるような味は何ですか?SNSのリプライやコメント欄で教えてくれると嬉しいです。美味しい思い出で、また繋がりましょう!