第八話 PTSD
俺たちは、都内の某メンタルクリニックに訪れた。
「記憶が喪失したのは、いつ頃からですか?」
「あ、えっと..。死ぬ前、、じゃなくて一昨年くらいから」
優しそうな笑みを終始絶やさない女医さんが質問すると、
ガッチガチに身を縮こませた彼女が回答していく。
「過去に頭を怪我した事だったり、
時折、頭痛はあったりするかしら?」
「ありません」
「七瀬さん」
「はい....」
医師は何かを察したのであろうが、特段調子を
変えることもなく話を続けた。
「もしかしたら、ptsd(心的外傷後ストレス障害)かもしれないわね」
「え..」
予想外だったようで、七瀬の表情が曇った。
「でも、発作も、息切れもないってさっき..」
「無自覚な場合もあるのよ」
ピシャリと告げられ、彼女は沈黙した。
「記憶障害の程度を確認するわ。
過去について、断片的にでも、思い出せる事を紙に書いてくれないかしら?」
「....はい」
・私は海が好きで、よく波打ち際で遊んでいた。
・セーラー服姿に憧れて、女子校に入った。
・放課後、学友と近所の映画館で上映された
海外製の映画を見る事が、楽しみだった。
「..」
七瀬は箇条書きに、ペンを走らせていったが、
書かれた内容はトラウマとは無縁の幸福に満ちたものだった。
・ある日、無数の黒い点がそれを埋め尽くした。
・暑く、暗く、運び込まれてくる人達は皆....
そんな時だった。七瀬の呼吸が次第に激しくなっていった。
「はぁ..。はぁ....」
苦しそうに頭を毟りながら、荒々しい文字で、
純白の紙に書き殴るかのような乱暴な手つきだった。
・炭酸ガスと、膿の臭いがした。
・顔の潰れた兵隊が、手榴弾で自殺した。
・同じ歳くらいの男の子の、手を切断した。
・毒ガスが投げ込まれ、同級生が死んだ。
・友達を捨てて逃げた。
「はぁ....。はぁ」
「七瀬..。さっきから何書いてんの?」
「うるさい!!!」
ポロッと、彼女の手からペンが落ちた。
「黙って!」
メモ用紙をビリビリに破く彼女の動悸は収まらなかった。
「七瀬さん。落ち着いて、深呼吸をするの..」
しかし、医師の指示のもとで深呼吸を繰り返し、
数秒の後ようやく平静さを取り戻した。
「ごめん..」
「え..」
「さっき、あんな大声で怒鳴ってしまったこと」
「べ、別に良いよそんなの! 気にしてないから!」
「....」
それでも、彼女はまだ納得しておらず、何度か謝罪をした。
自分の感情に収集をつけるのは、まだ長い時間がかかりそうだった。
「....。ホットスポットという言葉はご存知かしら。
ptsd発症のきっかけとなった過去のトラウマの事なのだけれど」
医師が話し始めると、七瀬はこう尋ねた。
「わ、私って、異常なんですか?」
「ううん。七瀬さんは異常じゃないよ..」
そう言って、医師は彼女の肩に手を乗せた。
「人間の心はとても複雑なの。
”些細”なことがきっかけでも、大きなトラブルに繋がりかねない。
けれど安心して。ちゃんと治すことも出来るから」
「どうやって..」
「それは、あなたが自分の過去と向き合う事。
向き合って、欠けたパズルを埋めるように整理し、繋ぎ合わせる」
「....。出来ますかねぇ..」
弱々しい口調の七瀬は、いつになく覇気がなかった。
「出来るよ! あなたなら大丈夫!」
「はい....」
その後、彼女のためにと処方された抗うつ薬を購入。
不安症がひとまず落ち着いた頃合いを見計らい、
二人で帰路に着く途中、俺は彼女に呼び止められた。
「康太はさ、私がどんな人間に見える?」
何の脈絡もない不可解な質問だった。
答えるのに、少しだけ迷った。
「明るくて..」
「違う!! そういうんじゃない..。
ねぇ、私って変でしょ? おかしいよね....」
「変でもないし、おかしくもない」
「....」
「七瀬は七瀬だよ。例え、どんな辛い過去があろうが、
それに変わりはない。だから....」
「だから?」
「とりあえず帰って、なんか作ってよ。
料理でもすれば、良い気分転換にもなると思うよ!」
「うん..」
暗かった彼女の顔が、少しだけ綻んだ。
「じゃあ、美味しい”カップ麺”を作ってあげるね!」
「え..?」
「『え?』って何? 私、料理の経験ないから、
作れるのはカップ麺だけだよ」
「....。カップ麺を作るとは言わないだろ..」