97. 民衆蜂起
時は再度、少しだけ遡る。
ルッケルトでファニングスはオーサークに向かうジンたち一行を見送った後、穀物が納品されるまで三日待って、それから商隊と共にファルハナに向けて出発した。ファルハナ近郊のラオ男爵家代官領に到着したのが、ジンたちがパーネル城に滞在していた日だった。
「ファニングス、よく戻った!」
ノーラの父、ガネッシュがファニングスの帰還を喜んだ。しかも大量の芋と麦を携えていた。
「ファニングス、これは?」
「ええ、ガネッシュ様。これはラオ様から頼まれていたファルハナへの食料です」
「お前も分かっているだろうが、これを持っていけばノオルズ殿下にすぐに接収されてお終いだぞ」
「それは分かっています。だから、ここに持ってきました。分からないように少量ずつ商隊に扮して街に持ち込む予定です」
「分かった。考えなしにやっていることじゃない、と言うことが分かればそれでいい」
ガネッシュも現状を憂いていたが、食料不足は金で解決できることではなかった。ないものは買えないのだ。そこに来て、ファニングスがこれだけの量の食料を持って帰ってきてくれたことはファルハナの民にとって大きな助けになるはずだ。
◇
ファニングスは、商人に扮する代わりに、本物のファルハナの商人にルッケルトでの仕入れ値のおおよそ倍値で少しずつ売却していった。
(こう高値だと庶民には食料が行き渡りづらいかもしれないが、ただで渡せばすぐに足がつくしなぁ。これしか方法がない)
無料の炊き出しなどをファルハナでやれば、すぐにノオルズの兵がやってきて、「何事か?」となるだろう。そんなへまは打てない。商人が相場通りに食料を流通させるしか方法はないのだ。
ラオ男爵家にとっては奇しくも願ってもない形で移民団に持たせた五十万ルーンはすでに半分ほど回収していた。
そんな折に、代官領を訪れた者がいた。
「ガネッシュ様にお目通り願いたい」
近衛兵団長のアジィスだった。すぐにラオ家私有の屋敷であるところの代官屋敷に通された。
「ガネッシュ様。ファルハナの民は飢えております。ここラオ家には蓄えがあると聞いてまかり越しました」
ガネッシュはアジィスの口上を聞いて、どの口が言うんだ、と思わず言いそうになったが、堪えた。食料を民から接収して、自分たちだけが食うものに困らないノオルズ公爵たちなのだ。ここから食料を持っていったとして、民にそれが渡ることはないだろう。
「アジィス殿、ファルハナの窮状はそこまででしたか。我が家の蓄えなど高が知れておりますが、民の役に立つのであれば」
アジィスは騎士爵を賜った一代限りの貴族であった。元男爵であるガネッシュに対しては一応の言葉上の敬意を示していたが、言っていることを要約すると『景気がよさそうじゃないか、蔵の中の食料をよこせ』だった。
「これはこれは、さすがのラオ家ですな。男爵家にすぎないのに、身代は侯爵にも負けないと聞いておりましたが、まさにその通りですな」
「それは買被りです。アジィス殿……ファニングス、アジィス殿を蔵に案内せよ」
ファニングスは機転を利かせて、自分が持ってきた食料が保管されている蔵ではなく、常日頃からラオ男爵家として自分たちの食料に使用している穀物が保管してある食糧庫に案内した。そして、それが仇となった。
「おお、りっぱな蔵ですな、ファニングス殿。ただ自分が想像していた食料の量と全く違いますな。これでは百人が冬を越せる量もない」
アジィスは軍人だ。糧食を一目見れば、何カ月自分の兵が過ごせるかすぐに理解できた。彼が見ていたのは、男爵家代官領の使用人たちが無理せずに冬を越せるためだけの量が蓄えてある蔵だった。アジィスからみれば、この食糧難の冬に気前よく商人に売るのであれば、少なくともこの倍の量がなければそんなことはできない。
「アジィス殿、すでに我が家としての余剰分はファルハナ出入りの商人たちに売り払ってしまった後ですから」
「ファニングス殿、まあ、そう言うことにしておきましょう。この件は殿下に伝えておきますから、いずれ何らかの沙汰があるでしょう」
そう、一言脅すと、その食料庫の分だけ接収して、アジィスはファルハナに帰って行った。
◇
その結果がラオ男爵とその両親、ガネッシュとシェイラ、それにラオ家の騎士たち、ナッシュマンとファニングスの逮捕だった。
〈貴重な食料を隠匿した罪〉が罪状だった。ファルハナの民にもラオ家の罪状は公表された。
ノオルズ公爵にとって、ファルハナの民とラオ男爵家の間の良好な関係を絶つ〈離間の計〉であって、また、鉄砲の秘密を暴く目的を果たす、一石二鳥の策だった。
ノオルズ公爵とその取り巻きが、いまひとつ計算出来てなかったのが民に与える自分たちの印象だった。ファルハナの民は一昨年末のノオルズ公爵の徴税を覚えていたし、野盗の襲撃に苦しんでも一切手を差し伸べてくれなかったことも覚えていた。そして、南部アンダロスが壊滅すると我が物顔でファルハナに入ってきて、また徴税の名目で食料やら金品やらを巻き上げていかれた。こんな王族の言うことに誰も耳を貸さない。
封建社会では与えられる保護と課される徴税がバーター取引になっている。保護してくれない貴族やら王族に徴税されるとしたら、それは単なる略奪なのだ。
その上、この冬の寒さは例年以上だった。寒さとひもじさはノオルズ公爵に対する怒りに変わっていった。
◇
警ら遁所の地下牢には最低限の明りを取り入れるため、二十テノルほどの幅がある、スリット状の隙間が地上向けて設けられていた。
ノーラはその隙間から、外界で何かが起こっていることにすぐに気が付いた。
シュプレヒコールのように、人々が集団で声を上げている。ノーラのいる地下牢では、最初それが何を言っているかよくわからなかったが、声が次第に近くなってくるに従って、内容が聞き取れるようになってきた。
「「「「「食べ物をよこせ! ラオ男爵を解放しろ!」」」」」
人々の声はだんだん近くなってくる。ということは、このデモ隊だか何だかの集団は領主館に向かって歩いてきているのだろう。
牢の真上で兵たちの声も聞こえ始めた。急遽、何らかの対応を取るべく、近衛兵や、ノオルズ公爵がファルハナへの道中で糾合した貴族の兵たちが動き始めたようだった。
「下がれ! この門に取り付けばそれは犯罪人だ。我らは処刑をためらわないぞ!」
兵たちも恐怖を感じているのだろう。たった三、四十人で民を治めていたノーラだったが、今、この兵たちが感じている恐怖を感じたことは一度だってなかった。なのに二千人もいる兵たちは民衆に怯えていた。
「おお! やってみろよ!」
ノーラにすべてのやり取りが聞こえてくる。スリット状の光取りから、ほんの数ミノル先で起こっていることなのだ。ただ、その状況は全く見えない。ノーラは地下にいて、スリットからはただ空が見えるだけだったのだ。
「てめえ、門扉に触りやがったな。その汚ねぇ手を門から離せ!」
兵も激高している。民衆も大声で抗議するのをやめない。多くの人々の声が混ざり合って、領主館や政庁を囲む鉄柵の外側は混とんとした状況になっていた。門扉をつかんで離さない男も後ろにいる民衆の声を味方に付けて強気だ。
「離すもんか! ここは俺たちの街だ。勝手に南から逃げ込んできて、俺たちの食料まで奪いやがって。俺たちのラオ男爵と食料を返せ!」
その瞬間、急に人々の声が止んだ。
止んでから、それは悲鳴に変わって、悲鳴は怒号に変わった。さっきから声を上げていた兵が、門扉を掴んで離さなかった男の腹を門扉越しに剣で貫いたのだ。
もはや、誰が何を言っているのか分からない。人々の怒号は天にも届かんばかりだ。こうなれば、門扉は関係ない。鉄柵を大勢の人々が一斉によじ登り始めた。
制圧しようと柵を乗り越えた人々を手に掛ける兵たちだったが、次々に人々が柵を乗り超えてくる。
そして、無事乗り越えた男の一人が内側から門扉の閂を外した。これを契機に数千人のファルハナの民たちがなだれ込み始めた。
兵たちは最初、剣を振るい柵を乗り越えた非武装の街の人たちを殺害していたが、閂が外されて、門扉が開くと、それも間に合わないほどの大勢の人々がなだれ込んできた。
なだれ込んできた集団に、兵たちは後ずさりしていたが、最初の一兵が脱兎のごとく逃げ始めると、雪崩を打って皆、領主館の本館に向かって逃げ始めた。
人々はそれを追いかける。兵たちは剣を持っているが、民衆にそれに対する恐怖は全く見られない。怒りと集団心理が彼らの恐怖心を麻痺させていた。
怒り狂った民衆は、ついに領主館の中にまでなだれ込んだ。もはや止める術はない。二千人の兵と言っても、それが領主館の建物の中でノオルズ公爵を守っているわけではない。非番の者たちや、警ら遁所や兵舎に詰める者たちもここにはいない。数千人の民衆はノオルズ公爵を探して、領主館の中を血眼になって探し始めた。
◇
「いったい何事だ!」
民衆がシュプレヒコールを上げ始めた時、ノオルズ公爵は領主館の居間にいて、この騒ぎに驚いた。この時点ではアジィスはすぐに鎮圧できるはずだと考えていた。
「殿下、申し訳ございません。馬鹿者どもが王国への恩を忘れ、騒いでおるのです」
「鎮圧せよ。放っておけば王国の威信に傷がつく!」
しかし、領主館の周りの鉄柵が突破されると、ノオルズ公爵は突然弱気になり始めた。
「おい、アジィス、逃げるぞ!」
「殿下、いったいどこへ逃げるのでしょうか?」
「どこでもだ! こういう領主館には民衆の蜂起や敵の侵入に備えて隠し脱出路があるはずだろう」
「殿下、そう言ったものがあるかもしれませんが、私はそれがどこにあるかは知りませぬ」
「この、役立たずめ!」
息を荒げて、ノオルズ公爵はアジィスを罵った。
政変を経て、やっとつかんだはずのアンダロス王の地位は王国自体の崩壊と共にいま消え去ろうとしている。
「殿下、よろしいでしょうか。こうなれば、多勢に無勢です。民を殺せば殺すほど、殿下の助かる道は狭くなってくるでしょう。だからと言って、この狭い領主館を逃げ惑い、最後に謀反を起こした連中に掴まったとあらば、殿下の威信は地に堕ちてしまいます。どうか、ここはバンケットルームの首席か、執務室の執務机で堂々としておいてください」
「威信がなんだ! 余が捕まってしまえば王国はお終いではないか!」
「殿下、どうか、私にもその恥ずかしい姿をお見せにならないように! 威信を保って生きてさえいれば、また再起の機会は訪れましょう。みっともない姿をさらせばその機会すらも失います!」
「もうよい! もうよい! 余は逃げるぞ!」
ノオルズ公爵は青くなった顔に脂汗を流しながら、そう叫ぶと、一人部屋を飛び出した。そこでノオルズ公爵を探し回る民衆に一団に出くわした。
「あいつじゃないか!」
王位継承権一位、津波の時にダロスにいたはずの王の安否が定かではない中、実質、この滅びゆく王国の王はノオルズ公爵だった。しかし、今や彼は民衆に取り囲まれ、殴る蹴るの暴行を受け、うずくまりながら、恐怖と苦痛に耐えるしかなかった。