96. ファルハナ
マルティナは普段、一度寝てしまうと何があっても起きられないタイプだったが、その冬の夜は手足が火照ってムズムズして、眠りが浅かった。そこに寝室のドアをガリガリとひっかく音に目が完全に覚めた。
「ツツ?」
マルティナはそう言いながらドアを開けると、ツツはマルティナを無視して、一目散に寝室の出窓に走って行って、窓の外を睨んで、低いうなり声をあげた。
マルティナはそこで気が付いた。誰かが侵入しようとしているのだ。すぐに小声で電撃魔法のスペルを詠唱して、いつでも放てるように魔力を体の内側に溢れさせた。
賊は二人だった。中を窺うようにガラス窓の外から顔を覗き入れた瞬間、マルティナの電撃魔法が窓ごと二人を吹き飛ばした。
二階の屋根から転落した二人は、庭の芝生の上で意識を失った。
物音に気付いて、眠りから覚めたジンとクオン夫妻が二階のマルティナとリアの寝室に入ると、リアとマルティナ、それにツツが窓を失って冬の冷たい空気が入り込む部屋に佇んでいた。
「どうした? いったい何があった?」
ジンは異常があったことは分かるが、まだそれが何かわからなかった。
「侵入者がいたの」
マルティナが応えた。
「そんな連中はどこにも見えないが……」
「たぶん、庭で転がっているか、死んでる」
◇
真夜中ではあったが、騒動に気づいて家の皆が庭に出てきた。
二人の内、一人は二階からの落下の際、頭から落ちたのだろう、首の骨が折れて、すでに事切れていた。もう一人はガラスの破片で顔に大きな傷を作っていたが、意識もあり、必死に逃げようとしていたが、落下の衝撃で思うように体が動かないようだった。ジンは彼の背中から馬乗りになって、すぐに取り押さえた。
真夜中と言うこともあって、オーサークの政庁に引き渡すこともできない。ひとまず手足を厳重に縛って、猿轡を噛ませて、自害もさせないようにした。明日の朝、引き渡せばよいだろう。
ジンにはマルティナが狙われたとは思えなかった。狙いは間違いなくニケだと感じていた。それも、目的はニケの殺害ではなく拉致だったはずだ。やはり、どこかから触媒液の話が漏れているに違いない。
そして、最も重要なことはこの連中がどこの工作員か、ということだった。スカリオン公国ならそんな面倒なことはしないはずだ。そうする前に、触媒液の作り方を真正面から問い詰めるに違いない。そうしないのは、現状その必要がないからだ。火薬はすべてスカリオン公国の物になっているのだから。
であれば、ラスター帝国かノオルズ公爵のいずれかだ。
「帝国かノオルズ公爵か、どっちかだな」
ジンが呟くと、マルティナが話し始めた。
「帝国ではないと思うよ。帝国に鉄砲のことが伝わっていたとしても、それと触媒液、それがニケが作っていて、ニケしか作り方を知らない、なんて情報を得ているとは思えないもん」
「だな。なら、ノオルズか」
マルティナは黙って頷いた。
◇
翌朝、ジンは工作員を柱に縛り付けていた部屋に行くと、工作員は唯一自由になる頭を上げて、ジンを睨んだ。
「まあ、そう睨むな。お前には聞きたいことが山ほどあるが、ひとまず、オーサークの政庁に引き渡すことにするぞ。舌を噛み切って死のうなんてことを試すんじゃないぞ。あんなのでは死ねないからな。ただ痛いだけだ」
ジンは非情な言葉をかけた。ちょうどそんなタイミングで、リアが朝早くから走って呼びに行っていたマイルズが到着した。
「マイルズ、朝早くからすまないな。こいつを領主館まで連れて行くから手伝ってくれ」
「ああ。あらかたリアから聞いた」
「では、縄を解くぞ。暴れたら、蹴り倒してくれ」
マイルズもジンの言い様に少し驚いた。
「お……おお。分かった」
ジンにはニケが狙われたという事実がどうにも許せなかったのだ。
◇
領主館で尋問が行われたが、工作員は名前すら明かさなかった。ただ、彼が持っていた短剣がファルハナでよく見かける物だった。
マイルズがヤダフの元に持っていくと、すぐに判明した。
「ああ、マイルズ、これは俺が打った物だ。こんな使われ方をするとは癪だが、物には罪はない」
この工作員がファルハナから来たとなれば、それはノオルズ公爵が鉄砲の存在をすでに察知して、その秘密と共に移民団をここスカリオン公国に逃がしたのがラオ男爵である、と嗅ぎつけた可能性があるということだ。人の口には戸が立てられない、とは思ってはいたが、ここまで早いとは思っていなかった。
「やはり帝国ではなかったか。ファルハナか……まあ、鉄砲の話がノオルズに伝わるのは時間の問題だと思っていたが、思っていたより早かったな」
ヤダフの心配も当然ラオ男爵に及んだ。
「ラオ男爵が心配だのう……」
◇
時は、少し遡る。ジンたちがパーネルからオーサークに戻って来た、冬が本格化する前の話だ。
ラオ男爵は、かつて自分が差配していた領主館のバンケットルームにいた。自分が座っていた席にはノオルズ公爵が収まっている。
「男爵。余が最も厭うのは面倒くさいことだ。男爵に限って、そのような思いを余に強いたりはしないだろうな」
奥歯にものの詰まったような遠回しな言い方をしたのではない。彼は本当に面倒くさいことが一番嫌いなのだ。なにが面倒くさいって、ラオ男爵のように民衆の支持がある女貴族を捕らえて、拘禁したり、拷問したり、挙句の果て、それによって民衆や、未だにラオ男爵に忠誠を誓う一部の官吏に恨みを買うなんてことは本当に遠慮願いたかったのだ。
ノオルズ公爵は鉄砲の件を、自分の配下を使って、一部のファルハナの民から硬軟使い分けて聞き出していた。だというのに、この女はしらばっくれている。
「殿下、私がどうして殿下に対してそのような思いを強いたりできるでしょうか? もし、そのような思いを殿下が私のせいでされているなら、私は王国貴族として失格です。どうか、追放してください」
「ふん。面倒くさい。もう良い。猿芝居は飽きたぞ。…‥鉄砲だ。そなたらが寡兵でフィンドレイどもを退けた時に用いた新兵器だ。余はそれについて全て知っておるのだ」
ノオルズ公爵が鉄砲のことを知っていることを、ラオ男爵は知っていた。こう言われて、どう対応するか、すでに頭の中で何度も何度もシミュレーションをしてきていた。
「はて、テッポウですか? 寡聞にして聞いたことのない武器です」
「余と近衛がこのファルハナに到着する前に、街を出た一団がいることも聞いている。何度も言わせるな。余は面倒くさいことが一番嫌いなのだ」
「殿下。殿下もご存じの通り、この街はいま大変な状況にあります。南部が壊滅したことで、食料不足は今や顕在化してきております。私は南部の状況を聞いて、すぐに大規模な商隊を派遣して食料の確保に当たらせました。殿下がおっしゃっているのはその一団ではないかと思料いたします」
ノオルズ公爵は、本当に面倒くさくてイライラした。すでにその一団がシャヒードというラオ男爵の騎士が率いる移民団だったこともとっくに把握していた。それなのに、この女は白々しくもこんな言い分を並び立てている。
「もう良い。余はこのやり取りに飽きた。おい、アジィス、面倒だが男爵を牢にぶち込んでおけ。そのうち反省して、頼みもしないのにベラベラと話し始めるだろう」
アジィスは衛兵二人に命じた。衛兵たちは食卓からドレス姿のラオ男爵の両腕をそれぞれが片腕ずつ抱えて、無理やりラオ男爵を立ち上がらせた。
「殿下、どうかご再考ください。もし、私に叛意などあろうものなら、そのテッポウとか言う兵器で殿下の軍と戦っていたはずです。それどころか私は殿下と殿下の軍を迎え入れ、私は治安維持の役目から身を引きました。殿下はそれをご覧になっていたはずです」
「ふん。言いよるわ、この女狐が。余の情報網を侮るでないぞ。……まあ、良い。いずれにしても、お前は牢屋行きだ。……連れて行け」
◇
今、ラオ男爵は地下牢にいた。領主館の離れにある警ら遁所の地下だ。男爵自身、何度かこの牢に不届き者を閉じ込めたことがあった。
ここに入れられてから、すでに二ケ月が経っていた。美しかった赤毛の髪は皮脂と汚れでごわごわになり、寒さから崩した体調はなかなか戻らず、ずっと咳き込んでいた。
ファルハナの食糧難はどうやら本格化してきているようだった。牢の衛兵がそんな話をしてきたことがあった。
「お前の騎士だと名乗る男が大量に食料を持ってきてくれてな。おかげで助かったぞ。そのお礼だ」
衛兵はそう言っていつもより丸パンが一つだけ多いプレートを鉄格子越しに遣したのだった。
(ファニングスか。戻るなと言ったのに戻ったのだな……この様子だと代官領の父上も母上にもノオルズの手が伸びているかもしれないな)
ラオ男爵、いや、彼女には王国貴族という立場はもうなくなっていた。王国唯一の継承者、ノオルズ公爵から罪人扱いされているのだ。今や、ただの囚われ人、ノーラだ。
ノーラはこんな状況にあっても、考えることをやめていなかった。
(ノオルズは絶対にファルハナを出てアンダロス北東部、イルマスを新しい都にすると思っていたがな。冬が来る前に、ファルハナで体制を整えてイルマスに入るつもりが、何かがあったのだろう。何か……まあ、あの腰ぎんちゃく侯爵がここに来てノオルズに叛旗を翻したんだろうな)
ノーラの推測はおおよそ当たっていた。イスタニア湾に面する大きな港町イルマスの領主、〈腰ぎんちゃく侯爵〉ことウェストファル侯爵は〈政変〉の際、ノオルズ公爵にくっついて離れなかった。リーズ皇太子の学問の先生をしていたウェストファル侯爵だったが、ノオルズとリーズの力の差を測ったうえで、ノオルズ側に立った。彼の読みは的中して、リーズ皇太子派は破れて、ウェストファル侯爵家は豊かな港町を支配する侯爵家として、ここに残った。
そこに来て、この津波による南部アンダロスの被害、それにまるで避難民のようにファルハナに逃げてきた次期王であるノオルズ公爵。早馬でイルマスへの遷都とウェストファル侯爵の格上げの打診をしてきた。
ウェストファル侯爵は計算した。滅んだ王国の官位や爵位が上がったところで何の意味があろうか。必要なのはこのイルマスの持てる富だ。だからこそ、ノオルズ公爵はここへの遷都を言い始めたのだ。ならば、ここで諾々とこんな馬鹿げた提案を受け入れる云われはない。相手は王子であろうが何であろうが、所詮たった二千の軍勢しか自由にできない物乞いなのだ。極めて丁重にお断りするしかなかった。
ノオルズ公爵は焦った。今の弱体化した王国にあっては近衛兵を中心とする二千人の兵は決して弱くはない。弱くはないが、イルマスの領兵一万人を倒せるわけがない。
そんな逆境にあったノオルズ公爵に鉄砲の話が舞い込んだ。特別、手の込んだことを彼がしたわけではなかった。近衛兵の一人がファルハナの街の飲食店で食事をしていたところで、酔客がフィンドレイ戦での武勇伝を大声で話しているのを聞いた。時折出てくる「テッポウ」というキーワードに注目したこの近衛兵は無能ではなかったのだろう。彼はすぐにそのことを上司に伝え、数日後には情報の裏取りが出来た。
すぐにその新兵器を使えるように段取りを整えたのがラオ男爵と彼女の両親であることが分かった。
ノオルズ公爵は小躍りして喜んだ。
「これであの小癪なウェストファルを打ち取れるぞ」
しかし、ノオルズ公爵にとって、現実は甘くなかった。ラオ男爵も彼女の両親もまるで彼に協力しない。
(余は次期王であるぞ!)
彼が心の内でそう叫んでみても、ラオ家の連中の口は堅かったのだ。
◇
体の芯まで凍らせるように寒く、暗い牢の中で、ノーラはここまで考えてから、やせ細った頬を少しだけ引き上げて、ニヤリとした。
ノオルズ公爵の、あのでっぷりと突き出た腹と、あの物言いを思い出すだけで、かつて王国に忠誠を誓っていたことなど全くといって思い出せないようになっていた。自分はここで死んでいい。ただ、あいつにだけは鉄砲は与えない。それだけは守り通す。ノーラの心にあるのはこれだけだった。
「お前などにこのファルハナを、このアンダロスを自由にさせるものか」
そう独り言ちた。